2018年04月04日

【回想録】余は如何にしてカトリック信徒を選びし乎

 タイトルでは「選びし乎」と大仰に書いているが、そんなものは人間の目からみた小さなことであって、実際には、神さまがわたしを「おまえはカトリックね」と配置したのである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネによる福音書 15:16)


 なのである。
 それでもわたしは成人洗礼なので、選ぼう≠ニ思えばプロテスタント教会を選ぶこともできた。
 歩いて数分のところに、由緒正しい「日本キリスト教団」の教会があったし、親戚にもプロテスタントの方がいた。
 そんなわたしが、歩いて一時間かかるカトリック教会の方を選んだ≠フには、わりと理論的な判断があった。

 ズブの素人がキリスト教に触れよう、というとき、まず始めてみるのは、「聖書を読むこと」ではないだろうか。
 わたしが若い頃、書店で入手できた聖書は「口語訳」だけであった。そこで検索してみると、どうやら現代の最新の聖書では、大まかに言って「新共同訳」と「新改訳」のふたつの訳が出版されているようなのである。
 これには少々びっくりした。なにしろ、教派は違っても「聖書」は「聖書」。同じだと思っていたのである。カトリックとプロテスタントでも、同じ聖書を使っていると思いこんでいた(一部新興宗教系キリスト教≠ェ独自の訳を使っていることは知っていたが)。

 新共同訳と新改訳、どちらを読もうか瞬間迷ったが、結論はすぐに出た。ここはやはり、伝統ある口語訳を訳出していた日本聖書協会発行の「新共同訳」だろう。しかも「新共同訳」は、カトリック、プロテスタントの共労で翻訳されたとのこと。カトリックにしかない「アポクリファ(旧約聖書続編)」つきのものもある。情報源は多い方が良い。

 あと、深くは触れないが「新改訳」を使っている教派に評判の良くない教会があることを知ったこともある。念のため言っておくと「新改訳」自体はいい訳だと思っている。

 さて、プロテスタントの聖書66書およびカトリックのアポクリファを読み終わっても、わたしはクリスチャンではなかった。ただの「聖書を一度読んだ人」である。
 やはり教会へ一度足を運んで、実際のところを体験してみないとわからないなぁ、という思いがあった。

 そこで、カトリックとプロテスタントがどう分かれ、どちらがどういう主張をしているか、ということを調べてみた。
 カトリックは「聖書と聖伝」をふたつの柱としている。「聖伝」とはつまり教会のシステムそのものだと言ってもいい。
 対してルターの提唱から分派したプロテスタントは「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」を旨としていた。

 最初、プロテスタントの主張は「こりゃあよい」と感じたものである。「聖書のみ――聖書だけ読んでいれば良い」。「信仰のみ――特に慈善などする必要はない」。「万人祭司――みなが祭司なのだから教会の存在すら必要としない」。
 これでクリスチャンを名乗れるのだから、プロテスタント万々歳である。

 日本のプロテスタント教派のひとつに「無教会」という独特なものがあるのだが、プロテスタントをつきつめていけば、結局は「無教会」にならざるを得ないのではないか。論理的なわたしはそう思った。

 ならばどうして、プロテスタント教会というものが存在するのか――それを説明してくれる書籍や牧師先生、ウェブサイトなどを探したが、わたしを納得させる答えはどこにもなかった。プロテスタントでも教会は必要。そればかりである。

 となると、正直、プロテスタントは根本的なところが論理的ではないなぁ、と思った。枝葉末節はけっこう論理的で、そういうところはわたしの性に合うのだが、やはり「教会に通わないとクリスチャンとは言えない」というのは「ルターの三原則」に合っていないと思う。

 いっそのこと「無教会派」になろうかと思ったこともあったが、「無教会派」は「無教会派」で、定期的な集まりを持っているのである。それって結局、教会と一緒じゃん、と内心思ったりもしていた。

 プロテスタントの一部が「間違っている」と拳を振り上げる、カトリックのマリア崇敬や聖人崇敬は、わたしにとってなんのハードルにもならなかった。人間が人間を尊敬するのは当たり前だと思っていたからである。むしろ、イエスと神さまだけを尊敬し、人類の歴史に善なるものを刻んできた人々を「ただの人だから」と軽視するという考えの方が高慢に思えた。

 実際に教会へ行く段になって、けっこう直前まで、プロテスタント教会へ行くか、カトリック教会へ行くかを迷っていたと記憶している。
 しかし、カトリック教会へは、行ってみないとわからないことが残されていた。「聖伝」である。その「聖伝」に触れてみたい、という思いがあり、最終的に、わたしと細君の足はカトリック教会へと向かっていた。

 そして縁あって勉強会に出るようになり、洗礼を受け、平均クリスチャン寿命≠フ三年を過ぎて、教会委員までやり、今や立派なカトリックの教会畜≠ナある。

 こういったものは、巡り合わせなのだろう。カトリック、プロテスタントと教派を分けたのは、おそらく神が、選択肢を多くしてくれたということなのだ。どちらが正しい、というものでもない。

 冒頭に「わたしがカトリック教会の方を選んだ≠フには、わりと理論的な判断があった」と書いたが、それは詭弁だ。ふりかえってみれば、そこにはやはり、なにか、運命的なものがあった、としか言いようがない。

 成人洗礼でプロテスタントの洗礼を受けた教会畜≠フ方にも、似たようなストーリーがあるのではないかな、と思う。

 讃えられるは神のわざ、なのである。

追記:タイトルはもちろん、内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」のパロディである。なんか偉そうだな、と勘違いされる方もいらっしゃるかと一筆。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録