2018年12月29日

【日記】気がつけば今年最後の

 %title%更新である。
 そんな感じで、今年一年を振り返ってつらつらと。

 6月13日まで毎日更新を二年続け、そこから先は水、土の週二回更新に頻度を減らし、これでだいぶ楽になるかと思いきや、前よりも記事が自転車操業になっているということはすでに書いた。

 思うに、本当のリア充というのは、マジにネットでSNSなどしない。そんな暇がないのである。フェイスブックやインスタグラムでリア充自慢をしている人というのは、それにかまけている時間があるというだけで、実はあんまりリアルが充実していないのだ。

 などと書く、ということは、わたしは今、けっこうリアルが充実しているのである。「これはブログネタになる」というようなことがあっても、ポメラに向かうわずかな時間が捻出できない。

 ひとつには、この秋から毎日早朝、フィットネスジム通いを続けているということがある。おかげさまでBMIも20まで落ちて、多少出ていた腹も平らになった。
 トレッドミルの上でウォーキングをしながら、ポメラで文字を打つことはさすがにできないので、タブレットで本を読んでいる。集中して読めるので、これがわりとストレス解消になる。

 この冬に出た「聖書・聖書協会共同訳」はもちろん買っている。これもウォーキングをしながら読み、つらつらと感想を書いていこうと思っていたのだが、その矢先にジムが機器の入れ替えをして、トレッドミルが、タブレットは辛うじて置けるが、厚い本は置けない仕様になってしまった。おかげで今は、まだ本棚の肥やしとなっている。
 はやく新共同訳の「バイブルキューブ」のような、小型版の発売を望むところだ。
 30年前、新共同訳が発売されたときは、「プロテスタントとカトリック共同の聖書ができた」と、一般のニュースでも話題になったものだが、今回の発売は「ひっそりと」という感じである。カトリック界隈でも全然話題になっていない。
 この先のミサで聖書協会共同訳が使われるのかどうか、カトリック中央協議会の動きに非常に興味があるところだ。

 確かゴールデンウィークのオフで、畏友R氏の部屋で久々に「ルービック・キューブ」に出会い、ハマったことは、このブログを通してお読みの方はご存じだと思う。
 あれからルービック・キューブはどうしてるの? という問いには、なんともお恥ずかしいことだが、えー、別に飽きたわけではないのだが、いろいろと忙しく、鍛える時間がとれない日々がすぎていき、先日、久しぶりに手に取ってみたら、六面完成ができなくなっていた……。
 途中までは手が覚えているのだが、そこから先がいきなりできなくなる。こういうのも、毎日やらなければどんどん忘れていくものなのだなぁ、と痛感した。
 とはいえ、タイマーなども買いそろえてしまったので、このまま忘れたままにしておくつもりはない。来年、また再スタートでチャレンジしていきたい。

 一昨年あたりから何度か触れていた左肩の五十肩だが、やっと慢性期も終わったようだ。気がつけば、痛みがなくなっていた。特に特別ななにかをしたわけでもなく、自然に治ったという感じだ。一時は寝るのも大変だったことを思うと、ふしぎな感じである。
 五十肩は何度もなる、という。まあそのときはそのときだ。「必ず治る」という希望があるのは良いことである。

 そうそう、実は年も押し詰まった12月の後半、クルマ対クルマの事故に遭ってしまった。詳細はネタになるので来年に回そうと思うが、幸い、双方ともけがはなく、物損事故で済んだ。
 ただ、修理は来年になってしまうので、残念なことに、愛車の扉がへこんだまま、年を越えることが決定している。まあ仕方がない。
 この件で学んだことは多いが、取りあえず、結城も細君も、精神的な面でも元気なので安心していただきたく。

 ああそうだ。「深夜のお茶会いまさら」の方、小説の新作が載せられなくてもうしわけない。これは現在、マジで取材・研究中なのである。なんの取材・研究かというと「腐女子の生態について」である。
 もしそちら方面のポインタをお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひともいろいろご教示いただきたく。

 今年は家人の突発的な入院やけが、電化製品の連続的な故障、夏にはクルマを電柱にかすらせ、最後に物損事故と、いろいろ災厄の年であった。
 とはいえ振り返ってみると、いいこともたくさんあったように思う。悪い年ではなかった。

 そう、俺、今、リア充だしw

 というわけで、今年最後の「いまさら日記」、このあたりで筆を置くことにする。

 今年一年、お読みいただきありがとうございました。
 来年もまた、このペースでやっていこうと思っていますので、よろしくお願いいたします。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年12月26日

【映画評】ニセコイ

 最近は「クリぼっち」という単語の確立化とともに、クリスマスのカップルを迫害する運動が広がりつつあるようだが、青年時代をバブルで過ごした老害としては言いたい。

「やっぱクリスマスは恋人と過ごすモンっすよ」

 そしてキリストもんとしては、夜は教会へ行ってミサに与る、と。

 というわけで、今年の12月24日のクリスマスイブの昼間(キリストもんの正確さとしては、24日の日没まではクリスマスイブではなく、待降節第四週の最終日≠ネわけだが、まー、一般人に合わせる)、わたしは最愛の細君とともに、映画デートと洒落こんだのであった。

わたし「くるみ割り人形≠ヘもう見ちゃったしねぇ。今ならボヘミアン・ラプソディ≠ェ評判だけど、直子さん、クィーンとか聞かないでしょ?」
細君「アリー・スター誕生≠ヘどう?」
わたし「俺がレディー・ガガに興味ないからなー」

 と、ファミレスのモーニングでいろいろ検討した結果。半ば誘導的に「ニセコイ」実写版を二人で見るという結論に。

 そうだよ、実は俺が観たかったんだよぉお、「ニセコイ」実写版を。

 前評判ではコスプレ大会、学芸会、爆死決定という声が多数の実写版「ニセコイ」。出ている俳優さんが誰かも実はよく知らない。けれど、古見直志先生の「ニセコイ」原作を全巻通し読みしたばっかりだったので、記憶が新しいうちに、あの長いラブコメをどうまとめるか、興味があったのであった。

 ちなみに、わたしも千葉県のYさん(結城)であるが、あの千葉県のYさん≠ナはないw
 その千葉県のYさん≠焉A原作者の古見直志先生も、巷間聞くところお勧めの出来という。これはひょっとして拾いものかもよ、という思惑もあった。

 あらすじ、というか設定――凡矢理高校に通う高校生、一条楽は、実はヤクザ集英組≠フ一人息子。組員たちからは二代目≠ニ期待されているが、本人はヤクザを継ぐ気はない。そんな彼が住む街に最近幅を効かせてきたのがニューヨークのギャング組織ビーハイブ=Bこのままでは両者がぶつかりあい、一触即発の事態になってしまう。そこで集英組の組長とビーハイブのボスは、互いの息子と娘を恋人同士≠ニいうことにして、子分たちの抗争を納めようともくろんだのであった。すなわち、ニセの恋人同士「ニセコイ」の誕生である。


 ところで、わたしは基本的に「メインヒロイン推し」である。「メインヒロイン」であるというだけで、推しパワーが三割あがる。もちろんアイマスでは「ののワ」さん推しである。うー、わっほい!
 そして本作「ニセコイ」のヒロイン千棘=\―ちとげ。すごい名前だよね――ちゃんが可愛いんだこれがまた。設定は金髪碧眼だが、日本語もペラペラという設定。
 ビジュアルも可愛いのよこれがまた。


(古味直志「ニセコイ」22巻より引用)

 あ、違った。


(古味直志「ニセコイ」22巻より引用)

 違うってぇ!


(古味直志「ニセコイ」12巻より引用)


(古味直志「ニセコイ」25巻より引用)

 ああ、カワユス! これが本作のヒロイン、千棘ちゃんなのですよ。
 そして映画では彼女を、中条あやみさんが演じている。コスプレ大会の名に恥じず、金髪、碧眼で。金髪はヅラなのかなぁ。地毛を染めて金髪にしているのだろうか。碧眼はカラーコンタクト? CG処理? そのあたりはよくわからないが――正直、原作の千棘ちゃんの可愛らしさに及ばないというのが感想。

 これは中条あやみさんの責任ではあるまい。彼女は本当にハーフなのだそうだが、それでも、やはりどこか無理があるのである。
 もちろん、ほかの役者さんたちもみんな無理がありまくり。大コスプレ大会である。主人公、楽のヘアピンが痛いw 千葉県のYさんは満足なされたそうだが、マリーのヘアスタイルも変だ。
 一番まともなのが、小野寺小咲を演じる池間夏海さんだが、それでもやっぱり、ヘアスタイル、ちょっと変!
 マンガの実写を「絵面通りに再現」すると、こんなに無理がでるのだなぁ、と嘆息せずにはいられない。

 もっとも、こうして評を書いているからには、積極的に良かった、と感じた点も多々あるのである。
 まず主役の楽を演じた中島健人さん。確かに演技はちょっと棒だが、これが、劇中劇の「ロミオとジュリエット」の舞台に乗ると、いきなり颯爽と輝き出す。さすがジャニーズの方だなぁ、と感嘆である。
 それとストーリーも、ジャンプ連載最長のラブコメである「ニセコイ」のいいところを取捨選択して、いらないエピソードや人間関係は思い切りよくバッサリと切り、初見の観劇者を二時間を飽きさせない、密度のある物語になっている。

 細君は「ニセコイ」原作を読んでいなかったので、どんな感想になるか興味を持っていたのだが、「きれいにまとまっていたんじゃないの?」ということであった。

 原作「ニセコイ」も、ハーレム展開から風呂敷を畳む段になって、それぞれのヒロイン推し勢から作品評価が落ちていったようだが、最後に楽のハートを射止めた千棘ちゃんはメインヒロインというだけで、ゴリ^h^h5割増しの魅力があるからしかたないのである。

 いやほんと、原作のストーリーも、あれだけ長いラブコメ、ハーレム展開にも関わらず、最後は見事にまとまっていると感じる。やっぱりメインヒロインは8割増しだからね、仕方ないね。

 と、いろいろ書いてきたところで、万人にお勧めかというと、んー、まあ、なんだ。あなたとあなたのメインヒロインの仲がもう盤石なら、このクリスマスシーズン(キリストもんとしては、一月のエピファニー(主の公現)≠ワでは降誕節なのである)にネタとして観るのはアリかもしれない。
 見終わったあと、原作ファンなら突っ込み合戦、そうでないならコスプレ大会の感想戦と、けっこう話は弾むと思う。すくなくとも、わたしら夫婦はそうだった。

 そしてあなたも、目の前の彼女をもっと大切にしたいと思うかもしれない。
 だってあなたのメインヒロインは、メインヒロインというだけで10割増しなんだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2018年12月22日

【日記】超絶簡単なキリスト教入門

 クリスマス直前ということで、たまにはこんな記事を。

 クリスチャンというと、あの厚い聖書を何度も読み、聖句を覚え、日曜日ごとにミサや礼拝で神父さまや牧師先生の説教を聞き、毎週、勉強会もあったりして、なんとも小難しい宗教だ、というイメージをお持ちの方がいらっしゃるかもしれない。

 クリスチャンの書いているものを読めば、必ず「罪」、「救い」といった言葉が出てきて、「クリスチャンは殺人という罪≠犯しても懺悔をすればチャラ。それが救い≠ネんだろう?」といったような誤解をしている方もおられるようだ。

 実際、「神学」などという文化系学問のジャンルもあり、その奥は深く、底が知れない。

 しかし、本当の宗教というものは、もっと簡単なものでなければいけないのではないだろうか。
 実際、ユダヤ教の変革者であったイエスが宣教対象としたのは、律法学者――当時のユダヤ教は法律でもあった――たちなどではなく、ただの漁師や、イスラエル人たちに嫌われていたローマ帝国の犬であった徴税人。律法学者から忌まわしく扱われていた疾病持ち、身体・精神障害者。そして多くの、貧しく学のない普通の人々相手だったのである。

 さて、ユダヤ教における罪≠フ概念は簡単であった。それはモーセの教え(トーラー)を守れない者である。前述したとおり、当時のユダヤ教はイスラエル人にとって法律でもあったからだ。
 対して、イエスの提唱したキリスト教における罪≠フ概念はちょっと違う。それは法律からは分離しているのである。

 キリスト教における罪≠フ概念は「神と離れてしまうこと」なのだ。

 この世の中では、独り立ち≠キることが良いこと≠ニされている。親から独り立ちし、一人暮らしをして、自分一人の働きで食べ、生きていくことが良いことだと。
 キリスト教は、それを頭から否定し罪≠セと断罪するのである。神さまの目から見たら、人間なんて、誰しもニート。神から離れて生きてはいけない。それを忘れて「自分一人でなんでもできる」と思うことこそが罪≠セというのである。

 何億も稼いでたくさんの税金を払う人も、家に引きこもるネトゲ廃人も、神さまの目から見たら誤差範囲にもならない。同じ愛する子なのである。

 クリスチャンのスポーツ選手が、記録を出したとき、マイクを差し出したインタビュアーへ、最初に「神に感謝します」と言う意味が、これでおわかりになられるだろう。記録を出せたのは、自分の手柄ではない、神の加護があったからこそできたこと、それを自覚しているのである。

 では「救い」とはなにか。それはイエスが身をもって体現したことである。つまり、十字架につけられ磔刑死した者でも、復活することができる、ということなのだ。
 もっと単純に言えば、死は終わりではなく、復活の始まりである、ということ。死の先は無ではなく、なにかまだ先がある、という希望。それが「救い」なのである。
 その「救い」を衆目に納得させるために、完全な人間でもある神の子イエスは――逃げる機会は何度もあったのに――十字架上に釘付けされることを自ら受け入れ、「確実に死んで見せた」のである。

「復活」は「生き返り」とは違う。
 イエスが死人を蘇らせたという逸話も聖書に記されている。「ラザロの生き返り」がそれだ。しかし、生き返ったラザロはいつかはまた死ぬ。そこが「復活」との違いなのである。
 イエスを信じる者は救われる、というのは、要するに「イエス(の復活)を信じる者は(死んでも)救われる」ということなのだ。

 これが非常にシンプル、超絶簡単な「罪」と「救い」の解説である。このふたつを理解できれば、他のもろもろの教義は「教派の違い」と言ってしまってもいいぐらいだ(と、わたしは思っている)。

 ただし、こんなキリスト教ジョークがある(出どころ不明なのでうろ覚え。どなたかポインタをご存じでしたらお教えください)。

 信徒「神父さま。復活の日には、すでに天の国へ行った人たちと再会できるのですね」
 神父「左様。キリストを信じることです」
 信徒「良かった。大好きだった人たちとまた会えると思うと、死ぬのも怖くありませんね」
 神父「うむ。しかし心しておきなさい。あなたが嫌いだった人もまたその日には復活して、再会することになるのですよ」


 というわけで、皆さまに「メリー・クリスマス!」
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年12月19日

【日記】Amazonを騙る詐欺メール

 楽天やらAppleやら、「あなたの心の安らぎの問題」やら「あなたのパスワードが侵害されました」の詐欺メールを送ってくる詐欺メール犯罪者グループが、今度はAmazonを騙る詐欺メールを送りつけてきた。

 htmlメールだとこんな感じ。


(クリックで拡大できます)

 検索で引っかかるように、文字でも貼っておこう。

Amazon.co.jp タイムセール | アカウントサービス | Amazon.co.jp
アカウント検証
検証番号: xxx-xxxxxxx-xxxxxxx

ご注意ください!
大変申し訳ございません、あなたのアカウントは閉鎖されます。あなたのアカウントAmazonを更新できませんでした、これは、力ードが期限切れになったか、請求先住所が変更されたなど、さまざまな理由で発生する可能性があります。

Amazonをご利用いただきありがとうございますが、アカウント管理チームは最近Amazonのアカウントの異常な操作を検出しました。アカウントを安全に保ち、盗難などのリスクを防ぐため、アカウント管理チームによってアカウントが停止されています。
24時間以内にあなたの情報を更新しない場合、アマゾンアカウントで何ができるか的を絞ってください。

アカウント検証

なぜこのメールを受け取ったのだろうか?
この電子メールは、定期的なセキュリティチェック中に自動的に送信されました。当社はお客様のアカウント情報に完全に満足しておらず、引き続きサービスを継続的にこ利用いただくためにアカウントを更新する必要があります。
Amazonカスタマーサービス

またのご利用をお待ちしております。
Amazon.co.jp


「アカウント検証」はもちろんだが、このhtmlメールのどのリンクを踏んでも、詐欺グループが作ったニセのAmazon認証ページへ飛ぶようになっている。
 では、試しにクリックしてみようか。



 これはいきなり危険だ。AmazonのログインIDとパスワードが、この時点で盗まれてしまう。
 当然、あり得ない文字列を入れて「次へ進む」んでみると――



 ほうほう、「アカウントのロックを解除するには、以下のフォームに記入して」という一文がフレンドリーであるw



 氏名と住所などをここで盗まれて――



 本丸きましたー。ここでクレカ名義人とカード番号、セキュリティコードと有効期限が盗まれます。
 ただ作りがあまいので、チェックデジットを通らないカード番号でもサクッと先にいけちゃうんだなぁ。この詐欺グループのクレカトラップ、チェックデジットが通らないとダメなときもあり、統一されていない感じ。
 さて、クレカの情報を盗まれると――



「修復が完了しました」と出て、「閉じる」と、正規のAmazonのページへ飛ぶようになっている。

 AmazonはログインIDとパスワードを盗まれるだけで、買い物が可能(な設定にしている人もいる)から、ちょっとこれは怖い詐欺メールである。
 皆様、重々お気をつけを――。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2018年12月15日

【日記】クーベルタンはeスポーツの夢を見るか

 なんだ前回に続いてこのタイトル。だって便利なんだもん。このフレーズw

 最初にお断りしておくが、わたしはオリンピックに微塵の興味もない。キリストもんの国籍は天にある(フィリピ 3:20)ので、日本がいくつメダルを取ろうが、開催国になろうが、そんなことはどうでもいいことなのである。

 オリンピックイヤーや、東京オリンピック2020の話題になると「誰しもがオリンピックに興味を持っていて当然」という前提で話が進むからいやになる。
 いいですか? 相手がその話題に興味がないのに、ベラベラベラベラ自分が熱中していることを唾をとばしてしゃべり続けるのは「あしきオタク」の悪い例ですよ。
 それがこと「オリンピック」となると許されてしまうのはなぜなのだろう。国民皆が「オリンピックオタク」なのだろうか。ああいやだ。

 それでなくても、耳に入ってくる最近のスポーツ関係の話題は、どうも首をかしげたくなるものばかりだ。

 ひとつは、もう過去の話題だが、義足の選手が健常者に勝利した、というもの。確か走り幅跳びで、ドイツの話だったと思う。
 まさか「600万ドルの男」や「バイオニック・ジェミー」の世界が、こんなに早く実現してしまうとは、という感じだ。メカニズムは全然違うが。
 これは素直な感想として、差別とかそういうのはっまったくなく、義足の選手はパラリンピックのような枠で出るべきではないかなぁ、と思う。

 もうひとつは最近の話。確か女子バスケットの選手に、MtFTG(元男)の選手が入り、オレスゲーの無双をしてチームに勝利をもたらした、というもの。
 そんなんアリか? というのが正直な印象。たとえ「心が女」でも、「体は男」の名残を残しているのだから、女性選手として採用するのはどうか、これが通用するなら、スポーツの女性枠など意味がなくなってしまうのではないか?

 そして%title%のeスポーツである。ぶっちゃけ言ってしまえば、テレビゲームがスポーツか否か、という議論。こんな世紀がこようとは、MZ-80BのBASICでインベーダーゲームを作っていた高校生の頃の自分が聞いたら、驚きでひっくり返り、後頭部を床に打ちそうだ。

 eスポーツがスポーツか否か、という議論を最初に聞いたとき思い出したのは、中学生の頃「海外でチェスはスポーツとして認められている。なぜなら頭脳のスポーツだから」という論理展開の違和感であった。やはり正直、チェスが「スポーツである」というのは無理筋だよなぁ、と子ども心にも思ったものである。

 当時からわたしは頭が古かったのだろうか。
 やはり「スポーツ」というと、フィジカルに「身体を使って」やるもの、という気持ちが強いのである。それも、シンプルならシンプルほどよい。駆けっこ≠ニかね。

 eスポーツは確かに身体的能力を使う面も多々あるだろうが、それ以上に環境をコンピュータに頼っている部分が多すぎて公平性に欠けると、わたしのコモン・センスが呻いている。

 上記の書き方でわかるように、わたしはeスポーツを認めていないわけではない。見事なプレイには素直に拍手を送る。むしろ、オリンピックより身近に、かつ、観るのも楽しく思っている。
 ただ、eスポーツは、オリンピックのように、基本フィジカル重視の体育会系な、言ってしまえば「粗野な」ものとは一線を画していると思うのだ。

 義足の選手が健常の選手を凌駕し、元男の選手が女子リーグで無双する時代である。
 そんな時代のオリンピックにeスポーツが参加する必要は、むしろない。
 新しい時代の「新しい技能競技」として、オリンピックに尻尾を振ることなく、独自のリーグをフィールドとして展開していくべきではないかなぁ、と思う。

 少なくとも、クーベルタンはeスポーツの夢を見なかっただろう。

 おりしも、脳筋の「スポーツ議員連盟」が、2020年以降は「体育の日」を「スポーツの日」として改称する、と決めたらしい。
「体育」は、わたしのような運動音痴でもできるような気がするが「スポーツ」となると急に縁遠くなる気がする。
 そんな機微は脳筋連中には理解できないことらしいが、せめてeスポーツは新しい競技として、今の「スポーツ」の枠に入らないでほしい、と思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記