2018年01月04日

【日記】禁煙

「禁煙なんて簡単だよ。俺なんて何回もやってる」
 という定番ジョークがあるが、わたしもご多分にもれず、何回も禁煙にチャレンジしていた。
 念のため、喫煙を始めたのは二十歳を越えてからである。格好つけというわけではないが、執筆のあいまに、ふと、考える時間を持つ合いの手を入れるのに、タバコを吸うのは最適だった。

 生来の非喫煙者にはわからないかもしれないが、喫煙というものは、ただ「タバコの煙を吸う作業」ではないのである。タバコを取り出し、トントン、と葉を馴らして口にくわえ、お気に入りのライターでシュッと火をつける。まずは一息、肺まで大きく吸い込む。フワッとした高揚感が身を包む。本当に美味いのは二口、三口くらいまでだ。そこまできたら、灰皿にトン、と灰を落とす。
 そうしたら灰皿に吸いかけのタバコを置き、立ち上る煙を目で見て空気の流れを楽しむ。
 普通の酸素を灰に入れてブレンドしたら、再びもう一口。どこまで喫むかは人によるが、わたしはフィルターから1.5センチあたりのところまでで火を消す。
 この消し方も人それぞれ。わたしは、平らにトントントン、と叩いて消し、灰皿の灰も細かくするのが好きだった。

 喫煙とは、こういう一連の作業含めての娯楽なのである。ただニコチンという化学物質が欲しいだけなら、ニコチンパッチで十分なのだ(当時、そんなものはなかったが)。

 喫煙歴も長くなってくると、こういう一連の行為もただの「作業」になってしまうわけだが、根本には、こういう嗜みがあるものなのである。

 好きな人にはわかっていただけると思うが、自宅でコーヒーを美味く淹れるのにも似ている。自家焙煎とまではいかなくても、よい豆を選んで手挽きで好みの大きさに挽き、ドリップまたはサイフォンで丁寧に淹れる。人それぞれ、そこに流儀があると思う。コーヒーを飲む、という本来の目的とは別に、いやときにはそれ以上にこだわりがあるはずだ
 喫煙も、そういう趣味のひとつであったのだ。
 ただ、街のゴミ箱にコーヒーの空き缶が溢れているように、喫煙が「嗜み」だということを忘れた趣味心のない人間ばかりになって、街が吸い殻だらけになっているのは、本当にいただけない。あれでは「ヤニカス」と揶揄されても仕方ない。

 本来、喫煙が「嗜み」だったころは、マナーなどというものは必要なかったのである。今の時代には、もう喫煙を「嗜んで」いる者はほとんどいなくなってしまった。

 さて、禁煙。
 わたしのチャレンジは五、六回ではなかったかなぁ。
 最初は、年末に風邪を引いて、そのとき喉がとても痛く、いったん、やめたのである。そのまま新年を迎え、これは今年の目標は禁煙か? と思っていたのだが、松が取れるころにはもう吸っていた。
 そんな感じで、体調が悪かったり、なにかゲン担ぎで禁煙をすることはあったが、長くても一ヶ月続かなかったと思う。
 当時のわたしは若く、「健康のため禁煙する」という考えははなっからなかった。

 最後から二番目の禁煙のきっかけは、よく覚えている。夜のディズニーランドで細君にプロポーズしたとき、「君がこのプロポーズを受けてくれるのなら、タバコをやめる」と宣言したのだ。
 交際中、細君は特に、わたしの喫煙を嫌がったりしたことはなかったが、ひとつのけじめをつけるよ、という決意表決であった。

 そんなこんなで、結婚生活はタバコの煙とは無縁で送っていたが、そのうち仕事上のストレスが溜まって、細君に「吸っていい?」と訊くことに。
 また細君がそういうことに優しい(甘い?)人なものだから、そこで喫煙再開である。

 最後にやめたのは、最初の大病をやったときだった。当時はまだ、大病院の敷地内で喫煙ができた時代だったが、「この病気、寛解はあっても完治はしません」という診断にうちひしがれて、病院のロビーを出たとき、プカプカやっている人たちを見て、「自分は禁煙しよう」と決意したのだった。
 特に医者に禁煙を勧められたわけではなかったが、少しでも体のハンデになることは避けた方がよいと。

 一度、禁煙しよう、と本気で思うと、あとは簡単だった。禁断症状に苦しんだ覚えはまったくない。
 吸いたくなったらガムを噛む、禁煙パイポをくわえる、アメを舐めるなどは――個人的な感想だが――しない方がやめられる可能性が高いと思う。
 上記にも書いたが、喫煙というのは「習慣」なのである。習慣ということを意識して、それを「やめる」と決めた方がいい。代替手段を模索していると、結局、「もとの習慣の方がいいや」となってしまいがちなのが人間だからである。
 わたしの周りでも、喫煙をピタリとやめられた人は、代替手段を模索せず「やめるならキッパリやめる」と決意した人ばかりである。

 やめる、と決意して、タバコと縁を切ってから、もう十五年以上経っている。わたしの肺も、多少は綺麗になっただろうか。

 禁煙してみたら、世界が変わったところもある。これは同時に、世界も禁煙にむけて変わりつつあるからでもあるのだが、長くなるので、この話はまたの機会にでも。

「最後にやめた」と、上段で書いたのは、喫煙習慣というのは「釘の抜けた穴」だと自覚しているからである。いつかまた、その穴を埋めるために吸い始めてしまうかもしれない。そういう意味で、一度喫煙習慣が身についてしまった人というのは、もう、喫煙処女ではないのである。
 なにしろ、この記事でタバコの美味さ書き始めてから、「あぁ、ここで一本吸えたらなぁ」と思ってしまったくらいなのだから。

「寛解あれど完治せず」という病気をいくつか抱えている身だから自重しているが、これがもう、先がない病気になったりしたら、また吸い始めてしまうかもしれない。

 しかし最近の、喫煙者への風当たりの強さを眺めていると、もし喫煙を再開したら、さぞや肩身がせまいことにびっくりするだろうなぁと感じる、
 いやほんと、最近の喫煙者のみなさんは、意志薄弱どころか、むしろかなり根性座ってる思いますよ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記