2017年12月26日

【日記】やっぱり五十肩

 五十肩だとばかり思っていた左上腕の痛みが「五十肩ではないよ」と診断されたという話は「【日記】五十肩だと思っていたら」に書いた。
 それ以降、その医院に定期的に通い、低周波治療と一緒に肩を暖め、さらにマッサージも施術してもらっているのだが、よくなるどころか、むしろ状態は悪くなる一方である。
 最初は背中に手が回せない程度で済んでいたのだが、今や左の上着のポケットからなにかモノを出すのにも痛くて難儀する次第。左を下にした寝返りもうてないし、安静にしていてもジンジンと痛む。

 もちろん、「【日記】五十肩だと思っていたら」にも書いた左手マウスオペレーションは自重して、もう無理はしていない。

 そうこうしているうちに、ついに左腕が上に上げられなくなってきた。腕組みもできない。朝起きてベッドメイクをすると激痛にのたうち回る醜態。
 最初に罹った医院では、以降、ずっと整体師の施術(低周波治療)ばかりだし、医師の再診もなく、クスリとシップ薬が出続けるだけ。しかもお薬手帳にシールを貼ることもない。
 第一、最初にレントゲンすら撮りもしなかったのだ。
 わたしはドクターショッピングはしないタチだが、こりゃあ、ひょっとしてあれなんじゃないの? と、さすがに他の医師に罹ってみることにした。

 そちらの医院はもうちょっと大きい病院。子どもの頃から何度もお世話になっているが、資本が変わってからは縁がなくなっていたので行くことがなくなっていたところ。
 こっちの整形外科は、丁寧にレントゲンを二枚、別角度から取って、さらに医師が細かくいろいろと見てくれた。

 結果――やっぱり五十肩でしたorz
 なんだよこのオチは、という感じだ。

 結局、今は肩を温め安静にしつつ、痛み止めとシップで耐え、その段階が終わったら徐々に動かすリハビリを、となるらしいが、要するに「時間が解決してくれるまで耐える」しかないらしい。
 この病院でも、出たクスリとシップが前の医院と変わらなかった、というのは、まあ、ちょっとホッとしたところである。違うのは院外処方で、そちらではちゃんとお薬手帳にシールを貼ってくれるところ。そして次回の予約は特になし。痛みが続いたらまた来てください、と。

 うがった見方だが、最初の医院は「五十肩」だと「時間が解決するしかない」症状だから連続して来院する患者にはならないので、別の名前をつけて施術に通わせる算段だったのではないか、などとも思ってしまう。

 ネットで「五十肩」を検索すると、それこそ山のように情報が多くリストアップされて、いったいなにが正しいやらわからなくなってしまう。オカルトっぽいものも多いし、いったいどうするのが正しいのやら。

 今までタッチタイプには支障はなかったのだが、左手首を浮かせてタイプするような上段キーは、ズキッとまではいかないが、重い痛みが上腕に残るようになりつつある。

 もともと体が硬いので、手が届く範囲が狭いのはそれほど苦にならないのだが、眠っているとき、痛みで中途覚醒してしまうのはよろしくない。夜だけは痛み止めのクスリを飲むことにした。

 本当に自分は、季節の変わり目に弱いのだなぁ、と思う(これを書いているのは十一月。突然暑くなったり寒くなったりの妙な時期)。
 むしろ、寒いなら寒い、暑いなら暑いで安定してしまえば、体調も安定してくるのだけれどね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月25日

【回想録】クリスマスカードの思い出

 これを書いているのは、十一月の下旬である。もう街にはクリスマスソングが流れ、空気も寒くなっていく中、雰囲気も華やかな12月24日目指して盛り上がっていく、そんな日常だ。
 典礼暦はまだ待降節にもなっていない。日本人は、キリスト教国より、よほど「クリスマス」が好きなのではないかと感じてしまう。

 外套を着て、そんな街を歩く。そして、ふと思い出すのは、二枚のクリスマスカードのことだ。

 一枚目のそれは、小学校一年のクリスマスだった。親戚のプロテスタントの子に、初めて「クリスマスカード」をいただいたのである。
 幼い字で書かれた「イエスさまのおたんじょうおめでとうございます」という言葉に、なにかクレヨン画でイラストがそえてあったと思う。
 クリスマスと言えば、なにかプレゼントが無条件でもらえる日、と思っていたわたしは、そのカードにびっくりしてしまった。
「イエスさまって誰だろう?」と、父母に聞いてみたかどうかは覚えていない。ただ、なにかしらのきっかけがあって、「クリスマスはイエスというキリスト教の偉い人の誕生日なんだな」ということは理解したのであった。

 クリスマスというものが、実際には「イエスの誕生*日*を祝う日」ではなく「イエスの誕生を祝う日」であることは、以前にも書いたが、子どもの理解力だからそんなものである。

 今思うと、あのときの一枚のカードがなければ、以降、恭介少年がキリスト教に興味を持ったり、聖書を読んだりすることはなかったようにも思われる。
 たった一枚のカードだが、布教の方法としては、実に効果覿面であったようだ。もっとも、プロテスタントではなくカトリックへ行かれてしまったのは計算外かもしれないが。

 二枚目のカードは、わたしの新潮社での、二人目の担当者だったMさんからだった。
 Mさんはとてもいい方で、爽やかでスマート、品が良く、年下のわたしにも礼儀正しく接してくださり、人格者≠ニいう言葉がこれほど似合う方はいない、という人。
 Mさんとはふつうに年賀状のやりとりをしていたのだが、あるクリスマスの日に「クリスマスカード」が届いたのである。
 なんと書いてあったかなあ。精緻な文字で「良いお年を」と記してあったような記憶がある。
 どうして新年が近いのに、あえてクリスマスカードを? とわたしは不思議に思っていた。その理由は翌年にわかった。Mさんのご兄弟はその年、闘病なさっていて、そして、年末に、他界なさっていたのであった。
 Mさんがクリスチャンでいらっしゃったのかどうかはわからない。それでも、Mさんがそのクリスマスカードをお書きになった状況を思うと胸が痛んだ。

 この二通のクリスマスカードは、わたしがキリスト信者になる道程の道しるべであったような気がする。

 Mさんは当時、SFやスラップスティックのようなものを主に書いていたわたしに「結城さんは、もっと、日常の暖かい話を書ける方だし、そういった方がむしろ向いていると思うんですよ」とおっしゃってくださった。
 そのときの状況、情景を、わたしは今でも、今日のことのように思い出せる。そしてその言葉こそが三十年もわたしの中で蒔かれた種となっていて、今回「キリストを盗んだ男」として実ったのだと思っている。

 最近はキリスト教国であっても、政教分離その他の理由から、「クリスマスカード」ではなく「ハッピーホリディズカード」になってしまっている。
 わたしもクリスマスカードは、お世話になっている司祭と信徒仲間だけに送っている状態だ。

 だからこそせめて、このブログを読んでくださっている方みなさんには、このメッセージを送りたい。

「メリークリスマス! 主のご降誕、おめでとうございます!!」

 と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年12月24日

【日記】今日はクリスマスイブではありませーん

 本日12月24日正午頃、本市××町の公園で遊んでいた児童数名に、中年男性が「今日は何の日だ」と話しかける事例が発生しました。
 児童が「クリスマスイブ?」と答えると、中年男性は「バッカもーん。今日は待降節第4主日。クリスマスイブは日没からだ」と、わけのわからないことを叫びながら去っていったとのことです。
 皆さまにおかれましては、このような不審な人物を見かけましたら、警察までご一報をお願いいたします。


 おっと、事例になってしまった(笑)。

 というわけで、本日、12月24日の昼間は、まだ「クリスマスイブ」ではないのである。
 ノンクリの人々は、簡単に「イブイブ」言っちゃってくれるが、ガチカトにとっての「クリスマスイブ」は「主の降誕(夜半のミサ)」と呼ぶ典礼である(他にも「主の降誕(早朝のミサ)」、「主の降誕(日中のミサ)」がある)。

 今までも何度か書いてきたが、教会暦の一日は、日没に始まり日没に終わる。なので、12月24日の昼間はまだ「主の降誕(夜半のミサ)」にはならない。
 しかも今日は主日(日曜日)であるので、12月24日の日中は、まだ「待降節第4主日」。
 クリスマスになるのは、日没からなのである。

 というわけで、ガチカトは今日、日曜日の昼間に一度教会へ行って「待降節第4主日」のミサに与って帰り、日没まで待って、また教会へ行って「主の降誕(夜半のミサ)」に与る。さらに余裕があるなら、明日25日の午前中に行われる「主の降誕(日中のミサ)」にも与らなければいけないという、ハードスケジュールなのである。

 しかも今年は、12月31日が日曜日で、その日は典礼暦で「聖家族」。明けて翌日、新年の2018年1月1日は「神の母聖マリア」なのである。
 この一週間ちょっとは教会畜にとって本当に教会漬けの年末年始になってしまうのであった。

 あっと、このあたり、わたしはカトリックだからの事情で、プロテスタントのそれはよく知らない。ゴメン。でも似たようなものじゃないかなぁ。一部、クリスマスを祝わない新興宗教のキリスト教≠ヘ別にして(あるんですよ、そういうの)。

 俗の世には「クリぼっち」なる、クリスマスにひとりぼっちを自嘲・揶揄する言葉があったりするが、そんなものは、本来のキリスト生誕を祝うクリスマスに与る人々には無縁の戯言である。
 本当にクリスマスを祝うガチカトにとって(特に教会委員にでもなった日には)、クリスマス前後はもう、忙しくて忙しくて「ぼっち」どころの話ではないからである。

 というわけで、もし来年のクリスマスを「ぼっち」で過ごしたくないという方がいらっしゃるのなら、ぜひとも今夜からカトリック教会へいらっしゃい。受付で「初めてです」と言えば、喜んでいろいろ世話を焼いてくれるだろうから。

 それで、別に洗脳されたりはしないはしないから、来年からミサや勉強会あたりに顔を出してみたらいかがだろう。自然、知り合いはできるだろうし、一年後の「クリぼっち」は回避できること間違いなしである。

 実際、西洋絵画やクラシックを語るのに、キリスト教の実際を知らずしていろいろ語っている評は噴いてしまうほどズレていたりするから、別に信者にならずとも、基本教養としてキリスト教の歴史と実際のところ≠学んでおくのは、趣味の範囲も広がると思う。
 勉強会に数年通いながら、一向にクリスチャンになる気はない、という人は確かにいるし、そういう人だからといって居心地悪そうにしている勉強会というのをわたしは知らない。

 話をクリスマスにもどすと、なにより「クリスマスはどうするの?」と訊かれたとき、当然の顔をして、「もちろん教会へ行きますよ」と応えられるのって、格好いいと思いません?
 いかがでしょう?
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月23日

【日記】文章力と読解力

 その昔、ニフティサーブでのできごと。
 ニフティサーブにはたくさんの「フォーラム」があり、ユーザーは自分が興味のあるフォーラムに参加して、そこの電子会議室(掲示板)で話ができる仕組みになっていた。
 しかし、発言につけられるIDは――別垢を取って自作自演でもしなければ――同じであり、その人の発言をフォーラムをまたいで読んでいくこともできるのである。

 今の「5ちゃんねる」で言えば、全鯖ワッチョイ強制みたいな感じ。

 そういう状況であったので、いろいろなフォーラムに書き込む人は、ROMしていても「ああ、またこの人か」とわかってしまうのであった。性別はもちろん、出自や職場、独身か否か、基本的な思想はどうなのかまで知れてしまうことは少なくなかった。

 そんな中の一人に、ちょっとケンカっぱやい人がいたのである。
 この方はいろいろなフォーラムで売り言葉に買い言葉、すぐカッとしてしまい、ラジカルな言辞で相手をやりこめようとするのであった。
 しかしそこはいにしえのニフティサーブ。有名人から無名の人まで、長文上等の論客ばかりである。逆に冷静に論破されてしまうことも少なくない。
 とは言え、ROMからしてみれば明らかに論破されているのに、本人が諦めなければ「論破されていない」というのがネットの常である。
 こういう段階になると、必ずこの方が言う定番台詞があった。

「あなたはあなた自身の文章力を疑った方がいいと思います」

 どのケンカでも、最後はこのような台詞で、相手の文章力を叩いて、自分を正当化しようとするのである。
 ROMしている方は、だんだんと可笑しくなってくる。だって、負け戦になると、どこでも必ず「あなたの文章力を疑った方がいいと思います」なのだから。
 これはもう、誰でもわかる。相手の「文章力」に問題があるのではない。この人の「読解力」に問題があるのである。

 しまいには、この人の「あなたは自分の文章力を磨いたらいかが」などという書き込みを見ると、キタキタキターッ! と笑い出してしまうようになった。これを書くたびに、自分の読解力の低さをROMに露呈していることに気づいていないのだろうなぁ、と。

 実際、読みにくい文章というものはある。大江健三郎先生の著作などはけっこう読みにくいと知られている。そしてむしろ、わたしはそういう大江先生の文章が好きだ。

 文章は個性である。みながみな、わかりやすい「さいた、さいた、さくらがさいた」レベルの文章を書いていたらつまらない。マンガで言えば「絵柄」である。「絵柄」に好き嫌いはあっても「正解」はない。

 そのあたりのことをわかっていない人が、上の例の人のように「あなたの文章力に問題が――」などと言い出すわけである。実は本人の読解力に問題があるわけだが、本人はそれを自覚していないし、また、指摘されたとしても納得はしないだろう。
 思考というものは言語で行うものであり、その言語感覚が鈍いということは、自分を中心に世界が回っていると思っている証左だからである。幼児時代は誰でも自分中心でしょう?

 だから、文章書きの諸兄姉、もし「おまえの文章力が云々」と言われるようなことがあったら、凹む前に、この記事を思い出していただきたい。それは実はあなたの問題ではなく、バブバブ言っている相手の読解力の問題であることが多いからである。
 成熟したオトナはそのあたりのことをわかっているので、うかつに「あなたの文章力が」などとは言わない。自分の読解力を笑われる可能性があることを知っているからである。

 テレビ番組は偏差値40の人にもわかるように作るものだ、という話があるらしい。どうりで、テレビが面白くなくなっていくわけである。
 同じ轍を踏んで、世の中に偏差値40の人相手の文章があふれてしまうのはゲンナリだ。ただ、ちょっと凝った文章を書けば、偏差値40の人に「文章力が云々」と言われる可能性がある、そういうときは華麗にスルーがいいよ、ということである。

 さて、この記事、わたしの文章力に問題はありましたか、ね?
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月22日

【日記】心は女……

「【日記】心は男だけど……」の続きである。

 前回の最後で「真の男」「真の女」と書いたが、これは「真っ直ぐに社会が期待する男性性を取得した人間」、「真っ直ぐに社会が期待する女性性を取得した人間」と言い換えてもいい。
 心それ自体は、生まれてから物心つくまではプリンのようなもので、周りから固めてやらないと固形物にならないのである。

 本来のGID治療というものは、MtF GIDならば「体は男だけれど見かけが女で、心も女であることから、生活に不自由をきたしているから治療する」ものだと考える。これは確かに、性別再判定手術をしてでも、社会的性別と身体的性別を同一にしなければならない。
だが、「心が女だから(という主張を鵜呑みにして)見かけを女にする」治療は間違っている、とわたしは思う。

 わたしが以前、ゾッとしたMtF GIDの日記がある。彼は「心は女」と言い、女装して女子トイレに入り、なんとそこで性的興奮を催し、自慰行為をしてしまったことをぬけぬけと書いていたのであった。
 本当に「心が女」ならば、それがどれだけ女性の恐怖を呼び起こす行為かを想像できるだろう。しかもその彼は、精神科医からMtF GIDの診断を受けて、女性ホルモンを服用していたのである(なお、その日記はさすがにまずいと思ったのか、すぐに消去されていた)。

 わたしのGIDへの疑問の原点はそこにあると言ってもいいほど、気味の悪い思い出である。

 また、性同一性障害のマスコミの取り上げ方も一方的で、公平な視点ではない。
 最近では、配偶者や子どもがありながらGIDを名乗り始めた方々が出るようになり、その配偶者や子どもが苦痛を味わっているという事実を、マスコミは無視している。
 そういう方のブログを拝読したことがあるが、それはそれは悲痛なものだった。

 実際に苦しんでいる方がいる以上、「性同一性障害なんて嘘っぱちだ」と切り捨てる気にはなれない。
 が、その苦しみを減少させようとする現在の治療法――性ホルモンの服用、性別再判定手術など――は本当にほかの手を尽くした上での、最終的なものにするべきだ、と指摘しておきたい。
「【書評】放浪息子」の最後でも書いたが、まずは心理療法で、「体の性と心の性を一致させる」治療法を試みるべきだ。
 ここで思いこみの激しい当事者たちは、胎児の時の性ホルモンシャワーがどうたらと言い出すだろう。が、繰り返して書くが「素の心に性別なんてない」。

 わたしがこのように書くのは、10年以上、彼ら彼女らのサイト、ブログを読み続けて、治療≠フ結果、あまりに不幸になる当事者が多かったからである。
 前記のように、当事者だけでなく、家族も不幸になる。
 成功した例も知っているが、わずかなものだ。そういう方は、もうみなブログやSNSなどやらず「埋没」している。今もお元気ならなによりだが。

 慣用句で言えば「老婆心ながら」である。
 わたしは体は男だが、老婆心ながら、「心の性別≠ネんてものにこだわらないで、心はあなた≠ナいいじゃない」と伝えたいのである。

 この記事は、一度、最後まで書いたものの、気が乗らずアップしなかったのであった。
 が、最近、あるMtF GIDで戸籍の性別変更までしたという方がそれを後悔しているというニュースがあって「なんらかの救済が望まれる」とマスコミが書いていることを知り、マスコミのなんと無責任なことよ、という思いから、推敲の上掲載することにした。

 もし、MtF GIDの実際について取材したい、という意欲のあるマスコミ関係者は、ぜひとも、本人にではなくその家族(特に妻子)に話を聞いていただきたい。夫が女装を始め、それをMtF GIDだと言い張り、一家が離散していく悲惨な現実を、活字としてリポートした記事を、わたしは読んだ記憶がない(予定調和的に「家族も理解しています」という、現実離れした気持ち悪い記事は何度も読んだ)。
 きっと、衆目を集めることと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記