2018年01月09日

【日記】信仰宣言

 今回は引用成分多めでいきますよ(笑)

 さて、カトリックの主日ミサでは、司祭の説教のあと「信仰宣言」を唱えることになっている。
 以前は多くの教会で「洗礼式の信仰宣言」を使っていたが、これは本来、完全版たる「ニケア・コンスタンチノープル信条」を用いるべき、とカトリック中央協議会が決定したため、今はほぼ同信条か、短めのものを使いたいときは「使徒信条」を使うことになっている。

 というわけで、ここでその三つを引用してみたい。

 ●ニケア・コンスタンチノープル信条
 わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
 わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。
 すべては主によって造られました。
 主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。
 ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
 主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
 その国は終わることがありません。
 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
 聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と、来世のいのちを待ち望みます。
 アーメン。


 ●使徒信条
 天地の創造主、全能の父である神を信じます。
 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。
 アーメン。


 ●洗礼式の信仰宣言
 天地の創造主、全能の神である父を信じます。
 父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます。
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。


 いかがでしょう。正直な感想は?
 長い上に面倒で、よくわからない、というのが初読の印象ではないだろうか。

 しかも、よーく読むと、三つとも、似ていながらちょっとづつ違う。
 たとえば「ニケア――」や「使徒信条」では「全能の父である神を信じます」だが「洗礼式の信仰宣言」では「全能の神である父を信じます」となっている。なんだこれ? 逆でもいいの? という感じ。
 今でも司祭によっては「洗礼式の信仰宣言」を使う方もいらっしゃるので、「天地の創造主、全能の――」のあとに「父」がくるか「神」がくるかで、信徒が瞬時に判別できるという利点もある(笑)。

 なお、ロザリオの最初にも「信仰宣言」を唱えるが、これは「ニケア――」ではなく「使徒信条」を用いることになっている。
 というわけで、「使徒信条」と「洗礼式の信仰宣言」をソラで唱えられる信者は珍しくない。

 逆に「ニケア――」は長いし、主日ミサくらいでしか唱えないので、暗記しているという信徒はそう多くないのではないだろうか。たいていの教会で、聖歌集の裏にカンペが貼ってあったり、それぞれがミサ式次第をめくったりして読み上げているというのが実情では?

 しかしこれ、暗記するのはそれなりに意味があるのである。
 そもそも、「ニケア・コンスタンチノープル信条」というのはなにか、というと「異端を排除するための、真のキリスト教の定義」だからだ。

 たとえば「イエスは人であって神ではない」とか、逆に「イエスは神であって人ではない」というのは異端の考え方なのである。
 また、イエスがつけられたのは「十字架」であって「杭」ではないのである。
 さらに、普遍の教会をとおさずして信仰は完成しないということでもある。

 この「ニケア・コンスタンチノープル信条」を覚えておくことによって、キリスト教的新興宗教≠ェ勧誘にきたとき「あ、オレいいっす。大丈夫っす。ニケア・コンスタンチノープル信条っすから」と撃退できるわけである。

 ところが、この「ニケア・コンスタンチノープル信条」を巡って、カトリックとオーソドックス(ロシア正教会)が、ただ一箇所の点を巡って論争となったのであった。「聖霊は――」のいち部分がそれ。
 ザックリ言ってしまうと、カトリック側は「聖霊は父と子から出て――」だと解釈したが、オーソドックス側は「聖霊は父から出て――」だと主張したのである。
 この一点が原因となって、東西教会が分裂した(大シスマ)のだから洒落にならない。

 これが「フィリオクェ問題」である。

 バチカンが「エキュメニカル(教派を越えた理解)」を言うとき、一番最初にアタマにあるのは、この問題の解決(東西教会の統合)であろうという感じはヒシヒシとある。正直、大部分のプロテスタントの方は目に入っていないのである。ゴメンね。
 そして言うまでもないが、カトリック側は対話対話と言いながら、「聖霊は父と子から出て――」をゆずる気はこれっぽっちもまーったくない。まいっちゃうね(笑)。

 そういう神学的なことは、普通の信徒にはピンとこないというのが正直なところだ。
 ただ毎週唱えるものだから、そのたびにカンペを見るのも莫迦らしく、暗記しておくと、唱えるときに周囲の様子ををグルリと見渡せる、という利点もある。司祭でもけっこう、暗記していなかったりする。あるいは暗記していて同じことをしている信徒と目を合わせてしまい、苦笑してしまったりも。

 ちなみに「歌ミサ」用の「洗礼式の信仰宣言」はあるが(典礼聖歌251)、「使徒信条」および「ニケア――」の歌はない。「使徒信条」、「ニケア――」の歌ミサ用の曲がつくられることは、これから先もないだろうと思われる。

 なお、文語の「信仰宣言」は典礼聖歌453にあるが、歌ったことがある方は、かなり年季の入ったカト信者とお見受けする。わたしも「四旬節の聖歌 詩篇の歌・やまとのささげうた」というCDでしか聞いたことがない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記