2017年11月19日

【日記】五十肩と「あしあと」

 認めなければならないようだな。自分の、老いゆえの痛みというものを。

 というわけで、「【回想録】側弯症」の記事冒頭でも書いていたのだが、左腕が痛くて自由に動かなくなってしまった。最初は「なんだか痛くて可動域が狭くなったな」程度で済んでいたのだが、今は衣服の脱ぎ着も、風呂で背中を洗うこともできない。
 幸い、キーボードに向かう程度の可動域や作業では痛みはないが、いよいよ重いものは持てなくなってきた。

 しばらく我慢すれば急性期も去り慢性期が来る。その慢性期にストレッチをさぼると肩の可動域が狭くなってしまう、ということをネットで知ったが、今、自分が急性期なのか慢性期なのかもよくわからない。
 細君が、とりあえずの対症療法として、背中を掻くための伸縮可能孫の手≠買ってきてくれた。
 様子を見続けるか、病院へ行ってみるかは、ここ二、三日の進展具合に賭けることにしよう。

「肩」といえば思い出すのは、クリスチャンの間で知られた「Footprint」という詩である。カナダのマーガレット・フィッシュバック・パワーズという女性が1964年に書いたもの、というのが定説だ。原文の英文は「Christian Footprint」で検索すればすぐに読めると思うので、ここではわたしの拙い意訳でご紹介したい。

 あしあと

 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは主とともになぎさを歩いていた。
 暗い空を裂くように、わたしの人生の場面場面が輝いていった。
 わたしは気づいた。その場面ごとの砂上に、ふた組の足跡が残っていることを。
 ひとつはわたしのもの。もうひとつは主のもの。
 最後の場面が映し出されたとき、わたしは砂上の足跡を振り返ってみた。
 そこにあったのは、ひと組の足跡だけ。
 それは、わたしの人生で、一番つらいときだったというのに。
 わたしは主に問いかけずにはいられなかった。
「主よ、わたしがあなたについていくと決めたとき、あなたはいつも、ともに歩いてくださるとおっしゃいました。でも、わたしが一番つらいとき、足跡はひと組しか残っていません。わかりません、主よ、なぜ。わたしがあなたを一番必要としているときに、わたしをひとり、残しておかれたのですか?」
 主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ、あなたを大事に思っているよ。あなたを決してひとりぼっちになどしない。あなたが試練に打ちのめされているとき、一組の足跡しかなかったのは――わたしがあなたを背負っていたからなのだよ」


 この詩はずっと「書き人知らず」であったが、こんな逸話とともに作者が再発見されたと聞いている。

 この詩を書いて25年後、マーガレットと夫ポール、そして娘の三人は事故に遭ってしまった。ICUで集中治療中のポールのもとに看護婦がやってきて、上記の「Footprint」を読み、祈った。この詩は作者不詳である、と言って。
 ポールは答えた。「わたしは知っています。作者を知っていますよ。それは、わたしの妻です」
 その後、三人は無事危機を乗り越えることができたという。

 上記の逸話は「あしあと 多くの人を感動させた詩の背後にある物語(太平洋放送協会刊)」に記されているそうだが、わたしは残念ながら同書を読むことができていない。なので、ネットでわかる最大公約数的な情報を、叙情もなにもない文章で記してみた。
 バージョンによっては、ICUにいるのが妻マーガレットで、ポールは付き添っていてこの詩を聞いた、となっているものもある。これもネット伝聞で変質していっているようである。

 この原作者の発見話は、もちろん感動的で奇跡的だが、しかしあえて言えば、Footprintという素晴らしい詩に加えて必要な情報だろうか。多くの人を励まし、今でも力づけているFootprintは、それそのまま口伝えしていかれるものでいい、とも思う。

 アイルランドの音楽グループ「セルティック・ウーマン」の曲に、「You raise me up」という歌がある。フィギュアスケートなどでも使われたそうなので、ご存知の方は多いだろう。
 その歌詞に、こんな一節がある。

You raise me up to walk on stormy seas;
I am strong when I am on your shoulders;
(Celtic Woman「You Raise me up」より引用)


 一行目で、イエスが湖上を歩いたシーン、二行目で、Footprintを連想しないクリスチャンはいない。
 この曲を「素晴らしい信仰告白の曲」と紹介したシスターに、日本人の女性が「恋の歌です。勝手に宗教ソングにしないで」と噛みついていたことがあったが、残念、それは日本人的発想。キリスト教文化圏においては誰でもわかる、これはあからさまに信仰告白の曲なのである。
 この曲を恋の歌と言い張るのは、与作が木こりではないというくらい無理がある。そんなたとえができるくらい自明なのだ。

 ところで、わたしの肩が今、こんなに重いのは、神さま、わたしがあなたに背負われているのではなく、まさかあなたがわたしにおんぶしているのではないでしょうね!?
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記