2017年12月08日

【日記】ペンダント

 なにしろ洒落っ気というものが全然ないもので、装飾品の類いを身につけるという習慣がずっとなかった。
 なにぶん昭和の男なので、ピアスとか、ブレスレットとか、男なのにカチューシャ≠ニかとは縁がなく過ごしてきたのである。
 ペンダントも「ただうざいだけ」だと思っていたので、身につけたことはなかった。

 結婚指輪だけは、細君が学生時代からずっとつけている。これは、細君に「女よけ」としてつけられていたのだ(ノロケ)。

 こんなわたしだが、カトリックの洗礼を受けてからは、やっぱりクリスチャンならペンダントくらいするかね、と思い、シルバーのネックレスをするようになった。
 というのも、カトリックには「不思議のメダイ」というものがあり、これを身につけていると、聖母マリアがお守りくださるという信心があるのである。

 この「メダイ」のカトリック文化は、「不思議のメダイ」だけではなく、いろいろな聖人のものが出ている。旅の無事を祈る「聖クリストフォロス」とか、以前にも書いた「聖ベネディクト」のメダイが有名だ。
 だいたいのカトリック信者が、自分の洗礼名、堅信名の聖人のおメダイを、司祭の祝福を受けて持っているものではないだろうか。

 ここで一般の方や、カトリックの「そういうこと」を偶像崇拝だと批判する一部プロテスタントの方のために言っておくと、「メダイそのものに超自然的な力などまったくない」。
 たとえば、「時計」を想像してみていただきたい。「時計」がなくても時間は存在し、流れ続けている。しかし、今の時間を知りたかったら、「時計」を見るのが普通ではないだろうか。この「時計」にあたるものが、カトリックの「十字架」や「メダイ」なのである。自分の信仰を振り返り、思い起こし、神さまへの思いを確認するためにあるものなのである。「時計」があるから「時間」が存在するのではないように。

 というわけで、カトリックの十字架やメダイを「偶像崇拝」だというプロテスタントの方は、これから一切、時計なしの生活を送っていただきたい。神さまに祈れば時間なんてわかるでしょ? 時計を見るのは偶像崇拝と同じである。

 同じように、カトリックの信仰のない人がメダイを身につけても、なんのご利益もない。ただのアクセサリーである。
 ただ「ご利益があるかも」という素朴な思いを否定するのも気が引けるので、そういう方はぜひともカトリック教会へいらして、ミサの一回でも与られてみたらいかがだろうか。その上で、なにか感じるところがあったのなら、「まだ洗礼を受けてはいませんが、神さまの存在を感じたいので」とでも言えば、司祭もメダイに祝福をくださるだろう、くださるんじゃないかな? いや、司祭によってはダメという方もいらっしゃるので、ちょっと断言はできない。

 話をもとに戻して、そんなわけで、わたしも不思議のメダイと十字架をペアにしてペンダントとして、ネックレスをつけるようになったのである。これ見よがしにではなく、下着の内側に。

 もともとペンダントやブレスレットなどは装飾品ではなく、急所を守るために身につけるものだった、とも聞く。この平和な時代には、あまりそういった役に立つことは少ないかな、とも思っていた。
 しかし、その考えが180度変わった出来事があった。

 311である。

 あの日、日常生活がいきなり地震と津波によって分断されるという経験を経て、人間、いつ突然、生前の姿を失って死んでしまうかもしれない、ということを思い知らされたのだ。

 いつ死ぬともわからない船乗りは、打ち上げられた死体が自分であることを遺族が判別できるよう、刺青をするのだという。
 さすがに刺青まではできないが、もし突然、わたしが肉体を判別できないほどの死を迎えたとき、せめてペンダントがあれば、死体が見つかったとき、遺族にわかってもらえるかもしれない、と思うようになったのだ。

 こんな平和な時代でも、天変地異は防ぐことができない。それを悟って以来、ネックレスの鎖も少し太いものにし、ペンダントヘッドの十字架も、わたしのものだとすぐにわかる大きめのものにした。面倒だと思わず、風呂に入るとき以外は必ず身につけている。

 もちろん、これが役に立つことなく、家族に看取られながら神さまのもとへいける未来が一番だが、自分に関しては、そういう未来を想像できないのだよなぁ……。と、逆フラグを立ててみたり。

 ちなみに、墓石に刻んで欲しい墓碑銘は決めてある。「主は与え、主は奪う(ヨブ1:21)」である。
 この聖句の後にはこう続く。「主の御名は誉めたたえられよ」と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記