2017年11月04日

【書評】キリスト教は「宗教」ではない

 竹下節子「キリスト教は「宗教」ではない」

 今まで数々の「キリスト教の本」をご執筆していらっしゃる竹下先生の新著が「キリスト教は「宗教」ではない」というタイトルなのだから、これは手にとって読んでみたくなる一冊。



 サブタイトルには「自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜」とつけられている。

 個人的な理由であまり精読している時間がなく、竹下先生の言わんとするところを誤読している可能性もあるのが歯がゆいが、いささか挑発的な、この「宗教」ではない≠ニいう一文は、むしろイエスの教えが「宗教」的ではなかったからこそ、「キリスト教」が普遍宗教に変わっていったのだという根源的なロジックを、世界史から逆に読み取っていこうという大胆な試みを反映したものだという感想。

 本書は、原始キリスト教を「イズム」として捉えることから始まる。イエスの教えは本来、普遍的な「生き方マニュアル(イズム)」であり、もともとのユダヤ教だけではなく、宗教というもの自体からの自由を得ることだったのだ、と。

 日本人のほとんどは(エセ)仏教徒だが、仏教は宗教というより哲学だ、と言われると「そうだよな」とうなずく人も多いのではないだろうか。
 原始キリスト教もまた、仏教と同じような面があった、ということである。

 章は進み、世界史の中で「イエスの教え」が「キリスト教」になり、普遍宗教として成熟していく様子が詳説される。それが可能だったのは、まさしく「キリスト教が宗教≠ナはない」ロジックだったからだと。隣人愛という普遍的な利他意識が通奏低音にあったからこそ、普遍宗教たり得たという視点は、意外と、どころかキリスト者であるとむしろ盲点になっているような気がする。

 実に読み応えがあるのは第四章「宣教師たちのキリスト教」である。
 日本の戦国時代に訪れた宣教師たちは、ちょっと斜に構えた歴史好きに言わせると「日本の隷属化を目指した」などと揶揄されるが、実はもっともっと純粋だったのだ、という例が豊富に載せられている。
 また、この章にある――

 言い換えると、キリスト教は、「普遍宗教がカルチャーとしてしか表現できない」ことをヒエラルキーの頂上において自覚した珍しい宗教である。


 という一文は、まさしく「目からウロコ」の気づきであった。

 そして、本書を閉じ全編を通して思うのは――竹下先生、本書は実は、竹下先生の信仰告白本でしょう、ということだったり。

 タイトルが挑発的ではあるが、この一作はまさしく、竹下先生のキリスト教へ深い理解と、キリスト・イエスへの愛がにじみ出ている労作なのだと。
 その愛は教派を越えて――と書きたいところだが、少々(かなり?)カトリック寄りに感じるところも、カトリックのキリスト者として嬉しい。

 正直、今まで拝読していた竹下先生の本の中で、「ちょっと読みにくいな」というひっかかる部分があったりしたのだが(個人的に読書がつらい環境だったことが原因。これは先生の責任ではない)、「この本は先生の信仰告白本なのだ!」と気づいてからは、読み進めるのが実に楽しくなった一冊である。

 あと、とても面白かったのが、バッハの――

聖金曜日のライプツィヒで『マタイ受難曲』が初めて演奏された時には、最初のコーラルの時点で一人の婦人が「主よ、あなたの子らを守りたまえ、これではオペラ座か劇場にいるのと同じです」と叫んで教会を出て行ったという逸話が残っている。


 という話。ちょうどバッハのカンタータを流しながら本書を読んでいたので、大ウケしてしまった。

 いつの時代にも反動はあるが、キリスト教はその「反動」をこそ好意的に受け止めるイエスの教え(イズム)があったからこそ、二千年の歴史を刻んできているのである。

「宣教の沼地」日本にいるキリスト者としては、「宗教」であるキリスト教に満足して、その根源である「信仰・希望・愛」を見失っているのではないかと内省させられる。

 ノンクリはもちろん、むしろキリスト者にお読みいただきたい一冊である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評