2017年11月02日

【回想録】居眠り運転

 繁華街の交差点での思い出。
 赤信号の右折レーンで先頭車に続き停車してしばらく、青信号になったのだが、前の営業車が出発しない。
 こういうことはあまりしたくないのだが、あまりにスタンバイが長いし後続車もいるので、クラクションを短くひとつ。しかし反応がない。車窓越しに見えるドライバーも微動だにしていない。

 しかたない。クルマを下りて、前の営業車を覗きに行くと、なんとそのドライバー、よだれを垂らして寝ているのであった!
 窓ガラスを何度叩こうと起きる様子がない。こちらは後続車もいるので、気が気ではない。声も掛けてみるが反応なし。
 とりあえず、情報を共有しようと後続車のもとへ行って、そちらのドライバーさんに話しかける。

 後続車ドライバー「どうしたんですか?」
 わたし「なんかねぇ、寝てるんですよ」
 後続車ドライバー「えぇっ!」
 わたし「とりあえず、わたしが起こしますから、左の安全確認して、抜いてっちゃっていただけますか?」
 後続車ドライバ−「わかりまし、あっ!」
 わたし「えっ!?」

 後続車ドライバーの視線を追うと、もう黄信号に変わった交差点を、先頭車が猛然とスピードをあげて走り去って行くところだった。件の先頭車ドライバーがとび起きて、急スタートさせたらしい。もちろん右折レーンを無視である。
 残されたわたしたちはポカーン。

 わたし「そ、それでは次の信号で出ますから」
 後続車ドライバー「わかりました。お互いおかしなクルマには気をつけましょう」

 今思うと、あの先頭車ドライバーはてんかん≠フ発作を起こしていたのかもしれない。
てんかん≠フドライバーが発作を起こして、歩行者の列に突っ込む事件が続発し問題となる、数十年も前の出来事であった。

 わたし自身は、居眠り運転はしたことがないし、本当に危なそうなときは安全な場所に停めて、十数分でもいいから仮眠をとるよう努めている。
 おかげでいまのところ、居眠り運転事故のようなことは経験したことがない。
 それでも、「仮眠しよう」と決意するに至る、眠気が満ちてくる時間というものはあるもので、それを凌ぐのはなかなか大変である。
 わたしのクルマには、助手席に可搬型細君ナビが搭載されているのだが、この細君ナビはたびたびスリープモードに入るので、居眠り運転防止には役に立たない。
 以前も書いたが、大雪のスキー場への道のりを、チェーンを巻いたクルマで尻を滑らせながら登っていくときですら、スリープモードに入っていたほど高性能なのである。こっちは滑るたびに肝を冷やしていたというのに。

 居眠り防止として、ガムを噛んだり、窓を開けて外気を入れたりするのだが、なかなかこれは! という効果はないものである。
 普段、ベッドに入ると寝つかれないで、一時間、二時間と目が冴えてしまうのに、こんなときに限って眠くなるのだから腹だたしい。

 今でも思い出すのは、北海道からの帰り道、東北道下りの夜の運転で眠くなったときのこと。このときは事情があって、行きは細君とその友人の三人旅、帰りは一人で運転での帰路であった。
 夜の東北道下りは単調で眠い。しかもPAで夕食をとったあとで、疲れも出て、睡魔が覆い被さるように体を包む。
 このままではまずい。コックリきそうだ。ウトッとしかけたわたしは、とっさにドアポケットにあったボールペンを手に取ると、エイヤッと自分の右太ももに突き刺してみた。
 いや突き刺したといっても、映画のようにズブリとではなく、先端でグリグリする程度。

 だが効果はあった。少しだけ。

 そんなこんなで、何度も自傷行為を繰り返しながら次のPAまでたどりつき、やはりそこで仮眠を取ることにした。
 ひと眠りしてから起きて確かめると、ボールペンに血は滲んではいなかったが、ズボンに幾筋ものボールペン跡が着いていて笑ってしまった。その頃には、もう白々と夜が明けていたのを思い出す。

 やはり仮眠に勝る居眠り運転防止策はないようである。

 最初に戻って、てんかん≠フ方が運転をする件。わたしは無碍に「てんかん患者から免許を取り上げろ」とは言わない。きちんと服薬を続けていれば、運転をしても問題ないことを知っているからである。公道で危険運転をするDQNよりよっぽど安全だ。
 逆に言えば、どうして、てんかんを自覚していながら服薬をきちんとしない患者がいるのだろうとは思う。他人に迷惑をかけることはもちろん、自分で運転中、意識を失うかもしれないことが恐くないのだろうか。
 わたしは、もし自分が運転中意識を失う病になったとしたら、恐くて服薬なしではハンドルを握ることはできないだろう。自分が畳の上で死ねるとは思っていないが、気づいたら煉獄(*1)にいるなど最悪である。
 是非とも、該当者には自重を望みたい。

(*1)カトリックには「天国」と「地獄」の間に「煉獄」があるという教えがあり、よほどの聖人でもなければ、死者はまずそこに送られて火で清められ罪をあがなってから天国へ行くというロジックがある。「気づいたら天国」などと言ってしまうと、ちょっと謙遜が足りないと思うのでこう書いてみたり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録