2018年02月18日

【日記】食べる? or 食べない?

 あなたは、自分がなにか窮地に追い込まれたとき(と言っても、そこまでの緊急性はなく、ある程度、決着がつくまで日数の猶予がある場合)、「食べる方」だろうか? 「食べない方」だろうか?

 わたしは「食べない方」。食欲がガクンと落ちてしまう。



 こんな感じ。
 悠長に腹にモノ入れている余裕は、時間的にも体力的にも(食事はけっこう体力を使う行為である)ない。問題解決に向け全身全霊で突っ走っていく。
 頭は全方向にフル回転。もちろん、睡眠も取りにくくなり、眠っても浅く、すぐに覚醒してしまう。
 若い頃からそんな感じだから、長編の追い込みのときなど、まさしく寝食も忘れて¥曹ュことが多く、一週間で簡単に5キロくらい痩せてしまうのであった。

 これはもちろん、何度か書いているが、わたしがもともと「食べるの嫌い」なタチだからというのもあるのだろう。食事なんて生きるための最低限の必要努力でいい。カロリーメイトが出た頃は、そればかり飲んで囓っていた。
 一度、油断していたら、BMIが17.5になってしまっていて、さすがにモデルでもないのにこれはまずい、と少しは気を遣ったり。

 対して細君は「食べる」タチ。忙しくなればなるほど「ここで食べなきゃ倒れちゃう」と言って食事を抜かさない。
 細君はもともと料理上手で食べるの好きな人だが、さすがに目が回るほど忙しいときは料理までは手が回らない。それでも市販のおにぎりでもサンドイッチでも菓子パンでも食べる。

 そんな細君だから、わたしはちょっと安心していられる。
 もしわたしが不治の病で倒れたり、不慮の事故で帰天したとしても、数日は悲しみにくれるだろうが、三日後には「食べなきゃわたしも倒れちゃう」と食べて、生きてくれるだろうと思うから。

 さて、そんな「食べない」わたしだが、最近はめっきり痩せないようになってきた。このところ一番痩せていたのは、愛息が帰天した頃であった。それ以降、あまり自分を追い込まなくなったせいであろうか。

 わたしはBMI19位が一番身が軽くて過ごしやすい。BMI22が適正体重と言われているが、実際問題、BMI22は軽肥満ではないだろうかと思っている。もちろん、人によるし、統計マジックが多々あるのだろうけれども。

 少し前の記事にも書いたが、服薬の量を少し変えたのであった。すると「太りやすい」というより「痩せにくい」体質になってしまった。いつの間にか、BMIが21.7にまで上昇している。主治医の先生にも「太りましたか?」と指摘されてしまった(標準体重以下なのにねぇ……)。
 わたしは今の今まで「痩せにくい体質なんてものは言い訳、太る人は食べてるだけでしょう」と言っていたが、実際、痩せにくくことはあるのだなぁ、と感じ、今までの暴言を反省している。

 先生に指摘されてから、今まで以上の節食と多少の運動で1キロ痩せるのに、一ヶ月以上かかってしまった。若い頃、一週間で5キロ痩せられたあの日々が懐かしい。

 今の目標は、BMI20を割ることである。
 でもなぁ、自分の性格をふりかえると、こうやって「痩せるのに苦労している日々」の方が、平和な毎日でいいのかも、と思ったりもするのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月17日

【書評】コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか

 川島良彰「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」



 実は、今、出先なので実書が手元にない。のに、なぜこの書評を書きたいと思ったかというと、今いるのがネットカフェで、そこで一杯淹れた「スペシャリティコーヒー」が、まぁまぁこういうところでは美味いかな、と感じ、この本のことを思い出したから。

 実は川島良彰先生には(勝手に)あまりいい印象がなかった。というのも、ビッグコミックスピリッツで連載されていた「僕はコーヒーがのめない」というマンガの監修を先生がなさっており、同マンガの自分的評価が、実に、その、あの、アレだったからなのである。
 一回は打ちきられたかと思っていたら、今調べたら、最終7巻まで出ているとのこと。慶賀慶賀。今、せっかくネットカフェにいるのだから、と、店内検索機で調べてみたら、この店には置いていない。ガックリだ。

「僕はコーヒーが――」の(わたしが感じる)失敗は、美味しんぼにあるようなバトル展開に無理に持ち込もうとし、しかもその展開に工夫がない、という点にあったのだと感じている。


(原作:福田幸江/作画:吉城モカ/監修:川島良彰「僕はコーヒーがのめない」1巻より引用)

 これはわたしが2ちゃんに書いたものだが――

このマンガ
主人公「このゲイシャは欠点豆が多くてダメです……。ハンドソーティングしないと……。云々……」
一同「ふーん、そういうもんなのね」

これが美味しんぼなら
山岡「このゲイシャはダメですね。俺がそこのカルディで買ってきた豆でもっと美味いコーヒーを淹れてあげますよ」
(山岡がキッチンにこもって一時間後)
一同「確かに山岡のコーヒーのほうがうまい」
同僚「くっ……悔しいが確かに俺のゲイシャより味が清々としている」
くり子「マイルドカルディ豆なのになぜ?」
山岡「ハンドソーティングの差さ」

美味しんぼがいいとは言わんけど、もっとドラマで読ませてほしいな。マンガなんだから。


 という感じなのであった(なお同じIDで検索するとIDかぶりでいくつか出てくるが、わたしが書いたのは上のカキコだけなのでよろすく)。
 ちなみにストーリー展開は川島先生がなされているのではなく、あくまで監修。
 その後、川島先生の上書「コンビニコーヒーは、なぜ――」を読む機会があり、読み始めたら実に面白い。なによりこの本は川島先生の自伝でもある。

 川島先生はコーヒー焙煎業者の家に生まれ、小学6年のとき、東京のブラジル大使館に「ブラジルでコーヒーの仕事をしたい」と手紙を出すほどコーヒーへの情熱が溢れる熱血漢。その後、中米エルサルバドルの大学に留学し、国立コーヒー研究所に入所。
 エルサルバドルで内戦勃発後も、爆発の音を聞きながらコーヒー研究を続け、ついに邦人の帰国がやむなくなり、請われてUCC上島コーヒーに入社。その後、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアなどでコーヒー農園の開発に積極的に関わる。
 そして、自分が満足できる最高のコーヒーをお客さまに提供するため、UCC上島コーヒーを退社し、株式会社ミカフェートを設立。
 今日もまた「すべてはコーヒーのために」を合言葉に、コーヒーハンターのふたつ名を掲げ、旅を続けていらっしゃる。

「僕はコーヒーが――」も、妙な物語にしないで、川島先生の自伝マンガにしてしまった方が良かったのではないだろうか。

 本書はそのタイトルからしていい。「コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか」。そうそう、とうなずいてしまう。
 わたしは基本、味のわからない味覚音痴だが、ホテルのコーヒーを美味いと思ったことがない。ここ数年は高いだけで美味くないので、もったいなくて飲まないようにすらしていた。
 コンビニコーヒーは安いけれど美味い。コーヒーは美味さ以前に、「飲むシチュエーションが大事」というこは、以前「【回想録】コーヒーの思い出」にも書いたが、それを抜きにしても、やはり「高級店のコーヒーの方が美味く、大衆店の方がまずい」ということはないように思っていた。
 それをコーヒーハンター≠ナある川島先生が、こうやって一発で喝破してくれるのだから心地よい。

 同書を読むと、一度、最高に美味いという川島先生のお店で出している「グラン・クリュ・カフェ」を飲みたくなる。味音痴のわたしでも魂を抜かれるほど美味いのであろうか。

 以前、コピ・ルアクが話題だった頃、お土産で粉をいただいたことがあるのだが、それはロブスタ種で、しかも豆ではなくすでに細挽きしたもので、正直、ドリップしても美味いものではなかった。わたしは別にコーヒーに特段詳しいわけではないが、知らない方は「珍しいだけで良い」と思うのだなあ、と思わされた一件であった。



 この写真はアラビカ種のコピ・ルアクの豆。である。こちらの味はまあまあ。裏を見ると、コーヒープレスで淹れることが推奨されている。サイフォンで淹れちゃうけど。
「味音痴」と言いつつ、コーヒーの味にこだわっている自分がおかしいが、それだけ身近な飲み物だということだ。

 川島先生のコーヒーに対する妥協のなさと同時に、コーヒーを高級飲料として目指さず、値段相応であってもその枠内で最高に美味いものがつくれるはず、という柔軟な姿勢に共感した一冊。
 コーヒー好きは、ぜひご一読を。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月16日

【映画評】ローズの秘密の頁

 正直に書く。
 なんとも、感想の書きにくい映画である。それでもスルーできずに、なにか感じたことを記しておきたいという気持ちが、こうして万年筆を持たせ、原稿用紙に向かわせている。
 あまり脈絡のある感想にはならないかもしれない、と、最初にお断りを入れた上での記事であること、ご了解いただければ。



 以前、なにかの記事でも、聖書に書き込みができる人、できない人の話をしたが、この映画は、四十年の間、無実の罪≠ナ精神病院に入れられていたヒロインが、聖書の隙間に日記を書き入れていき、それを読んだ精神科医が、真実を知っていく――という物語。
 聖書読みとしては、そのあたりになにか面白い仕掛けがあるかな、と多少期待して鑑賞。

 あらすじ――
 第二次世界大戦のまっただ中のアイルランド。精神病院から逃げだし、激流の川べりの岩礁で、出産したての自分の赤ちゃんを石で撲殺した、という罪で、ローズは精神病院に幽閉されていた。ローズ自身は、自分は赤ちゃんを殺していない。赤ちゃんはどこかで生きているし、自分も正常であると主張している。
 時は流れ四十年の月日が経ち、その精神病院が取り壊されることになり、入院患者の再評価のために、高名な精神科医、グリーン医師がローズのもとを訪れる。最初の診断では、ローズに幻覚、幻聴を認め、精神病の診断を認めかけたグリーン医師だったが、ひょんなことから、ローズが自分の聖書に日記≠書き続けていることを知り、それを読み、またローズ自身と語りあうことで、真実を知っていく――。


 なお、鑑賞中、カンのいい人なら、そうそうに「あぁ、そういうことか」というネタバレに気づくことが多い映画だろうとは思うが、それ自体がストーリーの根幹をなしているということもあるので、今回はひさしぶりに、ネタバレは反転して見えないように記した。お読みになりたい方は、マウスで選択するなり、Ctrl-Aするなりしていただきたい。

 劇場が明るくなった後、そこかしこで「いい映画だったね」とささやく声が聞こえてきた(そう、けっこうこの映画、宣伝に比して人が入っていたんですよ)。
 一応は、ハッピーエンドを迎えた、ということになるのだろうか。しかし、このハッピーエンドは爽快感とはほど遠い。ほろ苦い、どこか納得しがたい、すっきりとしないハッピーエンドである。

 わたし自身の鑑賞後の感想は、もちろん、いい映画、物語であったとは思ったが、細君を誘ってもう一度見たいという気分にはなれなかった。

 アイルランドの複雑な教派事情――田舎はカトリックが主流で、都市部はプロテスタントの勢力が強くなっている。物語のヒロイン、ローズは、その都市部から田舎へ越してきたという設定――がバックグラウンドになっているが、それはあくまで舞台装置の域を出ておらず、ストーリー全体を言ってしまえば、村一番の美女がたくさんの男に言い寄られる中、ひとりのプロテスタントの男と恋に落ちる。そこに強硬に横恋慕する男がおり、そいつが、こともあろうにカトリックの神父だった――という、身もフタもないストーリーなのである。

 プロテスタントの男は志願してイギリスの兵士となっており、また戦場へ戻らねばならない。ローズは牧師のもと、プロテスタントの男と結婚するが、それはカトリックが主流の田舎では誰も知らない。これも悲劇のひとつである。

 プロテスタントの男は、田舎者連中に殺されてしまう(これは後にわかる)。しかし、ローズは彼の子を身ごもっていた。
 周囲はそれを、神父の子だとみなし、この醜聞を隠そうとローズを精神病院に幽閉する(というか、その前段階で、神父の画策により、彼女はもう、精神病院に入れられてしまっている)。
 臨月となったローズは病院を逃げだし、そして、「あらすじ」で書いたシークエンスとなる。
 果たして、ローズは自分の子を殺したのか――

 ローズが日記として書き込んでいた聖書≠ヘ、押し花あり、切り抜きあり、一面に絵を描いたページがありと、読むための聖書ではなくなっている。
 最初に「BOOK OF JOB(ヨブ記)」を「BOOK OF ROSE」に書き換えるところ以外は、特に聖書の内容との絡みはない。一カ所だけ、ダニエル書の夢の箇所が雰囲気的に出るだけ。聖書内容との謎かけ、というようなシーンは一切ない。聖書≠熄ャ道具のひとつにしか使われていないのである。
 このあたりが、聖書読みとしてはとても残念。たとえば、子どもが神父の子ではない、ということを、「列王記上21章」あたり――ナボトのぶどう畑のくだり――に書く、などの仕掛けがあってもいいのではないかなぁ、などと思ったりしてしまう。
 この映画の惹句では「半世紀の時をこえ、1冊の聖書が明かす胸震える衝撃と感動の物語」となっているが、別にこれが聖書≠ナなくてもいいというのがなんとも。
 ちなみに原題は「The Secret Scripture」。「秘密の聖書」だ。

 わたしはカトリックなので、どうしても見ていて、横恋慕してくる神父が腹立たしくて仕方なかった。
 帰天されてしまったが、教会の勉強会で仲の良かった年配の女性が、自分に洗礼を授けてくださった司祭が、後にある女性に「転んで」現場を離れさせられてしまったことを、何度も口にしていらっしゃったことを思い出す。彼女にとってそれはとてもショックな出来事だったようで、話すたびに、悔しさが口の端にのぼるのだ。さもありなん、と思う。

 ちなみに、一度、司祭として叙階された神父は、後に女性に「転んで」も、神父の名を奪われたりはしない。洗礼や叙階は、魂に刻印されるものなので(これをカラクテル≠ニいう)、一度つけたら、人間の手で消すことはできないからだ。
 女に「転んだ」神父が授けた洗礼などの秘蹟の有効性も消えたりはしない。
 ただ、もちろん、カトリック教会は「職能団体」としての面もあるので、そういう、女に「転んだ」神父は、もう表舞台に出ることはない。たいてい、地方で飼い殺しである。
 一生をキリストに捧げ、女性を遠ざけ、未婚の誓いを立てた上で神父になるのだから、そういう、女に「転ぶ」司祭なんてそうそういないんじゃないの? と、一般の方は思われるかもしれないが、つい最近も叙階したてのゲフンゲフン、ゴホゴホゴホ――なのである。

 やはりカトリックの神父には、女性関係は清廉でいてほしい。
 人間なのだから、などというのは安っぽい言いわけである。司祭職には、それだけの覚悟を負うだけの価値がある、とわたしは思うのである。

 ずいぶん話が飛んでしまったが、話を映画に戻して、一番のネタバレを書くと――

 ローズのもとに、精神科医グリーン医師を寄越したのは、今は大司教となっていたその神父であった。ローズはもちろん、自分の産んだ子を殺してはいなかった。グリーン医師こそが、あのとき、神父によって秘密裏に養子に出された、ローズの実子だったのである。


 描きようによっては、お涙ちょうだいの二時間ドラマのようなストーリーに陥りそうなところだ。しかし舞台となるアイルランドの自然の美しさ、演じる俳優の細やかさ、聖書という小道具に日記を記していくというアイデアがいい。物語は、美麗で、淡く、切なく、観る人それぞれにいろいろな思いがこもるエンディングを迎える。

 完成度は高いと思う。ただ、万人向けかというと、諸手を挙げてお勧めはできない。
 むしろ、カトリックだプロテスタントだ聖書だ十字架だとか、そういったものとは無縁な方の方が素直に「良い映画だったね」と言えるかもしれない。

 この記事は、観劇後に寄ったスタバで原稿用紙に万年筆で書いたものだが、そのときはどうも脈絡がなく、あまりいい記事にはなりそうもないな、と考えていた。しかし一晩寝かせてみると、まあ、それなりに形にはなったかと、こうしてエディタに打ち込みながらそう思っている。
 ハッピーエンドが爽快でなかったのは、ヒロインの恋人を殺した村人たちが報いを受けるシーンがなかったことと、今は大司教となった神父の苦悩が描かれていなかったからなのだな、と、気づいた。

 そのあたりもまたほろ苦く、観劇後は、スタバのコーヒーに、多めに砂糖を入れてしまったのであった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年02月15日

【日記】姿勢

 わたしは姿勢が悪い。
 良いと褒められたことがない。
 もちろん、フィジカルな「姿勢」の話である。心根の「姿勢」の方はどうだろう?

 子どもの頃から猫背であった。小学生の頃は背が低く、「恭介は列の先頭を見ればいつもいるからわかるのよ」と母に言われたものだった。
 背が低いことと、猫背であることがつながっているのかどうはわからない。ただ、猫背であるから背が伸びにくかった、背が伸びにくいから猫背になった、という悪循環はあるかもしれない。

 おかげさまで、中学にはいったら成長痛がするほど背が伸びて、今はわたしの世代の平均身長にはなっている。それでも猫背は直っていない。

 自動車教習所に通っていたときのこと。今は信じられないだろうが、当時は鬼教官などというのは珍しくなく、運転席に座ったとき、「なんだその姿勢は!」「社長か!」と罵られたことがあった。
 このときは猫背が原因ではなく、椅子に浅く腰掛けていたのがいけなかったのだが、「椅子には深く腰掛けてくださいね」とでも言えばいいのに「姿勢を直せ」「偉そうにしてるんじゃないよ」とただ罵倒されるだけで、こっちはもう、目が白黒である。

 そんなことがあったものだから、運転しているときの姿勢は猫背ではないと思う。スパルタにも意味があったのだな。

 PCに向かうときの姿勢も良くはない。PCデスクに椅子の組み合わせだが、たいてい椅子にあぐらをかいてキーボードに向かっている。そして猫背である。
 これは蟄居房やネットカフェにいるときも同じ。フラットシート席を指定して、あぐらをかいてDM200に向かっている。
 もちろん、スタバやファミレスでカキモノをするときにまで、靴を脱いであぐらをかいたりすることはない。こういうときは足を組んで普通にしているつもり。猫背かもしれないが。

 一時期、まだ病気もせず、営業で良く歩いていた頃は、姿勢を良くしてみようと努めていた期間もあったのであった。
 肩を開くようにして、背筋を立て、重心を腹のあたりに置いて歩くようにする。いやぁ、姿勢良く歩くというのは疲れるものだなぁ、と思ったものだ。
 しかし病気をして、姿勢などに構っていられなくなると、また猫背に戻ってしまった。

 細君と母がひそひそと、「恭介の背中に硬い定規でも入れたらどうだろう」などと呑気に相談していたりする。余計なお世話だ。

 姿勢が良い、ということが、どれだけ健康に効果があるのかはわからない。肩こりや、近眼にならない、といった副次作用があるのだろうか。今、苦しんでいる五十肩にもならなかったのかもしれない?

 なんにしろ、人生半分が終わって、もう姿勢を云々するのはやめようと決意した。今のわたしのフィジカルな姿勢は、もう治らない、と。これもわたしの個性のひとつなのだから。

 猫背が利点になることもある。以前も書いたが、打ち合わせなどのとき、わたしは猫背で、自然、テーブルに身を乗り出す形になるので、とても「乗り気」で「やる気がある」ように見える(らしい)のである。

 もっともこの技も、メールで仕事を受注してしまう現在では役に立たなくなってしまった。唯一の利点が、残念である。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月14日

【日記】灰の水曜日

「灰の水曜日」の記事は去年も書いている。2017/03/01の「【日記】灰の水曜日」がそれだ。
 去年書いたからと言って、今年はいいや、ということにはならない。なぜなら、カトリックの典礼というものは、毎年毎年、同じようにコツコツと行われるものだから。
 たとえ、毎年毎年、同じことが行われているとしても、そこには意味性があるのである。
 というわけで、今年も「灰の水曜日」について書くが、去年と内容がかぶっていてもご容赦を。


(燃やされ灰になるのを待つ、前年の「枝の主日」で配られた棕櫚の葉)

 わたしは一年を通して、この「灰の水曜日」のミサが一番好きかもしれない。厳粛で、人というもののはかなさ、神の似姿ではあっても人間は土から作られた存在であるという、神との関係性がにじみ出てくる典礼だからである。

「灰の式」にはいくつか方法があるが、前年に書いた方法は、灰を聖水で練ったもので、信者の額に十字架を描く方法であった。


(聖水と灌水器。それに灰)

 司祭によっては、そこまではせず、灰を信徒の頭に振りかけるというタイプもいる。これが過去からもあったものか、第二バチカン公会議後に生じた現代的な方式なのかは、わたしは知らない。
 最近は男性の司祭が女性の信徒の肌に触れるのはあまりよろしくないということで、この「灰を振りかける」方式が生まれたのかもしれない。
 わたし個人は、額に灰で十字架を描いてもらう方式の方が好きだ。そのまま食事に行って、家に帰るまでずっと灰の十字架つきでも平気である。カトリック信者の誇りである。
 ひょっとしたら、振りかける方式は、むしろ「額に跡が残る」のを嫌がる信者側から出た要望なのかもしれないな、とも思う。

「灰の式」は、あくまで「しるし」であるので、ご聖体とは違い、求道者(まだ洗礼を受けていない人)でも受けられる。わたしは求道者のとき、教会の事情があって、司祭の自宅(司祭館)で「灰の水曜日」ミサに与り、初めて灰の十字を額に描いていただいたのだが、あのときのアットホームかつ厳粛なミサと灰の式は今でも心に残っている。
(未洗礼者に灰の式をしてくださるかどうかは、司祭によるかもしれない。そのあたりは要確認ということで)

 このところ「イースター」を流行らそうとやっきになっている広告代理店だが、この「灰の水曜日」は絶対に流行させようとしないだろうな、というのもわたしが気に入っているところだ。

 過去には、亡くなられた川島なおみさんが「Ash Wednesday」という曲を歌われたことがあった。
 歌詞は引用できないが、けっこうカトリックの典礼暦を追っているアップテンポなラブ・ソングで興味深い。
 なにより、「水曜日と重なっているヴァレンタインの日にも」という一節がある。そう、今年の「灰の水曜日」は2月14日、ヴァレンタインでもあるのである。まるで今年のためのような曲だ。
 興味のある方は検索で動画、歌詞とも確認できるのでそちらをどうぞ、ということで。

「灰の水曜日」を過ぎると、悔い改めと節制の四旬節が始まる。今年の復活祭は4月1日。おっ、エイプリルフールですか。こりゃあいい。イースターを流行らせようとする莫迦な広告代理店が、今年はそっちに手が回らないだろうから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記