2017年12月21日

【日記】体は男だけど……

 3DSのゲーム「とび森」では村長を「男の娘」にしているし、マンガはTS(トランスセクシャル)もの大好きである。
 しかしこういったものは「ファンタジー」だから楽しめるのであって、リアルにおいて、わたしは保守派。LGBTの「T」に関しては固ゆで卵くらいの保守派である。

 これから書くことは、一部の方にはとてもつらい内容かもしれない。しかし、インターネットでずっと「彼ら彼女ら」のことを眺めていた自分が出した、率直な感想である。

 LGBTの「T」。トランスジェンダー。性同一性障害。「体は男だけど心は女」な人はMtF GID、「体は女だけど心は男」な人はFtM GIDと呼ばれている。

 わたしはある縁があって、個人ホームページ華やかなりし頃から、「彼ら彼女ら」のウェブサイトをずっと見続けてきた。
 最盛期には、そういった方々のブックマークが100以上もあり、更新チェッカーを使って日記を拝読していた。
 当時は、まだGIDという言葉も一般的ではなく、議論も活発で、わたしもよく勉強させてもらった。
 そして、個人の情報発信方法がほぼブログに移り変わった現在も、そういった方々の日記を読み続けている。

 その上で、こう、結論を出さざるを得ない。
「体は男だけど、心は女」の人間など存在しない。
「体は女だけど、心は男」の人間など存在しない。
 と。

 最初に結論を言ってしまうと、存在するのは――
「体は男だけど、心はあなた」
「体は女だけど、心はあなた」
 である。

 まず、素の心自体に、本来、男女の別がない、とわたしは考えるようになった。
 以下、二回書くのが面倒なため、主にMtF GIDについて触れることにする。FtM GIDは男女を逆に読み替えていただきたい。

 肉体の性別が男である人間が、男らしい心を持つようになるのは、単に周りが、彼に社会的な男性性を期待するからである。
 男の子だから黒いランドセルを好むのではない。周りが「男の子だから黒いランドセルね」と与え、素直な子は「そういうものか」と考えるようになるのだ。
 もし「男の子は赤いランドセル」という社会があるのならば「なんだおまえ、男の癖に黒いランドセルなんて女々しいな」と学校でからかわれたはずである。

 MtF GIDは、幼少期に「自分は赤いランドセルがほしかった」「お人形遊びが好きだった」「少女マンガが読みたかった」などという生育歴を語りだすが、それは大人の男が振り返って些末な思い出を拡大解釈している作文に過ぎない。

 これは個人的体験としてもそうである。なぜならわたしも「赤いランドセルがほしかった」し「お人形遊びが好きだった」し「少女マンガが読みたかった」からだ。しかしわたしは、MtF GIDではない。
 こういう男性は、実はけっこう多いのだ。ただ、GIDとは無関係な生活を送っているので、ことさら思い出して言い出さないだけなのである。

 結局のところ、心の性を決めるのは、周囲が期待する社会的な性別である。それを素直に受け入れて成長するか、抵抗しつつ成長するかの差異がGIDを生むのだとも言える。
 昭和の時代は、男が厨房に入ることさえ疎まれた。それが今や、飯マンガで男が味をどうこう言うのは普通になっている。男が少女マンガを読むのも普通のことだ。
 社会的に期待されるその性別像というのも、また、変わっていくのである。

 おそらくジェンダーレスの社会の到来を、GIDは好まないはずだ。「自分の語る心の性別」があやふやになるからである。
 余談になるが、その意味において、LGBとTは共感しあえないし、むしろ本質からして違うと思うのだが、政治的な点から共闘しているのだろうか。将来的に、お互い足を引っ張りあうような存在になるような気がしないでもない。

 結局のところ、MtF GIDは「体は男だけれど、心は女だと自分が信じる生育歴を送ってきた人」になってしまう。実に回りくどいが、ストレートに「心は女」ではないのだ。

 MtF GIDのサイトやブログを拝読すると、過度に女言葉を使用していることが多い。今の女性は「そうだわ」などとは使わない。「そうよね」などとも言わない。そういった女言葉を使いすぎて、MtF GIDの多くの方の書く文章は、気味が悪いほど「オカマな日記」になってしまっている。

 また、ヒゲの話でも書いたように、FtM GIDはよく男性ホルモンを入れてヒゲを生やしているが、真の男ならば「ヒゲなんてめんどくさい」と思うのが自然である。
 同様に、真に心が女なら「化粧なんてめんどくさい」というのもあるかもしれない。MtF GIDは喜んで化粧をしているが、それだけ心が真の女ではないということである。

 長くなったので、「【日記】心は女……」に続く。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月20日

【日記】不倫をしない技術

 このところ、世の中、政治家や芸能人の不倫話でかまびすしい。テレビを見ないわたしでも、ネット経由でいろいろな不倫話が耳に入ってくる。中には何度も不倫を繰り返している人がいるようで、なんとも、懲りない人たちだなぁ、と思う。

 おそらく、世の中、多くの人が勘違いをしていることがある。不倫をする人というのは「それだけ異性を惹きつける魅力や能力がある」という間違いだ。
 不倫をする人というのは、そういったなにか特別な才能・技能を持っているわけではない。逆に、普通の人が持っている才能・技能が欠如しているのである。だから、人倫にもとる行動をとれてしまうのである。

 たとえて言えば殺人。多くの普通の人間は、殺人の才能・技能があるわけではない。逆に、安易に人の体を傷つけてはいけないという崩しがたい倫理観があるから、ちょっと頭から湯気を立てるようなことがあっても、包丁でブスッとやらないのである。

 ブスッとやってしまった後で「憎かったからしょうがない」「たまたま憎かった人が目の前にいただけ」「殺人は文化だから」「今はそうでもないけど、あのときは本当に憎んでいた」「悪いのは憎まれるようなことをした方。わたしはむしろ騙された」などと言って許されるわけがない。

 どれだけ憎んでも、「殺人」だけはやってはいけないから、人は酒に酔って忘れたり、サンドバッグを叩いたり、バッティングセンターへでバットを振り回したり、それぞれ、なんらかの方法でストレスを逃がして「殺人」衝動を回避しているのである。

「不倫」をしてしまう人というのは「不倫衝動」を抑えきれない、ちょっと思考形態に問題がある方なのである。

 ただ、思考形態に問題があるからと言って、それ自身が悪いわけではない。神さまは悪い人にも善い人にも、天才にも莫迦にも等しく、朝日を恵んでくださる。人は皆等しく平等で尊い。
 そういった人たちは、教わってこなかった、あるいは学んでこなかったのだ。「不倫をしない技術」というものを。

 簡単に言えば「異性を誤解させない技術」である。既婚者だったら結婚指輪をつける、ことあるごとに配偶者を大切にしていると話をする、イベントデイは先約があると公言する。夫婦二人でカトリックになる。いや、最後のは冗談。

 単純に考えて、こういう家庭環境的なものは学校で学ぶものではないから、不倫をしてしまう人というのは、ご両親に「不倫をしない技術」を教えてもらえなかったのである。
 端的に言えば、両親が理解しあっていなかったのだ。
 喧嘩が多かった、お互いの文句を陰で言っていた、外面はいいが家に入ると仮面夫婦であったなどなど、子どもはそういう雰囲気を肌で悟ってしまうのである。
 そうすると、子どもは総じて、「結婚」というものの価値観を軽んじたまま成長してしまう。
 小動物をいじめ、無残に殺す子どもが、殺人者になる種を宿しているように、「結婚」の価値観を軽んじる子どももまた、不倫を犯す種を宿して成長してしまうのである。

 と、この記事はこのあたりまで書いたはいいが筆が進まず、掲載はペンディングしていた。
 なんとなれば、わたしが不倫などまったく無縁に、幸せな結婚生活を送ることができているのは、わたし自身の努力によるものではなく、ただ、神の恩寵によるものなのだなぁ、と、書いていて思ったから。

 ひとつの真実をやはり書かねばいけない。不倫をする人は、不幸な人なのである。不幸な環境に育ち、不幸な思考を持つようにいたり、幸せな結婚ができなかったがゆえに、不倫を犯してしまうのである。
 そのような不幸な人を、わたしのように生育歴にも細君にも恵まれた人間が指弾することができるだろうか。いや、できない。

 それに「不倫をしない技術」というタイトルをつけながら、わたし自身がそれを分析できずにいるということにも気づいてしまったのだ。
 株で成功した人が「株で成功する技術」という本を書いても説得力がない。成功には努力以外に必ず運――神の恩寵――があるものだからである。ある人が成功した方法を使って他の人も成功できるのなら、この世に失敗者などいるはずがないではないか。
 むしろ失敗した人が「こうすれば株で失敗する」という本を書いた方が良いのである。

 というわけでこの記事は、もうモニョモニョしながらも、せっかくここまで書いたので、もったいないからうpすることにする。
 読者諸兄姉にはお目汚し記事でご容赦。

「不倫をしない技術」が系統だって分析できたら、また似たような記事を載せるかも。

 追記:ふっふふ。なんだかんだ言ってね、わたし、のろけたかっただけなんですよ。良い細君と巡り会って、不倫なんて微塵もつけいる隙のないよい夫婦生活を送れていていいでしょ、ってね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月19日

【日記】食育

 以前にもチョロっと書いたが、この「食育」という気味悪い言葉が使われるようになったのはいつ頃からなのだろう。少なくとも、「飽食の時代」と言われた1990年代にはまだなかったように思う。

 バランスよくカロリーも適度で、なおかつ「美味しい」食事を「楽しく」摂ろう、という教育に異存はない。むしろ、そういう教育を受けて、わたしのように「味音痴」「食べるの嫌い」なオトナにならずに済むのならば、これ以上、いい教育はあるまい。

 わたしが一番「うさんくさい」と思うのは、教室で子豚やヒヨコを飼って、それらを名前をつけて♂ツ愛がり、成長させた上で屠殺に出して、その肉を生徒に食べさせる、という、残虐この上ない所業をショクイク≠セということである。以降、この気持ちの悪い醜悪な教育を本物の「食育」とわけるため、ショクイク≠ニ記す。

 賛成派は言うだろう。「人間は命あるものをいただいて生きている。その尊さを教えるために、名前をつけて♂ツ愛がった存在の命を奪って自分の血肉にし、感謝するということを教えるのだ」と。

 莫迦げている。めまいがするほど腹が立ち、異常さに吐き気すら催す言いぐさだ。
 上記の言葉と、下記の連続殺人犯のうそぶきと、どこに変わりがあるのか。

「人間は人との関係性の上に自分の人生を築いている。その尊さを自分が再確認するために、通りすがりの人間の命を奪って、自分が生きていることを感謝するのだ」

「人と動物の命とには違いがある」と賛成派が反論するのなら、賛成派の「命の大切さを教えるために云々」という文言自体に矛盾が生じると指摘しておく。

 賛成派のショクイク≠ナ頭がおかしいと思うのは、食べる対象の子豚やヒヨコに名前をつける≠ニいうことである。名前をつけるというのは、とりもなおさず、愛情の対象にするということなのである。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(創世記 2:19)


 逆に考えてみればよくわかる。人間が人間から人間性を奪うとき、一番初めにやることは、名前を奪うことなのである。鑑別所や刑務所でやるように、番号で呼び、個性を剥奪する。

 名をつけ、愛情の対象としたものの命を奪って、自分の利己的な生≠フ糧にしてもいい、というのは、例えば、親が自分のためなら愛する子を殺してもいい、というロジックとなんら変わりない。

 上記のショクイク≠受けた生徒が成長し、自分が生きるために、自分が名をつけた愛する子どもをネグレクトして殺したとしても、このショクイク≠した教師は、一言も異論を唱えられないはずだ。自分がそういう教育を生徒に施したのだから。

「食べる」ということの大事さを教える、という根源に立ち返って、子どもに本当の「食育」を施したいのなら、「断食」をさせてみたらいかがだろう。
 いやしかし、そういった方には向かわないのだよな。ショクイク#hの人は。なにしろ、食べることには人一倍執着するのである。
 要するに、発想がいな(ピー)なのである。

 もちろん、太古のイスラエル人も羊飼いであり、それはそれは大切に羊を飼いつつ、同時に、屠殺して食べた。しかしそれは「神への感謝」あればこそなのである。
 仏教でも神道でもキリスト教でもいい、宗教教育なくして、「命への感謝」などということを言っても、それは中身のない、自分が生きていくための勝手な、空虚な響きしかない。
 宗教教育を「偏向だから」と言って、まるでないもののようにして、上記頭のおかしいショクイク≠ナ「命の大切さ」を教えようとするところに、日本の教育界のゆがみが出ていると思うのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2017年12月18日

【回想録】アクアラインを歩く

 今日、12月18日は、20年前の1997年、東京湾アクアラインが開通した日である。
 その20年ちょっと前の11月、開通前のアクアラインを歩く、という抽選イベントがあり、当たったわたしと細君は、当時はまだ珍しかったデジカメ片手に参加したのであった。

 歩くといっても全路ではなく、木更津側から入って海ほたるパーキングエリアまで。帰りはバスという行程である。距離としては5キロちょっとの道のりだ。

 というわけで、そのときのレポートを20年ぶりにしてみたい。



 まずは参加者ぞろぞろと木更津ジャンクションへ。左側に「自動車専用道路」の看板があるところをこうやって人が歩いているのは新鮮である。



 木更津本線料金所。ETCすらまだない時代。



 ただひたすら一直線のアクアラインを歩く。当日は雨の予報だったのだが、予報は完全に外れ、いい感じで晴れてくれたのだった。



 雨合羽を着ている人がいるのは、上にも書いたが「大雨の予報」があったため。しかしいい天気である。気象庁がいつもやる仕事ですな。



 途中の看板を見上げてみる。もう少しで海ほたるパーキングエリア。



 途中の非常用電話もパシャリ。今もこうなっているかは知りませんが。



 いよいよ海ほたるパーキングエリアが見えてくる。あれですな、日本にゾンビが蔓延したら、こうやってアクアラインをぞろぞろと歩いて東京湾を移動する、そんな感じですな。



 海ほたるパーキングエリア着。当日はいろいろと出店や、警察の「覚せい剤取締りフェア」みたいのをやっていた記憶。逆に言えば、今やっている普通のレストランやフードコート、サービス施設は稼動していなかったのだと思う。



 これは今もある「カッターフェイスの巨大モニュメント」。

 こんな感じで、半日楽しく過ごして帰ってきた。帰路は前述のとおり、バスで海ほたるパーキングエリアから木更津ジャンクションへと送ってくれた。

 今は、アクアラインはごくたまに使うだけだが、この道をクルマで走っていると「開通前にここを歩いたんだよなぁ」と懐かしく振り返る思い出である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2017年12月17日

【日記】クリスチャンは偉そうにしている

 以前、知恵袋かなにかで見かけたのだが、こういう質問があった。「どうしてクリスチャンは偉そうにしているのですか。不快です」。

 今、その質問をググッてみたのだが、見つからない。しかし確かにそういうQ&Aがあって、読んだときは質問も回答も面白くて、心に残っていたのである。

 確か回答はクリスチャンから寄せられたもので、「クリスチャンだから偉いなんてわけありません。もしそうお感じになる相手がいたのだとしたら、その相手個人の資質だと思います」とか、そんな感じではなかったかな。もっともな回答である。

 しかしこれ、実はキリスト者(カトリックでは主にこう言う)であるわたしも感じることがある。
 例えば、新興宗教のJW(普通の人が知っている名称だと「エホバの証人」)相手だと、こちらがカトリックだと知ると、あからさまに「あなたは本物のクリスチャンではない」というような態度を取る人がいたりするのだ。

 ま、こちとら二千年の歴史を誇る伝統宗教の信者であるから、たかだか設立百数十年しか経っていない新興宗教とか、数百年の歴史しかないプロテスタントの信者に軽く見られてもフーンとしか思わない(←驕り)。

 が、こういうのって、宗教に限らず、どんなジャンルにでもあるのではないだろうか。

 一番いい例が「社畜」である。社畜な人々は、雨の日も風の日も、灼熱の太陽に焼かれても大雪で電車が止まっても台風で家の屋根が飛んでも出社して、自分のものではない「会社」のために、身を粉にして働く。そう、本来「わが社」などと言えるのは、会社役員と社員(株主)だけ。そこで働く人は社員ではなくあくまで「従業員」なのである。それでも、毎日、会社のために働いていると、だんだんとプライドがわいてくる。

 逆説的に言うと、プライドがないと、上記のように、雨の日も風の日も地震があっても計画停電で信号が止まっても出社などということはできないのである。
 いきおい、そのプライドの矛先は、働いていない人、働けない人へと向けられる。日本では就労に適した年齢で働いていない人への風あたりはとても強い。その人個人の事情など鑑みずに、「無職」と吐き捨て、たたく。

 憲法にも「勤労の義務」は書かれているが、憲法というのは国民が国家を律するために作った法であり(逆ではありませんよ!)、国の方に、労働能力を持つ者が失業状態にならないよう対策を講じる義務があるのである。今の日本で、それがきちんと機能しているだろうか。

「働かざる者食うべからず」は聖書由来の言葉(2テサ3:10)と思われているが、これの本来的な意味も日本人が思うものと違う。驚くべきことに文語訳ですらない。正確に引用するなら――

文語訳:人もし働くことを欲せずば食すべからずと命じたりき。
口語訳:働こうとしない者は、食べることもしてはならない。
新共同訳:働きたくない者は、食べてはならない。


「働きたくない者は食べてはならない」のである。働きたいのにその機会を奪われている者からパンをとりあげるなどと言っているわけではない。
 以前にも書いたが、「働かざる者食うべからず」は、レーニンがパウロの意図を曲解して作文した赤いスローガンなのである。こんな言葉を真顔で言う人は共産主義者と思われてもしかたないですぞ。いや、純粋に共産主義者なら別にいいんですけどね。

 更に言えば、

わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。(ヨシュア記 24:13)


 である。神さまの目から見れば人類誰でもみなニート。なにひとつ、自力でゲットしたものなどない。すべて、神さまから与えられたもので生きているだけなのである。

 閑話休題。
「社畜」が「無職」にたいして、薄っぺらなプライドをふりかざすように、クリスチャンもまた、ノンクリに薄っぺらなプライドをヒラヒラさせることはあるかもしれない。
 なにしろわたしを含めクリスチャンは、みな「教会畜」である。日曜日になったら、雨の日も風の日も熱が出ていても体がフラついていても、教会へ行ってミサに与り、あるいは礼拝を守る。そう、プロテスタントの方は「礼拝を守る」と言う。守るのである。カトリックの「ミサに与る」よりも主体的な自覚が必要だ。そんな中で、わたしはノンクリとは違う、カトリックとは違う、という自意識が生まれてもおかしくはない。

 要は「アリとキリギリス」である。苦労している分、必ずなにか見返りがあると思ってしまう。そんな感じ。

 と・こ・ろ・が――そんなクリスチャンが泣きわめいて歯ぎしりするくだりが新約聖書にある。「ぶどう園の労働者のたとえ」である。
 長いくだりなので引用せずまとめると――

 ぶどう園の雇い主が、失業者を一日一デナリオンの報酬で、朝九時、昼十二時、十五時、十七時に雇った。朝九時に雇われた者は、他の者より多くの賃金をもらえると思っていたが、みな平等に一デナリオンだけだったので、雇い主に文句を言った。雇い主はこう答えた「はぁ? もともと一デナリオンの約束で雇っただろうが。他の者もみな同じ。文句たれんなスットコドッコイ」


 まちょと意訳しすぎだが、こんな感じ。神さまの目から見れば、長く働こうが短く働こうが、与える恵みは同じなのである。

 というわけで、あなたの知っているクリスチャンがなぜだか偉そうにしていたら、「あぁぶどう園の最初の方の労働者なんだな」と思って、苦笑で流していただければ、腹も立たないのではないだろうか。

 いやまぁ、わたし自身「教会畜」なので、ちょっとはその気持ち、わかるんですけどね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記