2018年02月13日

【日記】パンケーキ・ディ

 大方の日本人にとって、明日、2月14日(水)は「バレンタインディ」で悲喜こもごもなわけだが、日本人の0.3パーセントであるカトリック信者にとっては、今年の明日は「灰の水曜日」である。
 灰の水曜日はイースターの46日前と決まっているので、移動祝日であるイースターにともなって、毎年、日付が変わる。今年はたまたま、バレンタインディと重なったわけだ。

 教会は「灰の水曜日」を境に、祈りと節制の「四旬節」に入る。その前日に、美味しいものを食べておこう、というのがマルディグラ、別名「パンケーキ・ディ」である。

 というわけで、我が家では、お料理苦手のわたしがパンケーキを焼きますヨ(といっても、別に「男正月」と違って、この日のパンケーキは男性が焼く、という風習がカトリックにあるわけではない)。

 まずは材料一式。この日のために、ネットで評判だったダイソーでパンケーキの型も揃えてみました。



 レシピどおり、ホットケーキミックスをコネコネしまして――



 ダイソーのパンケーキ型の内側にバターを塗り塗り。難しいなぁ。お料理って結局「手技」だと思う。手先の器用でない自分には難関が多い。



 パンケーキミックスを内側のラインまで入れて――



 トントンと叩いて空気を抜く。ふーむ。なるほどね。



 弱火で温めたフライパンに、このケーキ型をそのまま投入ー。



 フタをして、7分焼きます。うまくいくかなぁ……。



 7分後。こんなものでいいのかなぁ? ここで裏返して、油(あるいはバター)をひいたフライパンに乗せろ、というレシピの指示。裏面を焼くときはフタはいらないそうで。
 えいや、っと。



 そしてまた三分焼きます。型はいつ取るのだろう。ちょっと不安になってきたので、ここで型を抜いてみますヨ。



 おぅ、竹串にもケーキミックスはついてこないし、いい感じではないかい?



 完成ー! お料理苦手男子の初心者パンケーキにしては及第点ではないでしょうか。
 調子に乗ってセカンドロットもいきますよ。



 ありゃあ、今度はちょっと失敗。パンケーキがはみ出てしまった。
 パンケーキミックスが残っているので、サードロットまでGo。



 形はアレですが、まぁ三段重ねのパンケーキができたのでよしとしましょう。
 お料理苦手男子の初心者パンケーキとしては、まぁまぁのできだと点を甘くしてくださいな。



 サイフォンでコーヒーを入れて、細君といただきます。
 味は、まあホットケーキミックスで作ったので、それほどひどいものにはなっていませんヨ(笑)。よかったよかった。
 なにかフルーツやクリームなどの甘いつけ合せを用意できるほどの気は回らない、お料理苦手男子でありました。

 というわけで、パンケーキでおなかいっぱい。けれど明日は「灰の水曜日」。額に灰で十字を描かれるカトリック信者も、チョコをもらえない男子も、チョコをあげない女子も、みな、罪深い人間なのです。
 塵から生まれ、塵に帰りなさい。どっとはらい。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月12日

【日記】マッド・エレベーターの夢

 久々に「マッド・エレベーター」の夢を見た。
 これは青年期頃によく見るようになった悪夢である。

 普通に、普通のエレベーターに乗る。ボタンを押して扉が閉まる。ところが、エレベーターの挙動が普通ではない。超スピードで上へ飛んでいったかと思うと、いきなり止まって、今度はそのまま自由落下していく。
 まったくコントロールができず、エレベーターはどこの階にも止まらない。乗っているわたしは中で翻弄されるばかり。上昇中は床にへばりつき、下降中は無重力の中でもがくばかり。
 他にお客が乗っているときもあれば、ひとりのときもある。

 たいてい途中で、恐怖のあまり目を覚ましてしまうので、この夢のオチを見たことはほとんどない。というか、無事にどこかの階に降りられた、というオチは今までなかったのではないだろうか。

 この夢は、十七歳から二十歳前半にかけて、よく見たものだった。
 新潮社のエレベーターに乗ったとき、一緒に乗ったMIさん、MAさんに「こんな悪夢をよく見るんですよー」と話したら、年上のMIさんがバリトンのいい声で――

「エレベーターの夢ってのは、性的なものらしいよ」

 とおっしゃったことを、昨日のことのように思い出せる。自分的には性的な夢≠セとは思っていなかったので(実際、そうではないと思う)、「たいてい、いろいろなことがうまくいっていないときに見るんですよね−」と言ったら、「そりゃそうだよ」と笑われてしまった。

 ここで自分のスタンスを書いておくと、わたしは「夢判断」「夢占い」などというものは一切信じていない。ユング派の「夢コンサルティング」はある程度「アリ」だと思っているが、あれは術者と患者の間にある一定の了解≠ェ生まれていく中で内察し完成されていくことであるので、「夢判断」「夢占い」とはまったく別物だと思っている。

 さて、マッド・エレベーターの夢だが、それが性的なものかどうかはどうでもいいことだが、結婚したら見なくなった。
 結婚後数年、いやぁ、そういや、あのマッド・エレベーターの夢もめっきり見なくなった、と思っていたら、なんとパワーアップしてもどってきやがったのである。

 今度のエレベーターは、なんと全面ガラス張りである。普通のガラス張りエレベーターのように小さいときも、展望レストランのように大きなときもある。それが今度は、回転しながら激しく上下する。自分は高所恐怖症もあるので、今までのマッド・エレベーターよりも恐怖数倍である。
 もうこうなると、エレベーターというより、遊園地のアトラクションに近い。

 わたしは、夢の中で「これは夢だ」と気づくことが多いタチだとは前に書いた(これは青年期後に取得した能力)。
 そこで、この「透明ガラス張りマッド・エレベーター」に乗ったときは「ちくしょう、むしろ楽しんでやるぜー」という決意を持って体験するようになったのである。
 そうしたら、なんということか、透明ガラス張りエレベーターは、ただの高級ホテルのエレベーターと化し、特にマッドな挙動も示すことなく、普通に階に止まるようになってしまったのであった。

 起きて「ああ、この夢もコントロールできるようになったんだなぁ」と思って以来、エレベーターの夢は、ノーマルエレベーターも、透明ガラス張りエレベーターも見なくなった。

 それが先日、久々に見たのである。夢の中で、「あっ、懐かしい。このホテルはマッド・エレベーター≠フあるホテルだ」と気づいて、むしろ懐かしさから、自分から乗り込んでいったのだった。
 久々に乗ったマッド・エレベーター≠ヘ、ガラス張りの、回転展望レストランタイプであった。乗ると、回転しながらぐんぐんと空中へ登っていく。おぉお、この遠心力感と上昇力がたまらない。恐怖は多少感じていたと思う。でも、夢であることを理解しているからガクブルではない。
 ここで意外なことが起こった。エレベーター(というか、回転展望レストラン)が斜めになったのである。これは初めての体験であった。
「うぉお、これはガラスが割れて落ちるかもなー」
 と、思ったところで目が覚めた。

 と、特にオチはないが、こういう夢をみたんだよ、という話。
 もしこれが性的≠ネ夢だったら、なんだろう。わたしのアレ、そのうち回転しながらモゲるのだろうか。ガラス張りということは、それも衆人環視の中でということ!? いやだなぁ(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月11日

【日記】紙マスク

 最近はめっきり、この季節になると紙マスク≠つけている人が多くなった。もう季語として紙マスク≠ェ入ってもいいのではないかと思うくらい普通である。

 紙マスクの流行が始まったのは、2010年以降くらいではないかな、と記憶している。確かインフルエンザが「ひどい風邪≠ニは違う」と認識され始めた頃と同時期。我が家でも細君が何箱か箱買い≠オて、いまやっとそれの最後の一箱がなくなろうとしているところだ。

 わたしは紙マスク≠謔閾ガーゼマスク≠フ方の使用歴が長い世代。ガーゼマスク≠ヘピッタリと鼻と口にくっつくので息がつらかった。日常で使うことはもちろん、よほど風邪がつらいときくらいにしか使ったことがない。

 対して紙マスク≠ヘよい。鼻のところの針金でピッタリ隙間を埋めれば、メガネが曇ることもない。
 清潔度も、ガーゼマスクを洗って使うより、ポイと捨てて新しいのを使えばいいのだから安心だ。

 日本人的感覚として、「みんながしていると安心してできる」というものは確かにある。
 そしてこのマスクというやつ、寒冬にはとても暖かいのである。最近はこの季節になると、風邪予防というより、防寒対策としてつけている。そういう方、多いのではないだろうか。
 あとは小顔に見え美男美女っぽくなることに期待してつけている、という方もいらっしゃったり?

 自分的には、多少の無精ヒゲがマスクで隠せる、という利点が大きい。夏の間は剃って外出しなければいけないレベルに伸びたヒゲ程度ならば、冬はマスクをして出れば奇異に見られない。
 顎のあたりから無精ヒゲが見えても、風邪をひいて、無理をして外出しているのかもしれない、と、解釈してくれるかもしれないし、ね。

 ところで、外国人は、この「マスク」というやつが嫌いらしい。外国人司祭はもちろん、国際ミサ・英語ミサなどに与ってみると、ほとんどの外国人の方がマスクをしていない。日本人と違って、自ら表情を表し、同時に相手の表情を読み取ることが重要だから(笑顔を浮かべ敵対心がない≠アとを証明するため)、マスクはいまいちなのかもしれない。
 ジム・キャリーの名作に「THE MASK」というものがあり、わたしも大好きな一本なのだが、外国人的には、マスクはなにか本心を覆い隠したり、逆に隠しておいた本性が出てきたりしてくるやっかいなモノという心情があるのかも。

 逆に日本人には「人に迷惑をかけない」という日本教があるので、咳やくしゃみを人に浴びせてはならないという強迫観念がこの紙マスクブームを後押ししているのかもしれない。

 わたしはやっかいな感染症にかかりかけたことがあるので知っているのだが、実は、隔離病棟に入れられるような感染症にかかった患者本人は、人に会うとき、普通の紙マスクでいいのである。
 そして、お見舞いに来る人の方が、逆にそれ専用の密度の高いマスクをすることという決まりがある。ちょっと知られていないムダ知識である。

 この(たぶん)日本のみで見られている紙マスク≠フ流行が、いったいいつ頃まで続くのか、それとも完全に定着して日本の新しい風物詩になるのか、興味をもって見守ることにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月10日

【日記】くら寿司「ティラミスシ」&ローソン「ベイビーゲイシャ」

 日本語感覚では「ティラミズシ」と濁音になるんじゃないの? という気もするが、ティラミスとかけているのでそこは仕方ないのかも。正式名称が「ティラミスシ」である。



 以前も「チョコバナナロール寿司」や「シャリチョコパン」で甘党の度肝を抜いてくれたくら寿司さんが、またもやってくれました。2月9日から15日までのバレンタイン期間限定で、あまーいお寿司「ティラミスシ」を販売するとのこと。これは甘党として駆けつけねばなるまいよ。

 販売開始日当日の9日の昼、クルマで行ってみる。

 わたし「きっとティラミスシの評判を聞いて、お客さまが殺到しているだろうから、混んでると思うんだー」
 細君「ないよ、ないない」

 駐車場はそこそこ空きでした。うーむ。ま、まだ一日目だからね。
 店内もすぐ席に案内されました。ありゃあ、まあ、まだ一日目だから。

 ぐるぐる回るところに「ティラミスシ」が列をなしているかと思いきや、全然回っていない。どころか、店内でもあんまり推していない感じ。唯一あったのが、冒頭に貼ったラミカードである。

 席に座るなり、すぐにひと皿注文。あれっ、細君はどんどん他のお皿を注文している。

 わたし「えっ、ガッツリ食べにきたの!?」
 細君「うん、お昼だもん」
 わたし「俺はてっきり、ティラミスシでティータイムかと思ってた」

 細君は基本、生魚苦手なタイプだが、回転寿司は「変わりダネ」が多く、「ツナ」とか「コーン」とかがあるので大丈夫なのである。

 その変わりダネはどんどんくるのだが、肝心の「ティラミスシ」はなかなかこない。作るのにわりと時間がかかるらしい。待つこと十分くらい。やっときましたよ。



 ひと皿に三つ乗っている。ツナの軍艦巻きと比べると――



 こんな感じ。
 アップにしてみましょう。



 この時点で、細君はもう引いている。というか、ラミの宣伝の断面図にある、「シャリ」とか「海苔」が入っているという情報だけでゲテ扱いである。

 では、いただきまーす。神に感謝。



 わたし「これはお醤油つけるのかなぁ?」
 細君「つけないんじゃない?」
 わたし「お箸で食べるのかなぁ?」
 細君「スプーンにしたら?」

 いろいろ逡巡の末、ひと口目、いきまーす。

 わたし「うっ……」
 細君「?」
 わたし「う……。最初はうっ≠ニなるけど、噛んでると甘くて美味しいよ!」
 細君「最初の一言がうまい≠カゃないんだ(笑)」

 細君も一個食べてみて、感想は――

 細君「うっ……」
 わたし「うまいでしょ?」
 細君「うーん……。一個でいいです」

 完全に引いている(笑)。
 いやしかし、わたしは二個目はうまかった。例のうっ≠烽ネかったし。
 というわけでひと皿食べ終わり――



 二皿目いきまーす。



 せっかくだから断面図を撮影しようと、スプーンで切ってみたが――



 なんか食欲をそそらない断面図になってしまったorz
 ん、今度は最初にうっ≠ニならない。というか、ふた口目にうっ≠ニなる。ひと皿目は勢いで食べたので、ふた皿目はよく味わってみた。ホイップとカカオリッチの味がいい。けれど、チョコプリンの味は感じない。うっ≠ニなるのは、シャリと海苔のアンバランスだろうか……。いや、うまいよ、うまいんですけどね。

 そうこうしているうちに、細君がなにか別のものを取ってるぅ!


(裏切りのフォンダンムース)

 細君「やっぱりちゃんとしたデザートを取らないと」
 わたし「だったらティラミスシをもうひと皿食べればいいじゃないですかぁあああ」

 どうも細君の中で「ティラミスシ」は「ゲテ」認定されてしまったらしい。
 いやでもね、美味しかったですよ。マジでマジで。

「くら寿司」を出たところで――

 わたし「……なんか気分悪くなってきちゃった」
 細君「あーやっぱりね」
 わたし「違うって、服薬してるクスリの量を上げたから、副作用で吐き気が出ちゃってるだけだから!」
 いやほんとにそうなので、くら寿司関係者の方、「ティラミスシ」開発の方、胸を張って「美味しいですよ!」とおっしゃってください。ごちそうさまでした。

 さて、帰り道にローソンへ寄って――



 こちらは2月6日から販売開始したという、マチカフェシングルオリジンシリーズ「パナマ ベイビー ゲイシャ」が目的。数量限定発売だという。
 Sサイズ一杯が500円也。カウンターを見ていると、店員さんがゲイシャの入ったコーヒー粉をコーヒーメーカーの専用穴に入れてドリップしている感じ? うーん、粉だけ、あるいは豆だけを売ってくれる方がいいんだけれどね、と、細君と顔を見合わせる。



 さっそくクルマの中で試飲してみると――

 細君「あっ、香りがすごくいい」
 わたし「フローラルな香りだね。それに――」
 細君・わたし「すごく美味しい!」

 車内にゲイシャのいい香りが満ちて幸せである。
 やはり甘いものとあわせたい、というので、テルモスのタンブラーに移し変え、帰宅してから、再びデザートタイム。



 再度、ひと口飲んでみると、まだ熱いのに――

 細君「あれっ、味が変わっちゃってる」
 わたし「ほんとだ。酸味が出ちゃってるね」

 やっぱり美味しいコーヒーは、淹れたてをその場で飲まないとダメですなぁ……。

 今進めているプロジェクトが終わったら、手のとどく届く価格のゲイシャの豆を買って、家でコーヒープレスで飲もうか、などと、おしゃべりに花を咲かせた金曜日の午後であった。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年02月09日

【書評】「私の生きた証はどこにあるのか」

 H.S.クシュナー著/松宮克昌訳「私の生きた証はどこにあるのか」。

 副題には「大人のための人生論」とつく。岩波現代文庫オリジナルの翻訳で――

 わたしの人生にはどんな意味があったのか? 人生の後半を迎え、空虚感に襲われる人々に旧約聖書の言葉などを引用し、悩みの解決法を提示。


 と、紹介文には記されている。



 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」は間違いなく名著である。そちらは何度読んだかもわからない。そして、今の時代の人々誰にでも(!)お勧めできるという自信がある。その意味で、わたしはクシュナーに私淑していると思っている。

 ユダヤ教のラビ(聖職者)であるクシュナーは愛息を早老症という病で亡くし、それをきっかけに「なぜ私だけが――」を書いた。しかしその内容は決して悲嘆と愛息への哀悼に満ちた自己憐憫の一冊ではない。ラビ職にある彼が神への護教論へ走ることなく、ごく普通の人々。彼の同じく、人生の不条理、神の不公平≠ノ苦しむ人を慰め、勇気づける、素晴らしい内容の書籍である。

 そのクシュナーが、「なぜ私だけが――」後に書いた、初邦訳となる「私の生きた証はどこにあるのか」が2017年2月16日に出る、というのだから、一年前、わたしは小躍りして喜んだ。
 そしてすぐに入手して、読み始めた――。が、今度は「なぜ私だけが――」に比べて、読むのに実に時間がかかった。邦訳された松宮先生のせいではない。よい翻訳だと思う。それでも、どうしても読み続けることができない。

 半年以上、いつもカバンの中に入れて、読めるときは読む、という感じで読み続けて、読了。
 正直に言おう。前著「なぜ私だけが――」のような感動はなかった。
 これは読むスピードが遅かったからかもしれない、と思い、2018年の正月休みに、休憩を入れずに一気に読んだ。感想は、同じであった。

 さて、この本は、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」の問題を扱った書だ。それを旧約聖書の「コヘレトの言葉」と相照らすような形で扱い、人生の半分を終えた人間がどう生きるべきか、という内容を描いている。
 まさしく、わたしのような、人生の半分を終え、コップの水が半分になってしまった人間が読むべき書であり、読者ターゲット層であることも間違いない。

 ちなみに「コヘレトの言葉」はもちろんキリスト者として馴染んでいる。それどころか、旧約聖書の中で一番好きな一書だ。これも、何度読んだか、朗読で聞いたかわからない。違う翻訳でもいくつも読んだ。「空の空。空の空なるかな。すべて空なり」という文語訳が好きだ。

 本書は、古代人コヘレトが試みた「全人的な生き方を目指すが挫折していく道程」を、実例や他書名著からの引用などで解説していく。
 わたしがあまり感動しなかったのは、クシュナーの解説が、「コヘレト読み」には当然だったことだからなのかもしれない。

 惹句には「悩みの解決法を提示」と書いてあるが、それは、ない。
 むしろ、「老いていく中で生まれる悩みの解決方法がないこと、それでも生きていることに意味があると思うことこそが人間の証である」という結論へと収束していく。
 人生の半分が終わった人間のむなしさへの解決方法としては

さあ、喜んであなたのパンを食べ  気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。(コヘレトの言葉 9:7)


 を挙げて、「今を楽しむことだ」と言う。この世界に人間がなしえることで永遠なるものはないのだから、そういった遠くへ目を向けるのではなく、「小さな幸せを積みあげていくことだ」と。
 この結論は、やはりわたしが名著と思い、私淑しているR.カールソンの「楽天主義セラピー(You can feel good again)」でも結論づけられていることだ。

 しかし、「楽天主義セラピー」との違いは「楽天主義セラピー」では、肝心の「今を楽しむ」ことの難しさ、それを乗り越えるノウハウが記されているのにたいし、本著「私の生きた証――」は、単に「今を楽しむことだ」で終わってしまっていることである。

 本書の原著は1986年に発行されている。訳者あとがきには

本書は、「今の時代に古すぎる」と少なからぬ出版社から翻訳を断られ、十余年の歳月が流れました。


 とある。
「今を見つめ、今を楽しみながら生きることが大事」ということは、「ミドルエイジ・クライシス」という言葉すらなかった当時は、それを言うだけで、なにか気づき≠ノなったのかもしれない。しかしそれは言うは易し行うは難しなことであり、いわば、難しいことを承知していながら、それを二十一世紀の今に丸投げしてしまっているわけで、わたしが求めていた「感動」がそこになかったことは仕方ないのかもしれない、と、思う。

 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」も、R.カールソンの「楽天主義セラピー」も、わたし自身が好きすぎて≠るいは影響を受けすぎて≠「て、まだ書評を書けないという面が多々にある。
 実は両書とも、自分で打ち込んで青空文庫フォーマットにし、MHE Novel Viewerでいつでもスマホで読めるようにしているくらいなのだ。

 本書「私の生きた証はどこにあるのか」とは、出会うのが遅すぎたのかもしれない。あるいは、早すぎたのかもしれない。「なぜ私だけが――」でベストセラー作家となり、一躍、世界の有名人となったクシュナーの筆致が、以前と変わらず誠実であり、対象に向かう暖かい目に変わりがないことにはホッとする。

 ミドルエイジ・クライシスに悩むご同輩には、もし、あなたが聖書に親しんでおらず「コヘレトの言葉」を読んだことがないなら、という前提で、「まあ一読の価値はありますよ」とお勧めしたい。

 しかし、この高度情報化社会は、は「小さな幸せ」を積み重ねることすら困難な時代になってしまった。未婚率は右肩上がりになり、妻あるいは夫という家族を得ることさえ難しい時代である。

 石川啄木が「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」と詠んだのは明治時代のことであった。平成の終わりには、それすらも過度な贅沢になってしまったのだ(しかもそのときの啄木は24歳、さらに言えば妻は14の頃から交際していた初恋の人である。それなんてエロゲ?)。

 話をクシュナーの「私の生きた証は――」に戻すと、現代の時代が早すぎて、今のわたしの年齢では、この書を読んで影響を得る何か≠得られていないだけなのかもしれない、とも思う。
 これから先、毎年一回は読んでみよう、と考えている。もしかしたらそのときそのときで、なにか感じるものが違うかもしれないから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評