2018年03月25日

【日記】「教会」と「信徒」

 今、カトリックと、大部分のプロテスタントがミサ、礼拝に使っているのは、日本聖書協会の発行している「新共同訳聖書」である。

「新」というからには、「新」でない「共同訳聖書」もあったのだが、それは例えば「パウロ」が「パウロス」とギリシャ語読みになっていたりして違和感バリバリだったので、新約聖書を作り終わったのち、旧約に取り掛かる前に反故になったと聞いている。現在は日本聖書協会発行のものは絶版なので、わたしも教会の図書館でしか眺めたことがない珍品。なお、講談社学術文庫発行のものはまだ入手できる。

 さて、前述の「新共同訳聖書」は1987年に発行された。わたしは当時、クリスチャンではなかったが、このときの、カトリックが「イエズス」表記を譲り「イエス」にしたというニュースはよく覚えている。

 1987年発行であるから、もう31年が経過していることになる。
 法人の著作権関係は、現在の日本の法律だと、発行から50年で消滅する、となっている(2018年現在。将来的には70年に変更される予定)。そのようなわけなので、「新共同訳聖書」の前に日本聖書協会が発行した「文語訳聖書(明治・大正時代発行)」、「口語訳聖書(1955年発行)」はすでに著作権フリーとなっている。

 日本聖書協会の社員の糧を稼ぐため、というわけでもなかろうが、「新共同訳聖書」に変わる、新しい聖書の翻訳事業が進められていたのは、日本のクリスチャンなら誰でも知ってのとおり。今回、その名称がついにはっきりと決まった。

「聖書協会共同訳」

 である。なんだか、「新共同訳」の前の「共同訳」と混同しそうな感じだが、前述の経緯を知る信徒も少なくなったので、まあ妥当な名称かな、という気もする。

 さて、カトリックはプロテスタントに「イエズス」の呼び方を「イエス」に譲ったわけだが、それでも絶対に、そしてさりげなく譲っていない一点があったりする。

 それがタイトルの「教会」と「信徒」。

 たとえば新共同訳だと、新約聖書六番目の書は「ローマの信徒への手紙」となっている。
 しかし、カトリックが典礼(ミサ)で使う「聖書と典礼」では、絶対にこの表記はない。「ローマの教会への手紙」なのである。


(右が「聖書と典礼」。左が「新共同訳聖書」)

 ね。

 同じように「コリントの信徒への手紙一」は「コリントの教会への手紙一」となっている。



 これが「聖書と典礼」。しかし、「新共同訳聖書」だと――



 ほら、ね。

 これに気づいているプロテスタント信徒はもちろん(普段「聖書と典礼」を見ているプロテスタント信者はいないだろうし)、カトリック信者もそうそういないだろう。

 これはなぜなのかといえば、やはり「教会の外に救いなし」という、カトリックの「教会第一主義」、「教会あってのキリスト信徒」であるというカトリックの意地なのだろうなぁ、と思う。

 一人で聖書を読んでいる信徒≠ヘただの「イエス・キリストを好きな人」。そういう人が集まって教会≠構成して、初めて信仰への道ができるのだ、というのがカトリックの絶対に譲歩しないスタンスなのである。
 もちろん、この教会≠ヘ使徒継承の「聖なる、普遍(カトリック)の、使徒的、唯一の教会」である。個人の信徒≠ェ数人集まって作ったイエス・キリスト非公認ファンクラブとは違う、初代教皇ペテロより延々と続く、トップに教皇がいるカトリックの教会以外に、イエス・キリスト公認ファンクラブたる教会≠ヘない、という、強い意志がそこにはある。

 驕りといえば驕りである。驕りあるところに腐敗がある。プロテスタントの祖、マルチン・ルターの怒りもそこにあったのだ。
 今のカトリックは、ルターの宗教改革あってこそのカトリックだと断言してもいい、とわたしは思っている。それゆえ(前にも書いたが)わたしはルターを尊敬している。

 もちろん、プロテスタントも、プロテスタント信者も、ね。

 さて、新しく出る「聖書協会共同訳」だが、これをカトリックがいつ典礼に反映させるかは、まだ不明である。ただ、ちょっとパイロット版を眺めたところ「ローマの信徒への手紙」などとなっていて、あ、プロテスタント側も、この点は譲らなかったな(笑)、という感じだ。
 おそらく、「聖書協会共同訳」をミサで使ったとしても、カトリック側も「ローマの教会への手紙」を譲らないだろう。

 その微妙な意地の張り合いが、また面白い。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記