2018年05月02日

【回想録】貧乏ゆすり

 10代から20代はじめにかけて、わたしは貧乏ゆすりをする青年であった。将来の細君とつきあいだした頃から、徐々になくなっていき、今は貧乏ゆすりをしたくてもできなくなってしまった。

 たいていは椅子に座ったとき、足を組んで、上に組んだ右の足首をリズミカルに上下させる。周期は0.8秒くらい。一秒よりは短く、0.5秒よりは長いからそのくらいだろうと思う。

 頭の中でいろいろ考え、アイデアが広がっていったり、あるいはまとまってきたりと、いい感じになっているときに、この貧乏ゆすりは自然と出てくる。無意識にやっているので、気づかなければ止められない。
 打ち合わせその他などで、喫茶店や出版社で編集者と会っているときは、この貧乏ゆすりは出していなかったと思う。注意が自分(の頭の中)ではなく外側に向かっているときは出ないのである。たぶん。

 しかし当時は、貧乏ゆすりは、あまりいいこととは見られていなかったのだった。だからこそ「貧乏」ゆすりという名前がつけられているわけで。
 だいたい、貧乏ゆすりをしていると、周りにはいいようにはとられない。イライラしているのかな? 内心、怒っていることがあるのかな? などと思われ、まさかリラックス&ノリノリ状態でいるとは見てくれないものである。

 21世紀の今になって「貧乏ゆすり」が見直され、エコノミークラス症候群対策や、セロトニン分泌によるストレス解消効果、ダイエット効果もあるなどと言われはじめた。
 ダイエット効果はともかく、リズミカルな運動(ガムを噛む)などはセロトニン分泌を促す効果が確かにあるらしいので、貧乏ゆすりも百害あって一利なしという昔の評価から脱せられたようだ。

 人間、自然についたクセには、なにかやはり意味があるものなのである。

 わたしが貧乏ゆすりをするクセをやめたのは、もちろん、意識して、であった。将来の細君に指摘されたから、だったからだと思う。上記の通り、あまりいい性癖には思われていないものだったから、直せるものならばそれに越したことはない、と。
 ゆすり始めると「ああいかん」とやめる。これを数ヶ月もやっていたら、普通の、貧乏ゆすりをしない人になってしまった。

 貧乏ゆすりの復権に乗って、せっかくだから一人でいるとき、この貧乏ゆすりを復活させようと試みているのだが、これができないのである。
 どうしても「意識しないと」リズムが止まってしまう。これでは他の作業中に無意識に貧乏揺すりをするなどはとうてい無理だ。

 今、貧乏ゆすりをできている人は、それはなかなか得がたい「良い才能」かもしれないから、人前でやるのはともかく、一人でいるときに無理に止めることはないかもしれない。
 一度、矯正してしまうと、わたしのように、二度とできなくなってしまうかもしれないから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録