2017年12月31日

【回想録】大晦日の思い出

 大晦日くらいは、それにちなんだ思い出を書くことにしよう。
 去年は確かNHKの「紅白歌合戦」について書いたと思う。
 その昔は、「紅白歌合戦」が終わったあとの「ゆく年くる年」は、各局とも同じ内容だったのである。つまり、どのチャンネルを回しても同じ画面が流れている。これはちょっと不思議な感覚であった。

 各局でどこも同じ画面が流れているが、これがまた、微妙に色合いが違うのである。それが知りたくてガチャガチャチャンネルを回して怒られたことを覚えている。

 我が家は近所のお寺からは遠く、それでも冬の深夜だけに、ゴーン、ゴーンと除夜の鐘が鳴るのが聞こえた。明らかに百八つ以上鳴っていたのは、並んだ客へのサービスなのだろう。

「ゆく年くる年」が終わると、各局とも、またそれぞれの番組へと戻っていくのだが、今と違って深夜の視聴率が取れない or 問題にされなかった時代には、よくその時間帯に、過去の名画が流れたのであった。「シェーン」とか「マイ・フェア・レディ」とか「ティファニーで朝食を」とかを、その時間帯に観たことを覚えている。

 家庭用ビデオすらない時代である。今なら古い映画でも、セル or レンタルDVDはもちろん、ネットでも観られる時代だが、当時はテレビで放映されるチャンスを逃すと、次はいつ観られるのかがわからなかった。それだけに、テレビで流される名画を観られるのは至福であった。

 テレビを観ていたのはこたつであった。今のように椅子が普通の生活ではなかったなぁ。
 テレビの大きさも、驚くなかれ、14型である。そんな小さくて、角の丸いブラウン管を、家族四人で観ていたのだから、時代は今と比べれば貧しかった。

 結婚して、カトリックの洗礼を受ける前は、年が明けたら近所の神社へ行ってお参りし、年によってはお寺まで行って除夜の鐘を鳴らさせて貰い、帰りにセブンイレブンでおでんを買って食べたり、深夜営業のファミレスへ寄るのが定例行事になった。
 その頃、わたしたち夫婦は「冬コミ」の島の中の人であったので、これで本当に今年も終わったねぇ、と、ホッと一息つくのが常であったのだ。

 カトリックの洗礼を受けてからは、1月1日の「神の母聖マリア」ミサに必ず与っている。一度、新年の午前零時から開かれる英語ミサにも与ったことがあった。あれはとてもよい雰囲気であった。

 ふりかえると、自分は新年になると、長い間、神道、仏教と節操なしにお参りに行っていて、結局最後はカトリックに落ち着いたのだった。
 祈り自体も、少しずつ、変化しているように思う。昔は、祈ればそれに神が応えてくれる自動販売機のように思っていた。今はそうではない。ただ、いつも主がともにいてくださいますように、と祈っている。

 神道の神を信じる人も、仏教の神を信じる方も、キリスト教の神を信じる方も、それ以外のものを信じる方も、そして、なにも信じないという方にとっても、来年が、みなさんにとって、よいお年でありますように。

 行きましょう、主の平和のうちに。
 神に感謝。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年12月30日

【日記】ながら仕事ができなくなった

 若い頃はそれこそ、「新聞を読みつつ文庫本を開き、テレビをつけっぱなしにしてラジオを流しながらポップスのCDをかけつつ」仕事をするということが可能だった。

 それだけ、集中力があったのである。それらひとつひとつを同時に脳内で処理していたわけではない。タイムシェアリングで面白そうな情報をピックアップしつつ、メインの仕事をこなせていたわけだ。

 それができなくなったのは、どうも未来の細君とつきあい始めた頃からのようである。

 未来の細君が仕事場に遊びにくる。こちらは仕事をしたいのだが、彼女がいろいろ話しかけてくるので、それに答えなければいけない。これらは上記のタイムシェアリングとは違い、生半可な情報処理能力ではできない。なんとなれば、選択肢に失敗すると好感度が下がってしまうからである。ギャルゲーかよ(笑)。

 わたしはあまり家庭用ゲーム機(ファミコンなど)で遊ばないタチだったのだが、そこで未来の細君に「テレビゲームでもやってたら?」と水を向けてみた。さらに、言わなければいいのに、口を滑らせてしまったのである。「いや、ゲームでもやってくれてれば、こっちはこっちの仕事ができると思ってさ」

 三択失敗! 未来の細君の拗ねることへそを曲げることへちゃむくれること。
 ここで彼女を責めるわけにはいかない。なにしろ、彼女も若かったのである。

 しかしまあ、押しかけ女房ではあっても、世話女房ではなかったことは確かだね(笑)。

 そんなこんなもありまして、わたしは仕事をするときは、ヘッドホンをかけ音楽を流して、外部の世界と隔絶した状態で書く、ということに落ち着いたのである。

 それに慣れたら、いつの間にか、ながら仕事ができなくなってしまった。仕事どころか、普通に生活しているときでも、テレビドラマの音声とかが流れていると気を取られてしまってダメ。右から左へ聞き流す、ということができなくなってしまったのである。
 読書なども集中して一巻通して読まないとダメ。途中でいったんしおりをいれてしまうと、つぎにそこを開けたとき、はて、どうしてこうしてこうなったんだっけな? と思い返してしまい、なんとなく、シラけてしまうように。だからわたしは、圧倒的に単行本派。それもなるべく完結作品を読む派である。

 細君はこの「ながら仕事」が平気である。前にも書いたかもしれないが、テレビドラマを倍速再生しつつ、スマホでゲームをしながら、Adobe製品を駆使している。今のわたしにはとうていできない。
 わたしから「ながら仕事」のスキルを奪っておきながら、シ、シドイわ……。

 女性は右脳と左脳をつなぐ脳梁が太いので、ながら仕事が得意。反面、男性はそれが細いので単機能型だ、と聞いたことがある。
 最近、自分でフライパンを振るようになって思うのだが、家事というものは同時にいろいろなことをこなさなければならない複合機能型の能力だなぁ、とつくづく思う。
 よく、「家庭の家事はいくらいくらの労働対価がある」という記事に、莫迦な男が「そんなわけあるか」と言ったり「俺でもできること」「男と代わってみろよ」などと言うが、そういうことを言っている男のほとんどは家事労働の本質をわかっていない。家事労働は大変高度な複合的問題解決能力がないと回せない仕事である。しかもそれには、終わりがないのである。

 もっともこういうのは、本来、男女問わずの能力であるとも思う。いるでしょう。会社では有能な従業員なのに、家に帰ると部屋がゴミ屋敷と化しているお嬢さんが。
 現代では、そういう「単機能型(専門型)」人間が増えてきているのかもしれない。

 思えば、結婚というものも「複合的問題解決能力」がないとできないし、続けていけない最たるものであるかもしれない。
 最近、結婚率が下がっているのも、そのあたりに一因があるのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月29日

【日記】ブログ雑感

 たまにはこういう記事もいいでしょう。

 この記事が掲載されるのは、おそらく五週間から六週間後である。それだけ記事ストックがたまっているということで、カンのいい読者諸兄姉におかれましては「やけに季節感がズレている記事だなぁ」と思われる日もあったかと思う。

 それだけの記事ストックがあっても、なんとなく、安心できないのである。焦っている気分になっている。
 毎日書いていると、当然、今日はヒットだな、今日はピッチャーゴロだな、あー三振だ、というようなブレがあることを自覚している。今はちょっと、長期的に不調の波に入っているように思う。
 そう、体調も気分も、ここのところあまり思わしくない。アンコントローラブルなのである。
 むしろ、完全に「ライターズブロック」の状態になってしまえばあきらめもつくのだが、書き始めれば駄文でも文字数が稼げてしまうのだからため息だ。

 取りあえず、あまり長い記事は読者諸兄姉の負担にもなりかねないと言いわけして、一日原稿用紙三枚程度、と決めて書くことにしている。

 今の主治医の先生とは、数年間にわたり良好な関係を保っているおかげで、こちらの様子がすぐ見抜かれてしまう。今日、ショックだったのは――

「多少、お太りになられましたか?」

 ッガーン! 食事の量などは増やしていないのに。聞けば、服薬量を変えたので、人によっては太りやすくなるのだという。とはいえ、うーん、ショックだ。
 また「状態によっては一ヶ月ぐらい入院ということも考えにいれてくださってもいいんですよ」とも言われてしまった。はぁーあ。

 ブログのネタがないわけでは、きっとないのである。
 キリスト信者はよくこういう考え方をする。自分が苦しいとき、神さまがいらっしゃらないのではない、そこにいらっしゃることに、自分が気づいていないだけなのだ、と。
 きっと今のわたしも、同じ状況なのだ、な。

 ブログを毎日更新していたのは、「結城恭介は生きてるよ!」ということを発信したかったという理由がある。

 ホームページを閉じていた九年間のあいだに、音信不通になってしまったリアルでの知りあいの方、また、ネットで知りあった方々が何人もいらっしゃるのだ。
 福島在住で、311で犠牲になってしまったのでは、と心配している方もいらっしゃる。
 そんな方が「そういや結城さんどうしてるかな?」と検索して、ウェブサイトを発見してくだされば、という思いがあるのである。
 実際、そうやって何人かの方がご連絡をくれて、とてもうれしい思いをしたことが何度もあり、それがブログを更新する励みにもなっている。

 わたしはめったに「エゴサーチ」をしないのだが、ある日、服薬でボーッとしている朝、「このまま俺が死んだらどうなるかなー」と思い、Wikipediaで自分のページを見てしまった。そうしたら、最後に「以降、現在、存在不明」と書かれていて笑ってしまったのだ。
 わたしはずっと同じ家に住んでいるし、電話番号も変わらないままだ。それはずっと、毎年発行されている文芸年鑑にも掲載されている。今の世の中、ネットで隠遁すると、もう死んだことにされてしまうのだなあ、と。

 取りあえず、年内は意地でも毎日更新を続けるつもりである(なにしろこの記事を書いている時点で、クリスマスまでの記事ストックがあるのである)。
 来年になったら、月水金とか、そのくらいに自分のレギュレーションを緩めるかもしれない。そのあたりは、神さまと相談である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月28日

【日記】幼子殉教者

 12月25日は救世主イエスの降誕をお祝いするめでたい日だが、その三日後の今日、12月28日は、カトリックの典礼暦で「幼子殉教者(聖嬰児)」という、少々、血なまぐさい祝日となる。

 これは、新約聖書のマタイ2:16にある逸話を元にしたエピソードを典礼暦に反映させたものだ。救世主イエスがベツレヘム村に生まれるという話を聞いたヘロデ王が、将来の自分の身を案じ、その時期に生まれた同村一帯の子どもを全員殺させた、というもの。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。(マタイによる福音書 2:16)


 松本零士先生のSF、「ミライザーバン」の中に、この逸話をモチーフにした掌編がある。


(松本零士「ミライザーバン」1巻より引用)

 話のオチは聖書のそれよりも練りこまれていて、なかなか心に残る一編となっている。ご興味がおありの方は、電子書籍でお確かめを……。

 ヘロデのしたことは人でなしの所業だが、はたして、一日あたり500件の人工妊娠中絶が行われているこの日本で、それを「残酷だ」と斬って捨てることができるや否や。しかもその多くが、若者の間で増えているのではなく、分別を知った30代、40代の夫婦の間で「もう子どもを育てる余裕がないから」という身勝手な理由で行われているのだ。
 ヘロデ王は2000年前にいるのではない。一見、裕福で幸せに見えているあなたの隣の家族がそうであるかもしれないのだ。

 これは上記の「ミライザーバン」よりホラーな現実である。

 ただ教会は、どのような事情を持った方でも愛を持って赦す。特にパパ・フランシスコは、この問題にも前向きに取り組んでいらっしゃるようである。
 クリスチャンのわたしには、いわゆる水子供養≠ネどはわからないが、もし、自分の罪に悩んでいらっしゃる方がおられるのなら、一度、誰もいない昼のカトリック教会のお聖堂で、十字架の下で神さまにお祈りしてみられたらいかがだろう。

 さて、本日の「幼子殉教者」の祝日は、絶対に主日(日曜日)の典礼にはならないという悲しい宿命もある。
 なぜなら、主の降誕(12月25日)後八日の間にある主日は、自動的に「聖家族」の祝日となるからである。


(2014年12月28日主日の「聖書と典礼」。「幼子殉教者」ではなく「聖家族」の祝日が優先して祝われてしまう)

 カトリックは、洗礼時に洗礼名、いわゆるクリスチャンネームをつける。指導司祭がつけてくれる場合もあるし、自分で気に入ったものをつけていいよ、というケースもある。そのあたりはまちまちだ。
 一生、使う洗礼名であるし、後に変更は効かないから、これはなかなか悩むのである。
 最初に候補に挙がるのが、自分の誕生日の聖人。たとえばこの時期なら聖ステファノ。彼の殉教日12月26日が聖名祝日となっているので、その日が誕生日ならば「ステファノ鈴木太郎」とかつけるわけだ。これは明快でよい。なにか運命的なものも感じるしね。

 で――実は、わたしの誕生日が、今日なのである。12月28日。「幼子殉教者」。
 いろいろ調べてみたが「幼子殉教者」を洗礼名にしたという人は寡聞にして聞いたことがない。司祭や年季の入った信徒に聞いてみても「心当たりはないねぇ」という。

 洗礼志願者時代、こりゃあいっそのこと、この珍しい「幼子殉教者」を逆手にとって「幼子殉教者・結城恭介」という洗礼名もいいか、と悩んだ時期もあったが、結局、それほど「幼子殉教者」に思い入れがなかったので、別の聖人名にしてしまった。

 ちなみに、「洗礼名」「クリスチャンネーム」と書いてきたが、カトリック的には「霊名」と呼ぶのが一般的。しかも実を言えば、「霊名」は「洗礼名」ではなく「堅信名」の方を指すのが正しい。
 このあたりのことは、ここで書くとちとややこしくなってくるので、またそのうちに機会があったら書きましょう。

 というわけで「ハッピーバースデー自分」なのです。いやもう、めでたい歳でもありませんがね。
 なんにしろ、おかげさまで、もうひとつ、歳をとることができました。
 また一年、聖嬰児たちのとりなしがあることを祈って――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月27日

【日記】エッセルスーパーカップティラミス

 最近攻勢に出ている明治エッセルスーパーカップに「ティラミス」味が出たというので、遅ればせながら試食してみた。

 価格は「苺ショートケーキ」と同じ238円(近所コンビニ価格)。強気である。この価格帯だと同じエッセルスーパーカップでもスーパーには並ばない。
 というか238円なら、フツーにスーパーでティラミスが買えてしまう価格である。ううむ。

 外見はこんな感じ。



【日記】エッセルスーパーカップ苺ショートケーキでも「苺ショートケーキ」を紹介したが、どうもこれは、「エッセルスーパーカップ」の中でも「Sweet's」を冠するシリーズになるらしい。



 フタを開けてみると、おや? おなじみの白いフィルムシーリングではなく、透明である。このあたりから、ははぁ、あのうわさは本当だな、と思い始める。



 というわけでシーリングを外すと。でたー。うわさで聞いた「植木鉢」。なるほど確かにこれは植木鉢。なにかの種を埋めてみたくなる衝動がわかりますな。



「苺ショートケーキ」と同じように、層が凝っている。一番上はココアクッキー(土)。下はエスプレッソソースをクリームチーズ風味のアイスとマスカルポーネ使用のアイスで挟み込んであるとのこと。

 味は「苺ショートケーキ」の華やかさと違って、落ち着いた甘さ(とはいえ、甘党が言う落ち着いた甘さ≠ナすから)。とても上品な感じである。

 美味しいし、リピートもしたくなる。ただ難点を言えば、やはり「苺ショート」と同じく価格設定だろう。このお値段だとなぁ。スーパーの「切れ端ケーキ」などが買えてしまう。午後のひととき、サイフォンでのんびりコーヒーでも入れてくつろぐならば、やはりアイスよりケーキの方が良い。

 とはいえ、「苺ショートケーキ」と「ティラミス」を限定品ではなくレギュラー商品にしたという明治の英断には拍手。もっと暑い季節になったら、けっこう店頭で衝動買いするようになってしまう気もする。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記