2017年12月17日

【日記】クリスチャンは偉そうにしている

 以前、知恵袋かなにかで見かけたのだが、こういう質問があった。「どうしてクリスチャンは偉そうにしているのですか。不快です」。

 今、その質問をググッてみたのだが、見つからない。しかし確かにそういうQ&Aがあって、読んだときは質問も回答も面白くて、心に残っていたのである。

 確か回答はクリスチャンから寄せられたもので、「クリスチャンだから偉いなんてわけありません。もしそうお感じになる相手がいたのだとしたら、その相手個人の資質だと思います」とか、そんな感じではなかったかな。もっともな回答である。

 しかしこれ、実はキリスト者(カトリックでは主にこう言う)であるわたしも感じることがある。
 例えば、新興宗教のJW(普通の人が知っている名称だと「エホバの証人」)相手だと、こちらがカトリックだと知ると、あからさまに「あなたは本物のクリスチャンではない」というような態度を取る人がいたりするのだ。

 ま、こちとら二千年の歴史を誇る伝統宗教の信者であるから、たかだか設立百数十年しか経っていない新興宗教とか、数百年の歴史しかないプロテスタントの信者に軽く見られてもフーンとしか思わない(←驕り)。

 が、こういうのって、宗教に限らず、どんなジャンルにでもあるのではないだろうか。

 一番いい例が「社畜」である。社畜な人々は、雨の日も風の日も、灼熱の太陽に焼かれても大雪で電車が止まっても台風で家の屋根が飛んでも出社して、自分のものではない「会社」のために、身を粉にして働く。そう、本来「わが社」などと言えるのは、会社役員と社員(株主)だけ。そこで働く人は社員ではなくあくまで「従業員」なのである。それでも、毎日、会社のために働いていると、だんだんとプライドがわいてくる。

 逆説的に言うと、プライドがないと、上記のように、雨の日も風の日も地震があっても計画停電で信号が止まっても出社などということはできないのである。
 いきおい、そのプライドの矛先は、働いていない人、働けない人へと向けられる。日本では就労に適した年齢で働いていない人への風あたりはとても強い。その人個人の事情など鑑みずに、「無職」と吐き捨て、たたく。

 憲法にも「勤労の義務」は書かれているが、憲法というのは国民が国家を律するために作った法であり(逆ではありませんよ!)、国の方に、労働能力を持つ者が失業状態にならないよう対策を講じる義務があるのである。今の日本で、それがきちんと機能しているだろうか。

「働かざる者食うべからず」は聖書由来の言葉(2テサ3:10)と思われているが、これの本来的な意味も日本人が思うものと違う。驚くべきことに文語訳ですらない。正確に引用するなら――

文語訳:人もし働くことを欲せずば食すべからずと命じたりき。
口語訳:働こうとしない者は、食べることもしてはならない。
新共同訳:働きたくない者は、食べてはならない。


「働きたくない者は食べてはならない」のである。働きたいのにその機会を奪われている者からパンをとりあげるなどと言っているわけではない。
 以前にも書いたが、「働かざる者食うべからず」は、レーニンがパウロの意図を曲解して作文した赤いスローガンなのである。こんな言葉を真顔で言う人は共産主義者と思われてもしかたないですぞ。いや、純粋に共産主義者なら別にいいんですけどね。

 更に言えば、

わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。(ヨシュア記 24:13)


 である。神さまの目から見れば人類誰でもみなニート。なにひとつ、自力でゲットしたものなどない。すべて、神さまから与えられたもので生きているだけなのである。

 閑話休題。
「社畜」が「無職」にたいして、薄っぺらなプライドをふりかざすように、クリスチャンもまた、ノンクリに薄っぺらなプライドをヒラヒラさせることはあるかもしれない。
 なにしろわたしを含めクリスチャンは、みな「教会畜」である。日曜日になったら、雨の日も風の日も熱が出ていても体がフラついていても、教会へ行ってミサに与り、あるいは礼拝を守る。そう、プロテスタントの方は「礼拝を守る」と言う。守るのである。カトリックの「ミサに与る」よりも主体的な自覚が必要だ。そんな中で、わたしはノンクリとは違う、カトリックとは違う、という自意識が生まれてもおかしくはない。

 要は「アリとキリギリス」である。苦労している分、必ずなにか見返りがあると思ってしまう。そんな感じ。

 と・こ・ろ・が――そんなクリスチャンが泣きわめいて歯ぎしりするくだりが新約聖書にある。「ぶどう園の労働者のたとえ」である。
 長いくだりなので引用せずまとめると――

 ぶどう園の雇い主が、失業者を一日一デナリオンの報酬で、朝九時、昼十二時、十五時、十七時に雇った。朝九時に雇われた者は、他の者より多くの賃金をもらえると思っていたが、みな平等に一デナリオンだけだったので、雇い主に文句を言った。雇い主はこう答えた「はぁ? もともと一デナリオンの約束で雇っただろうが。他の者もみな同じ。文句たれんなスットコドッコイ」


 まちょと意訳しすぎだが、こんな感じ。神さまの目から見れば、長く働こうが短く働こうが、与える恵みは同じなのである。

 というわけで、あなたの知っているクリスチャンがなぜだか偉そうにしていたら、「あぁぶどう園の最初の方の労働者なんだな」と思って、苦笑で流していただければ、腹も立たないのではないだろうか。

 いやまぁ、わたし自身「教会畜」なので、ちょっとはその気持ち、わかるんですけどね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記