2017年12月25日

【回想録】クリスマスカードの思い出

 これを書いているのは、十一月の下旬である。もう街にはクリスマスソングが流れ、空気も寒くなっていく中、雰囲気も華やかな12月24日目指して盛り上がっていく、そんな日常だ。
 典礼暦はまだ待降節にもなっていない。日本人は、キリスト教国より、よほど「クリスマス」が好きなのではないかと感じてしまう。

 外套を着て、そんな街を歩く。そして、ふと思い出すのは、二枚のクリスマスカードのことだ。

 一枚目のそれは、小学校一年のクリスマスだった。親戚のプロテスタントの子に、初めて「クリスマスカード」をいただいたのである。
 幼い字で書かれた「イエスさまのおたんじょうおめでとうございます」という言葉に、なにかクレヨン画でイラストがそえてあったと思う。
 クリスマスと言えば、なにかプレゼントが無条件でもらえる日、と思っていたわたしは、そのカードにびっくりしてしまった。
「イエスさまって誰だろう?」と、父母に聞いてみたかどうかは覚えていない。ただ、なにかしらのきっかけがあって、「クリスマスはイエスというキリスト教の偉い人の誕生日なんだな」ということは理解したのであった。

 クリスマスというものが、実際には「イエスの誕生*日*を祝う日」ではなく「イエスの誕生を祝う日」であることは、以前にも書いたが、子どもの理解力だからそんなものである。

 今思うと、あのときの一枚のカードがなければ、以降、恭介少年がキリスト教に興味を持ったり、聖書を読んだりすることはなかったようにも思われる。
 たった一枚のカードだが、布教の方法としては、実に効果覿面であったようだ。もっとも、プロテスタントではなくカトリックへ行かれてしまったのは計算外かもしれないが。

 二枚目のカードは、わたしの新潮社での、二人目の担当者だったMさんからだった。
 Mさんはとてもいい方で、爽やかでスマート、品が良く、年下のわたしにも礼儀正しく接してくださり、人格者≠ニいう言葉がこれほど似合う方はいない、という人。
 Mさんとはふつうに年賀状のやりとりをしていたのだが、あるクリスマスの日に「クリスマスカード」が届いたのである。
 なんと書いてあったかなあ。精緻な文字で「良いお年を」と記してあったような記憶がある。
 どうして新年が近いのに、あえてクリスマスカードを? とわたしは不思議に思っていた。その理由は翌年にわかった。Mさんのご兄弟はその年、闘病なさっていて、そして、年末に、他界なさっていたのであった。
 Mさんがクリスチャンでいらっしゃったのかどうかはわからない。それでも、Mさんがそのクリスマスカードをお書きになった状況を思うと胸が痛んだ。

 この二通のクリスマスカードは、わたしがキリスト信者になる道程の道しるべであったような気がする。

 Mさんは当時、SFやスラップスティックのようなものを主に書いていたわたしに「結城さんは、もっと、日常の暖かい話を書ける方だし、そういった方がむしろ向いていると思うんですよ」とおっしゃってくださった。
 そのときの状況、情景を、わたしは今でも、今日のことのように思い出せる。そしてその言葉こそが三十年もわたしの中で蒔かれた種となっていて、今回「キリストを盗んだ男」として実ったのだと思っている。

 最近はキリスト教国であっても、政教分離その他の理由から、「クリスマスカード」ではなく「ハッピーホリディズカード」になってしまっている。
 わたしもクリスマスカードは、お世話になっている司祭と信徒仲間だけに送っている状態だ。

 だからこそせめて、このブログを読んでくださっている方みなさんには、このメッセージを送りたい。

「メリークリスマス! 主のご降誕、おめでとうございます!!」

 と。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録