2018年05月23日

【日記】厄落とし

 このところ、いろいろな厄≠ノ見舞われていてゲンナリしている。

・併用不可のクスリを三カ月も服用していたのを見逃され、その後遺症か、今も体がだるいのがとれない→耐えてがんばる。
・洗濯機が壊れた→新品に。
・家族が緊急入院→退院。
・家族が靱帯損傷で車いす→松葉づえ→つえ生活に。
・わたしが転んで、体の各所に打撲と傷→治りつつあり。
・冷蔵庫が壊れた→新品に。
・わたしのPCがまた調子悪い→メモリ清掃で様子見中→起動時はいつもmemtest86+を一周させてから。
・細君のスマホが壊れて画面が出なくなった→新品に。
・逆車線を暴走していたシニアカーに轢かれかけ、しかも暴言を吐かれた→泣き寝入り。

 覚えているだけで、ざっとこれだけ。他にももっと細かいトラブルは頻発していて(誤配とか、仕事のオンライン入稿がちょうどネットメンテにひっかかってできなかったとか、IoT機器の調子が悪いとか)、なんだか「人生、うまくいかないことばかりだなぁ」と嘆くには十分な日々なのである。

 それぞれ、大きな厄ではないのでライフイベントと言えるまでの惨事にはなっていないが、こういったことを姉にLINEでボヤいたら、「厄落としが必要じゃない?」と言われてしまった。

 そこで、「ふぅむ。キリスト教徒の厄落としってなんだろう」と考えてしまったのである。

 映画や荒唐無稽なマンガではおなじみだが「エクソシスト(祓魔師)」という資格を持ったカトリックの司祭は確かに存在する。けれど、この日本にはいないのではないかな。
 それに、わたしとその家族が最近見舞われているような厄≠ヘ、アンラッキー≠ネことではあっても、決して悪魔に取り憑かれているような状態ではない。

 カトリックには、伝統的に「モノの祝福」というものが存在する。例えば、家をつくったら上棟の祝福をしたり、クルマを買ったらボンネットを開けて祝福をしてもらう。わたしも新車と一眼レフに祝福をしていただいた。
 実は、各種祝福の文言および、モノの名前を変数的に入れ替えて使える文章が記してあるハンドブックがあって、司祭はそれを読みつつ、聖水をパパッと掛け回すのである。


(これはサンパウロが出している、カルメル修道会編「カトリック祈祷書・祈りの友」。この一冊が一番使われているのではなかろうか)。

 こういう大物の祝福は実際にはそう多くなく、普通、モノの祝福というと、ロザリオやメダイ、御絵や、そうそう、イースターエッグの卵などもある。みなさん、イースターにただゆで卵をつくっても、それは「イースターエッグ」ではないのですよ。司祭に祝福されて、初めて「イースターエッグ」となるのである。
 細かいことを言うと(以前にも書いたが)祝福されたモノは、以後、「聖品」となり、金で売買はできない。といっても、家やクルマは仕方ないけどね。
 まあ、小物――ロザリオやメダイは、一度、祝福されたら売買はできない。よくネット販売のロザリオやメダイに「買ったら司祭に祝福を受けてください」と書いてあるのはそういうこと。祝福を受けたロザリオやメダイは、お金で売ることはできないのである。
 なので「司祭の祝福済みです」と書いてあるショップはイカサマ。それはただのアクセサリ。聖品ではない。

 話がずいぶん飛んだが、カトリックに、そういう「祝福」の習慣はあっても「厄落とし」の文化はない。

 聖書で「厄落とし」で連想するのは、そうだな――サムエル記上で、にっちもさっちもいかなかくなったサウル王が、モーセの禁を破って口寄せの女のところを訪れるくだりなどが思い出される(サムエル上 28:8)。
 それでなにかうまくいったかというと、霊界≠ゥら呼び出されたサムエルがサウルに「お前、明日死ぬから」と宣言するという顛末。
 どうにもあまりキリスト者には、占いとか、厄落としとかは似合わないらしい。

 むしろこれは、旧約「コヘレトの言葉」の有名なくだり「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある(コヘレトの言葉 3:1)」なのだろうな。

 そうそう、モノが連続して壊れる、という経験は、そこそこ生きている誰しもが体験していることではないだろうか。この話は、また別の記事で書くことにしよう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記