2017年12月19日

【日記】食育

 以前にもチョロっと書いたが、この「食育」という気味悪い言葉が使われるようになったのはいつ頃からなのだろう。少なくとも、「飽食の時代」と言われた1990年代にはまだなかったように思う。

 バランスよくカロリーも適度で、なおかつ「美味しい」食事を「楽しく」摂ろう、という教育に異存はない。むしろ、そういう教育を受けて、わたしのように「味音痴」「食べるの嫌い」なオトナにならずに済むのならば、これ以上、いい教育はあるまい。

 わたしが一番「うさんくさい」と思うのは、教室で子豚やヒヨコを飼って、それらを名前をつけて♂ツ愛がり、成長させた上で屠殺に出して、その肉を生徒に食べさせる、という、残虐この上ない所業をショクイク≠セということである。以降、この気持ちの悪い醜悪な教育を本物の「食育」とわけるため、ショクイク≠ニ記す。

 賛成派は言うだろう。「人間は命あるものをいただいて生きている。その尊さを教えるために、名前をつけて♂ツ愛がった存在の命を奪って自分の血肉にし、感謝するということを教えるのだ」と。

 莫迦げている。めまいがするほど腹が立ち、異常さに吐き気すら催す言いぐさだ。
 上記の言葉と、下記の連続殺人犯のうそぶきと、どこに変わりがあるのか。

「人間は人との関係性の上に自分の人生を築いている。その尊さを自分が再確認するために、通りすがりの人間の命を奪って、自分が生きていることを感謝するのだ」

「人と動物の命とには違いがある」と賛成派が反論するのなら、賛成派の「命の大切さを教えるために云々」という文言自体に矛盾が生じると指摘しておく。

 賛成派のショクイク≠ナ頭がおかしいと思うのは、食べる対象の子豚やヒヨコに名前をつける≠ニいうことである。名前をつけるというのは、とりもなおさず、愛情の対象にするということなのである。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(創世記 2:19)


 逆に考えてみればよくわかる。人間が人間から人間性を奪うとき、一番初めにやることは、名前を奪うことなのである。鑑別所や刑務所でやるように、番号で呼び、個性を剥奪する。

 名をつけ、愛情の対象としたものの命を奪って、自分の利己的な生≠フ糧にしてもいい、というのは、例えば、親が自分のためなら愛する子を殺してもいい、というロジックとなんら変わりない。

 上記のショクイク≠受けた生徒が成長し、自分が生きるために、自分が名をつけた愛する子どもをネグレクトして殺したとしても、このショクイク≠した教師は、一言も異論を唱えられないはずだ。自分がそういう教育を生徒に施したのだから。

「食べる」ということの大事さを教える、という根源に立ち返って、子どもに本当の「食育」を施したいのなら、「断食」をさせてみたらいかがだろう。
 いやしかし、そういった方には向かわないのだよな。ショクイク#hの人は。なにしろ、食べることには人一倍執着するのである。
 要するに、発想がいな(ピー)なのである。

 もちろん、太古のイスラエル人も羊飼いであり、それはそれは大切に羊を飼いつつ、同時に、屠殺して食べた。しかしそれは「神への感謝」あればこそなのである。
 仏教でも神道でもキリスト教でもいい、宗教教育なくして、「命への感謝」などということを言っても、それは中身のない、自分が生きていくための勝手な、空虚な響きしかない。
 宗教教育を「偏向だから」と言って、まるでないもののようにして、上記頭のおかしいショクイク≠ナ「命の大切さ」を教えようとするところに、日本の教育界のゆがみが出ていると思うのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記