2017年11月12日

【日記】暗いと不平を言うよりも

 すすんであかりをつけましょう。

 これは皆様ご存じ(かな?)、カトリックの宣教番組「心のともしび」のコピーである。
 義務教育と高校の頃、バス・電車通学だったわたしは、学校へ早くいくために、早朝のニッポン放送を聞いていたものだった。その時間帯に「心のともしび」が流れていたのである。
 今思うと、わたしのカトリック体験は「心のともしび」が初めてだったのかもしれない。

「心のともしび」には別のコピーもあった。「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない――聖パウロの言葉より」である。これは1コリ13:1の意訳であるが、聖書由来の言葉である。正確にはこう。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリントの信徒への手紙一 13:1)


 1コリ13はなんちゃってキリスト教の結婚式でもよく朗読される箇所なので、ご存知の方はいらっしゃると思う。最後の節はこんな感じだ。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一 13:13)


 言ってくれるぜ聖パウロ。そこにしびれる、あこがれるゥ!

 この「聖パウロの言葉」は、コンタロウ先生の「1・2のアッホ」というギャグマンガでツッコミに一度使われ、当時小学生だったわたしは爆笑した覚えがある。当時から不敬な子どもである。
 ま、パウロは自分に酔って、ときたま自分でもわけのわからないことも言うからね(笑)。

わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。(コリントの信徒への手紙一 10:19)


 こんな感じ。

 さて、「聖パウロの言葉」は聖書由来だが、ずっと「暗いと不平を言うよりも」の方はどこ由来なのかを不思議に思っていた。「暗いと不平――」のような箇所は、意訳であっても聖書の中に登場しないからである。

 今回、「心のともしび」のメールマガジンでその由来を初めて知ったので、ご存知ない方のためにも、ぜひご紹介したい。

 第二次世界大戦より前、アメリカにケラー神父という方がいらっしゃった。
 そのケラー師、講演のため中国を訪れたとき、たった一本のマッチで暗かった会場が隅々まで照らされるという素晴らしい体験とともに、中国に伝わる「有灯掌 在暗処」ということわざを知ったのだそうである。
 ケラー師は終戦の年の1945年、アメリカで「心のともしび」と同じような宣教番組「クリストファー」を開始し、そのときのコピーを「It is better to light a candle than to curse the darkness.」としたのだった。

 ケラー師のもと「クリストファー」で働いていたマクドナル神父は、1964年に「心のともしび」で働くようになったとき、同労のハヤット神父に「It is better to light...」の話をしたとのこと。
 ハヤット師はその逸話に感動し、このコピーを日本語に翻訳した。
 それが半世紀を越えた今でも日本人に愛されている「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」なのである。


 恥ずかしながら、この由来を知らなかった。もとは中国のことわざであったのだという。

 あかりと言えば、カトリックにはこんな笑い話がある。

 カルメル会とフランシスコ会とイエズス会の各神父が、夜、会合を開いているとき、停電になった。あかりの消えた部屋で、カルメル会の神父は闇の神学≠ノついて語り、フランシスコ会の神父は暗闇を賛美する歌を歌い、イエズス会の神父は部屋を出てブレーカーを上げた。


 バージョンによって、ベネディクト会(祈り続ける)、ドミニコ会(闇の神学=j、フランシスコ会はうたた寝、などというものもある。

 この笑い話から言うと、「心のともしび」運動はイエズス会的という感じだろうか。

 ハヤット神父さまは2009年1月14日に帰天された。
 わたしが洗礼を受けたとき、「心のともしび」を子どもの頃から聞いていた思い出をメールにしてハヤット神父さまにさしあげた。神父さまからは丁寧なお返事をいただき、恐縮したものだった。

「カットリク!」なんてやっている不敬な信徒ではあるが、天国のハヤット神父さまに、神父さまのまいた種は、枯れることなく育っていると伝えたい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記