2018年05月26日

【日記】澤井珈琲「プレミアムコーヒー 3缶ギフトセット」

 大きな仕事が終わったので、細君とお祝いに、「澤井珈琲 コーヒー専門店 世界を驚嘆させる幻の3種 最も希少な極上のプレミアムコーヒー 3缶ギフトセット 【豆のまま】 」を購入してみた。



「ブルーマウンテンNo.1(ミディアムロースト)」一缶、「ハワイコナ・エクストラファンシー(ハイロースト)」一缶、「ゲイシャ(ハイロースト)」一缶。それぞれ(たったの)50グラム入りである。

 こんなおしゃれな木箱に入れられて送られてくる。



 中身はこんな感じだ。左からハワイコナ、ブルマン、ゲイシャである。




(ハワイコナ)


(ブルマン)


(ゲイシャ)

 ちょっと残念だったのが、このキャニスター缶の中に、そのまま豆が入れられていたこと。


(こんな感じ)

 贈答品などにも使う可能性はあるわけだし、届いた豆をすぐ飲める人ばかりではないと思う。焙煎後の酸化を最小限に抑えることを考え、ここはひとつひとつ、パック包装にしてからキャニスター缶に入れてほしかったところだ。

 というわけで、ここは焙煎が新しいうちにさっさと挽いて、細君と味を楽しむことに。
 まず一杯目は、ふだんブレンドを飲んでいる細君が「高いシングルオリジン・スペシャリティコーヒーはそれだけ美味しい」ということを知ったゲイシャから。



 豆は当然、きれいに前の豆を掃除したミルを使って、手挽きで丁寧に。



 いい豆なので、これも当然、コーヒープレスを使ってストップウォッチを見ながら浸漬。



 挽いているうちから、ゲイシャの良い香りが漂ってくる。口あたりはフローラルで素晴らしい。

 細君「美味しいゲイシャだねぇ」
 わたし「ローソンで最初に飲んだゲイシャの驚きを思い出すね」
 細君「でもローソンのより美味しいよ」

 そりゃやっぱり、直前に挽いて、丁寧にプレスで淹れてますから。

 次はブルーマウンテンをいってみましょう。



 ブルマンは大学時代に、そのまま「葡瑠満(ぶるまん)」という名をつけた喫茶店に何度か通ったことがある。その後もブレンドでよく飲んだ、なじみのある豆だ。
 この豆は、一口目でガツンと苦味のくるストレートなブルマンだった。いかにもコーヒーらしいコーヒー。細君はミルクと砂糖入りで楽しむことに。
 なんとも、スイーツが欲しくなるコーヒーである。なにか用意しておけば良かった。

 最後にハワイコナ。飲む機会は今まで何度かあったが、なんとなく飲まずにきてしまった豆だ。



 ほどよい苦味。酸味は柔らかであまり感じない。ブルマンとちがってストレートでも美味い。後味がとてもサッパリしていて良い。バランスの良さがひきたっている。

 細君「ブルマンより飲みやすいね」
 わたし「ミルクや砂糖が不要のコーヒーだね」

 まあわたしは味覚音痴だが、細君は料理が趣味で食べるの大好きな人なので、彼女の美味しそうな笑顔を見られるのがなによりうれしい。

 この澤井珈琲「プレミアムコーヒー 3缶ギフトセット」。コーヒー好きの人にプレゼントすれば、間違いなく喜ばれると思う。

 今回は、大きな仕事をがんばってくれた細君へのプレゼントである。そしてなにより、神に感謝。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年05月25日

【回想録】タクシーの思い出

 思えば、タクシーをここ十数年以上、使ったことがない。
 最後に使ったのはいつだろう。バブルの頃、出版社にもらったタクシー券で秋葉原から帰ったのが記憶に残っているラストの映像である。

 タクシーの思い出は苦いものから始まっている。
 あれはまだ十代の頃だったと思う。出版社との打ち合わせで遅くなってしまい、家に帰るバスがなくなってしまっていた。
 駅前のロータリーのタクシーターミナルはふたつあり、ひとつはすいていて、ひとつは混んでいる。どうしてそんな差がついているのだろう? 行き先によるのかな? と思いながら、なんの疑問も持たずに、すいている方のタクシーに乗ってしまった。
 そのタクシーの運転手さんは、決して粗野ではなく、むしろ紳士的であった。ちなみに、駅から家までの距離は5キロ。長距離とは言いがたい。
 家まで近づいてきた頃、運転手さんがこう話しかけてきた。
「お客さんはお客さんだから、堂々としていていいんですが、お若いので知らなかったんでしょう。このタクシーは大型タクシーで、長距離を使う方が使われるものなんですよ」
「えっ」
「このくらいの距離だったら、次からは小型タクシーの方を使われるのが良いでしょうね」
 あぁ、駅で混んでいた列の方は、小型タクシーの方だったのか。それで合点がいった。若いわたしは恐縮してしまった。
 そのときのタクシー運転手さんは、普通に安い料金を受け取り、また駅へ引き返していった。なんとも、もうしわけないことをしてしまったなぁ、と、反省したものだ。

 あいや、苦い思い出ばかりではない。
 あれは高校の頃、駅から高校までのバスがストライキで止まっていたことがあった。そのとき、高校から駅まで、みなで割り勘でタクシーに乗ることにしたのである。
 そのときの運転手さんが(昭和的に)良い方で「もうみんな、乗れるだけ乗っちゃっていいよ」と言ったのであった。助手席に二人、後部座席に五人くらい乗っただろうか。さすがにトランク乗車はなかった。
「パトカーきたら、みんな頭隠してよ」とタクシー運転手さん。
 駅について、割り勘で支払い。バス代と変わらないくらいで済んだ。ああいうタクシー運転手さんは、現代ではいないだろう(し、そういう運転手さんが平成的に良い運転手かどうかは疑問だろう)。

 わたしが駅から帰る道の途中にタクシー会社があり、そこにこんな看板がある。
「無事故 30日目」
 数字のところだけ、張り替えられるようになっていて、毎日少しずつ新しくしているのである。
 これが数年前は――
「無事故217日目」
「無事故257日目」
 とかであった。営業車を何台も抱えていて、百日代も無事故ですごいな、と思っていたら――
「無事故238日目」
 ありゃ? 逆行している。と思ったら、なんのことはない、200日目の札を外していなかったのである。
 200日目の札を外したら、100ケタ代になることはまずなくなった。たいてい「無事故 20日」とか、その前後である。営業車が無事故でやっていくのは大変なんだろうなあ、と思う。

 今回、老父が病院から病院へ急いで移動するのに、久しぶりに病院にタクシーを呼ばれて使った、という話を聞いたので、つらつらとタクシー話を思い出して書いてみた。
 すべてのタクシー運転手さんの安全運転とご無事を祈って――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2018年05月24日

【日記】割礼

 今日はちょっとシモの話。でもなるべく、お上品に書くので、あっ、お客さん、まだ帰らないでー。

 なにしろ、この記事を書く動機が、とてもお上品な奥様の一言の思い出がきっかけなのである。

 さて、聖書には「割礼」という言葉が何度も出てくる。読み方は「かつれい」ね。アポクリファを含まないプロテスタントの聖書66書をざっと数えてみたら(いや、コンピュータで簡単なんですが)、103節、135個も使われている。

 さてこの「割礼」。なんのことだかわからない人もいらっしゃるかもしれない。えーっとですね。そのですね。
 要するに「割礼」というのは、ざっくばらんに入ってしまえば、「包茎手術」のことでありまする。

 ユダヤ人の決まり事のひとつとして、神さまが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖である「アブラハム」にこう命じたのだ。

あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。(創世記 17:10)


 これは、水が少ない荒れ野の民であるイスラエル民族の衛生的な問題を解決するために、宗教的天才であったモーセが、神の名のもとに命じた風習のひとつであったのかもしれない。と、考察もできるが、要するに――

あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。(創世記 17:13)


包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記 17:14)


 なのである。

 えっ、「割礼」の前に、まず「包茎手術」の「ホーケイ」がなんのことかわからないって? いやぁ、中学の頃の自分を思い出すなぁ。わたしも中学一年で、平井和正先生の「超革命的中学生集団」を読むまで「ホーケイ」がなんだか知りませんでしたよ。
 どうやら、男性器のとある形態のことを指す言葉らしい、ということはわかったので、畏友H君に「ホーケイって、チンチンが四角い(方形)ってこと?」と、恥ずかしい質問をして笑われたことを、今でも思い出しますな。

 ここで茶化さず、きちんと答えるのが大人の義務。包茎というのは、男性器を包皮が覆っている状態のことを指していう言葉のこと、である。というか、人間も動物も、包茎が普通の状態。普通でない状態のときに包皮が剥けている。これが正常。

 あー、オレは何を書いているんだか(笑)。

 さて、ここまで前ふりをして(長いよ)いよいよ、冒頭に書いた「とてもお上品な奥様の一言」について書くときがきた。
 あれは、教会での勉強会のときでのこと。見知った仲間が数人。男性は主任司祭とわたしだけ、というメンバー。
 みなで聖書を読み、勉強をするわけですな。当然、上記の「割礼」についての節を読むこともあるわけ。

 新約におけるパウロなんてのは、当時のユダヤ教ナザレ派(つまり後のキリスト教)に割礼の必要はないよ派だったりするので、「割礼」という言葉が頻出してきたりする。

割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。(コリントの信徒への手紙一 7:19)


 司祭「パウロもコリントの信徒への手紙で言っていますが、問題は割礼の有無ではなく、神の掟を守ることなんですねぇ」

 ふむぅ、と、みながうなずく。その中で、洋行帰りのとてもお上品なお若い奥様が、ふと、こんなことをおっしゃったのである。

「でも、神父さまも結城さんも、割礼、うけていらっしゃるんですよね」

 えっ!

 思わず目を泳がせ、主任司祭と視線が合い、二人とも体を固めたまま、二の句が継げずに、互いに無言で答えを押しつけあって数秒。
 そして我々は、同時に意思決定したのであった。

 無視!

 主任司祭「さて、次に進みましょう――」

 お上品な奥様が勉強会の池に投げた小石の波紋はサーッと消えていき、なかったことのように、次の聖句の解き明かしになっていったのであった。

 この洋行帰りの上品な奥様が、どこでそんな誤解を吹き込まれたのかはわからないが、たしかに現在でも、ユダヤ教徒、イスラム教徒は割礼を必要とするという。
 しかし逆にキリスト教は「割礼不要・食事禁忌不要」というパウロの主張がウケて広まったという点が多々あるのである。

 というわけで、こういうことにうといお上品な奥様のみなさま、キリスト教徒は割礼なんぞうけていませんから。タートルネックですから。
 よろしくお願いいたします。ハイ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年05月23日

【日記】厄落とし

 このところ、いろいろな厄≠ノ見舞われていてゲンナリしている。

・併用不可のクスリを三カ月も服用していたのを見逃され、その後遺症か、今も体がだるいのがとれない→耐えてがんばる。
・洗濯機が壊れた→新品に。
・家族が緊急入院→退院。
・家族が靱帯損傷で車いす→松葉づえ→つえ生活に。
・わたしが転んで、体の各所に打撲と傷→治りつつあり。
・冷蔵庫が壊れた→新品に。
・わたしのPCがまた調子悪い→メモリ清掃で様子見中→起動時はいつもmemtest86+を一周させてから。
・細君のスマホが壊れて画面が出なくなった→新品に。
・逆車線を暴走していたシニアカーに轢かれかけ、しかも暴言を吐かれた→泣き寝入り。

 覚えているだけで、ざっとこれだけ。他にももっと細かいトラブルは頻発していて(誤配とか、仕事のオンライン入稿がちょうどネットメンテにひっかかってできなかったとか、IoT機器の調子が悪いとか)、なんだか「人生、うまくいかないことばかりだなぁ」と嘆くには十分な日々なのである。

 それぞれ、大きな厄ではないのでライフイベントと言えるまでの惨事にはなっていないが、こういったことを姉にLINEでボヤいたら、「厄落としが必要じゃない?」と言われてしまった。

 そこで、「ふぅむ。キリスト教徒の厄落としってなんだろう」と考えてしまったのである。

 映画や荒唐無稽なマンガではおなじみだが「エクソシスト(祓魔師)」という資格を持ったカトリックの司祭は確かに存在する。けれど、この日本にはいないのではないかな。
 それに、わたしとその家族が最近見舞われているような厄≠ヘ、アンラッキー≠ネことではあっても、決して悪魔に取り憑かれているような状態ではない。

 カトリックには、伝統的に「モノの祝福」というものが存在する。例えば、家をつくったら上棟の祝福をしたり、クルマを買ったらボンネットを開けて祝福をしてもらう。わたしも新車と一眼レフに祝福をしていただいた。
 実は、各種祝福の文言および、モノの名前を変数的に入れ替えて使える文章が記してあるハンドブックがあって、司祭はそれを読みつつ、聖水をパパッと掛け回すのである。


(これはサンパウロが出している、カルメル修道会編「カトリック祈祷書・祈りの友」。この一冊が一番使われているのではなかろうか)。

 こういう大物の祝福は実際にはそう多くなく、普通、モノの祝福というと、ロザリオやメダイ、御絵や、そうそう、イースターエッグの卵などもある。みなさん、イースターにただゆで卵をつくっても、それは「イースターエッグ」ではないのですよ。司祭に祝福されて、初めて「イースターエッグ」となるのである。
 細かいことを言うと(以前にも書いたが)祝福されたモノは、以後、「聖品」となり、金で売買はできない。といっても、家やクルマは仕方ないけどね。
 まあ、小物――ロザリオやメダイは、一度、祝福されたら売買はできない。よくネット販売のロザリオやメダイに「買ったら司祭に祝福を受けてください」と書いてあるのはそういうこと。祝福を受けたロザリオやメダイは、お金で売ることはできないのである。
 なので「司祭の祝福済みです」と書いてあるショップはイカサマ。それはただのアクセサリ。聖品ではない。

 話がずいぶん飛んだが、カトリックに、そういう「祝福」の習慣はあっても「厄落とし」の文化はない。

 聖書で「厄落とし」で連想するのは、そうだな――サムエル記上で、にっちもさっちもいかなかくなったサウル王が、モーセの禁を破って口寄せの女のところを訪れるくだりなどが思い出される(サムエル上 28:8)。
 それでなにかうまくいったかというと、霊界≠ゥら呼び出されたサムエルがサウルに「お前、明日死ぬから」と宣言するという顛末。
 どうにもあまりキリスト者には、占いとか、厄落としとかは似合わないらしい。

 むしろこれは、旧約「コヘレトの言葉」の有名なくだり「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある(コヘレトの言葉 3:1)」なのだろうな。

 そうそう、モノが連続して壊れる、という経験は、そこそこ生きている誰しもが体験していることではないだろうか。この話は、また別の記事で書くことにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年05月22日

【甘味】業務スーパー「抹茶チーズケーキ」

 わたしは業務スーパーのチーズケーキが大好き。牛乳パックの方ではなく、豆腐パックの方、「リッチチーズケーキ」である。



 もう一日三食、このチーズケーキでもいい、と思うくらい好き。亡き川島なお美さんが、「わたしの血液はワインでできているの」と言ったそうだが、わたしも「わたしの血液はこのチーズケーキでできているの」と言いたいくらい。いやそんな不健康な。血液、脂肪でドロドロやん。

 で、細君と業務スーパーをぶらついていると、この豆腐パックチーズケーキに新作が。



「リッチ抹茶ケーキ」!

 このところ、セブンイレブンその他でも、ちょっと抹茶ブームのようで、抹茶フレーバーのスイーツが増えている印象はあったが、いよいよ本丸にも来たか、抹茶の波が。これは食べてみなければなるまい。

 さっそく買って帰って、細君と試食。



 見かけは緑色のチーズケーキである。



 断面はこう。



 合わせの飲み物は、ケーキということで、いちおうコーヒーでいきますか。

 さて、一口。二口。んん? この味、他の店の抹茶スイーツとは違う。明らかに抹茶が強い。やるな業務スーパー。チーズケーキ味の方が希薄なのだ。

 そして口にしているうちに、チーズケーキというより、抹茶ようかんを食しているような気分になってくる。うーん、なんか複雑な気分。ま、これはこれで、もちろん美味しいのだけれど、ね。合わせは日本茶か抹茶ラテでも良かったかな。

 美味しかったけれど、やっぱりわたしは、プレーンなチーズケーキが好きだ。焼いてないやつ、ね。
 だって、わたしの血液は、チーズケーキでできているの(ドロッドロ……)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 甘味