2018年02月09日

【書評】「私の生きた証はどこにあるのか」

 H.S.クシュナー著/松宮克昌訳「私の生きた証はどこにあるのか」。

 副題には「大人のための人生論」とつく。岩波現代文庫オリジナルの翻訳で――

 わたしの人生にはどんな意味があったのか? 人生の後半を迎え、空虚感に襲われる人々に旧約聖書の言葉などを引用し、悩みの解決法を提示。


 と、紹介文には記されている。



 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」は間違いなく名著である。そちらは何度読んだかもわからない。そして、今の時代の人々誰にでも(!)お勧めできるという自信がある。その意味で、わたしはクシュナーに私淑していると思っている。

 ユダヤ教のラビ(聖職者)であるクシュナーは愛息を早老症という病で亡くし、それをきっかけに「なぜ私だけが――」を書いた。しかしその内容は決して悲嘆と愛息への哀悼に満ちた自己憐憫の一冊ではない。ラビ職にある彼が神への護教論へ走ることなく、ごく普通の人々。彼の同じく、人生の不条理、神の不公平≠ノ苦しむ人を慰め、勇気づける、素晴らしい内容の書籍である。

 そのクシュナーが、「なぜ私だけが――」後に書いた、初邦訳となる「私の生きた証はどこにあるのか」が2017年2月16日に出る、というのだから、一年前、わたしは小躍りして喜んだ。
 そしてすぐに入手して、読み始めた――。が、今度は「なぜ私だけが――」に比べて、読むのに実に時間がかかった。邦訳された松宮先生のせいではない。よい翻訳だと思う。それでも、どうしても読み続けることができない。

 半年以上、いつもカバンの中に入れて、読めるときは読む、という感じで読み続けて、読了。
 正直に言おう。前著「なぜ私だけが――」のような感動はなかった。
 これは読むスピードが遅かったからかもしれない、と思い、2018年の正月休みに、休憩を入れずに一気に読んだ。感想は、同じであった。

 さて、この本は、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」の問題を扱った書だ。それを旧約聖書の「コヘレトの言葉」と相照らすような形で扱い、人生の半分を終えた人間がどう生きるべきか、という内容を描いている。
 まさしく、わたしのような、人生の半分を終え、コップの水が半分になってしまった人間が読むべき書であり、読者ターゲット層であることも間違いない。

 ちなみに「コヘレトの言葉」はもちろんキリスト者として馴染んでいる。それどころか、旧約聖書の中で一番好きな一書だ。これも、何度読んだか、朗読で聞いたかわからない。違う翻訳でもいくつも読んだ。「空の空。空の空なるかな。すべて空なり」という文語訳が好きだ。

 本書は、古代人コヘレトが試みた「全人的な生き方を目指すが挫折していく道程」を、実例や他書名著からの引用などで解説していく。
 わたしがあまり感動しなかったのは、クシュナーの解説が、「コヘレト読み」には当然だったことだからなのかもしれない。

 惹句には「悩みの解決法を提示」と書いてあるが、それは、ない。
 むしろ、「老いていく中で生まれる悩みの解決方法がないこと、それでも生きていることに意味があると思うことこそが人間の証である」という結論へと収束していく。
 人生の半分が終わった人間のむなしさへの解決方法としては

さあ、喜んであなたのパンを食べ  気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。(コヘレトの言葉 9:7)


 を挙げて、「今を楽しむことだ」と言う。この世界に人間がなしえることで永遠なるものはないのだから、そういった遠くへ目を向けるのではなく、「小さな幸せを積みあげていくことだ」と。
 この結論は、やはりわたしが名著と思い、私淑しているR.カールソンの「楽天主義セラピー(You can feel good again)」でも結論づけられていることだ。

 しかし、「楽天主義セラピー」との違いは「楽天主義セラピー」では、肝心の「今を楽しむ」ことの難しさ、それを乗り越えるノウハウが記されているのにたいし、本著「私の生きた証――」は、単に「今を楽しむことだ」で終わってしまっていることである。

 本書の原著は1986年に発行されている。訳者あとがきには

本書は、「今の時代に古すぎる」と少なからぬ出版社から翻訳を断られ、十余年の歳月が流れました。


 とある。
「今を見つめ、今を楽しみながら生きることが大事」ということは、「ミドルエイジ・クライシス」という言葉すらなかった当時は、それを言うだけで、なにか気づき≠ノなったのかもしれない。しかしそれは言うは易し行うは難しなことであり、いわば、難しいことを承知していながら、それを二十一世紀の今に丸投げしてしまっているわけで、わたしが求めていた「感動」がそこになかったことは仕方ないのかもしれない、と、思う。

 H.S.クシュナーの前著「なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記」も、R.カールソンの「楽天主義セラピー」も、わたし自身が好きすぎて≠るいは影響を受けすぎて≠「て、まだ書評を書けないという面が多々にある。
 実は両書とも、自分で打ち込んで青空文庫フォーマットにし、MHE Novel Viewerでいつでもスマホで読めるようにしているくらいなのだ。

 本書「私の生きた証はどこにあるのか」とは、出会うのが遅すぎたのかもしれない。あるいは、早すぎたのかもしれない。「なぜ私だけが――」でベストセラー作家となり、一躍、世界の有名人となったクシュナーの筆致が、以前と変わらず誠実であり、対象に向かう暖かい目に変わりがないことにはホッとする。

 ミドルエイジ・クライシスに悩むご同輩には、もし、あなたが聖書に親しんでおらず「コヘレトの言葉」を読んだことがないなら、という前提で、「まあ一読の価値はありますよ」とお勧めしたい。

 しかし、この高度情報化社会は、は「小さな幸せ」を積み重ねることすら困難な時代になってしまった。未婚率は右肩上がりになり、妻あるいは夫という家族を得ることさえ難しい時代である。

 石川啄木が「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」と詠んだのは明治時代のことであった。平成の終わりには、それすらも過度な贅沢になってしまったのだ(しかもそのときの啄木は24歳、さらに言えば妻は14の頃から交際していた初恋の人である。それなんてエロゲ?)。

 話をクシュナーの「私の生きた証は――」に戻すと、現代の時代が早すぎて、今のわたしの年齢では、この書を読んで影響を得る何か≠得られていないだけなのかもしれない、とも思う。
 これから先、毎年一回は読んでみよう、と考えている。もしかしたらそのときそのときで、なにか感じるものが違うかもしれないから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評