2017年11月21日

【昭和の遺伝子】釣り堀の思い出

 やったー!
「とびだせ、どうぶつの森」をコツコツ遊び続け、タイムトラベルもせずに三年、ついに、ついにやりました。







 ご褒美として「きんのつりざお」をいただけましたヤター。
「きんのつりざお」になると、より釣りのタイミングが甘くなる(釣りがうまくなる)という話だが、釣り名人になってからくれるというのは、なんだか、本末転倒なような気がしないでもない。

 現実の釣り体験と言えば、実は子どもの頃、父親と一緒にちょっと釣りをした体験しかない。
 わたしの父は昭和初期の田舎出身なので、子どもの頃、自作の竿で川に行き、釣りを楽しんだそうだ。昔はいろいろな魚が家の裏の川で釣れたものだ、と懐かしげに言う。

 一緒に釣りに連れて行ってもらったのは、海と釣り堀≠ナある。針にエサをつけてもらって、海に浮きを入れたはいいものの、すぐに魚に持って行かれてしまって、釣り自体は「なんだかつまらないなぁ」という感想しかなかった。なにぶん、飽きやすい子どもである。それでも、父と一緒に過ごせる埠頭は楽しく、一日遊んで真っ黒になって帰ったという記憶がある。

釣り堀≠ヘ、家から歩いて五分のところにあった。
 わたしが育った街は、ある大企業の城下町≠ナあり、街全体がショッピングセンターのようなものであった。
 そこの釣り堀も、父に連れられて何度か一緒に行ったのだが、のんびりとした雰囲気が良かったという思い出しかない。わたしはどうも、釣りに興味を示さない子どもであったようだ。

 その頃でも、マンガの「釣りキチ三平」の一巻は読んでいた。作中に出てくる「鮎の塩焼き」の作り方が美味しそうで、大きくなったらやってみたいなぁ、と思っていたが、結局、釣り趣味人にはならなかった。


(矢口高雄「釣りキチ三平」1巻より引用。左下の「青竹焼き」が美味そうです)

 釣り堀の思い出はそれくらいしかないが、そこから流れていた用水路には忘れられない思い出がある。
 まだわたしが小学校低学年、姉が高学年の頃、ふたりで冒険をしに、その釣り堀のちょっと先まで行ってみたのだ。
 姉が用水路の上にかかっている、10センチくらいの幅の足場を使って、ヒョイヒョイヒョイ、と向こう岸に渡っていってしまった。その上で「恭介は危ないからきちゃダメ!」と言うのである。
 わたしは取り残された不安で、えぇー、と思い、ついていってしまった。幅10センチの橋渡り。今なら気分はカイジの鉄骨渡りである。そして案の定――落ちてしまったのだ。
 いきなりバシャンと水が首の上まで来て、喫水線が目の上を過ぎていったのを覚えている。
「この莫迦!」と姉が叫び、すぐに手を伸ばして助けてくれた。
 なんとか助かったからいいようなものの、子ども二人の冒険譚。今、思うと、あのときわたしは死んでいてもおかしくなかったのである。
 昭和はそのあたり、実に鷹揚であった。当時はおそらく、わたしのように莫迦をやって死んだ子どものニュースなどあまり記事にならないから、人知れず、多くの子どもが成長する前に亡くなっていたのではないかな、などとも思ったり。

 昭和が終わる前に、その釣り堀は閉鎖され、土で埋められて駐車場になり、平成になってからはアパートが建てられるようになった。
 今、その地につくられたアパートの住人に、そこは昔、釣り堀があったんだよ、と言っても信じないだろう。

 用水路に落ちたわたしは、ワンワン泣きながら、全身びしょ濡れのまま、姉に連れられて家に帰った。怒られたかどうか、記憶にない。ということは、怒られもしなかったのだろう。
 昭和は、そういう時代であった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子