2019年03月13日

【日記】JavaScriptだろうがダメなものはダメ

 JavaScriptを使った簡単な無限ループダイアログを出すURLを掲示板に貼ったとして、13歳の女子中学生宅を兵庫県警が家宅捜査。今後、児童相談所に通告するという。罪名は「不正指令電磁的記録供用未遂」。(他に男性二名も家宅捜査され、そちらは書類送検とのこと)

 この件について、多くのネットユーザーは「子どもがやったことなのに」、「こんなことくらいで家宅捜査!?」、「うわっ、警察のITレベル低すぎ」という感想を持っているようだ。
 しかしわたしの考えは違う。%title%のとおり、たかがJavaScriptの簡単なイタズラでも、ダメなものはダメ。今回の家宅捜査には快哉を叫びたい。兵庫県警はよくやったと思っている。

 まず根本的なこととして、パソコン通信の頃から持っているわたしの持論がある。「ネットを使うユーザーは、すべて成人とみなすべし」だ。
 ネットを使う以上、そこに現実世界のアトリビュートが反映されるべきではない。年齢、性別、職業、学歴、そういったものが排除されるのがネットの良いところであるはず。
 ツイッターなどのSNSが隆盛を誇るようになって、やっと皆が理解したことだが、世間で名の知れたいわゆる識者≠ニ呼ばれる者が、実はけっこう莫迦だったり、有名人≠ェ必ずしも人間ができていない、むしろエキセントリックだったりするという事実がある。
 現代は有名人℃ゥらがSNSで馬脚をあらわす時代になってしまったが、ネットがインフラになる前の時代は、マスコミに祭り上げられるだけでそこそこの人格者≠ニみなされる傾向が確かにあった。だからこそ、フォーカスやフライデーのようなゴシップ誌が意外性を持って受け入れられたのである。

 パソコン通信の頃は、やけに暴力的で幼稚な書き込みをしていたユーザーと、それを理知的な書き込みでやりこめたユーザーが、実際にオフ会で顔を合わせてみると、前者が大学教授で後者が高校生だった、などということもあった。
 そういう世界において、ユーザーを現実の年齢で判断することは、むしろ失礼なのである。「ネットユーザー全員成人論」の根拠はこの善意にある。ネットは「知のポトラッチ(贈与戦)」となるとき、その威力を何十倍、何百倍にも増すのである。

 だから逆に、犯罪行為をして、それが子どもだから許される、ということもない。13歳の女子中学生なら許されて、中年男なら罪になる、というのは、多くの理知的で自制心のある同じ13歳の女子中学生を莫迦にしているのである。

 このJavaScriptがイタズラレベルの簡単なものであることも焦点になっているようだが、これもイタズラレベルだから許される、そうでないなら許されない、というのは根本的におかしい。
 なぜなら、手だれのプログラマにとって、本物のコンピュータウイルスやワームをつくることくらい、簡単なことだからだ(「【日記】ウイルスではなく」参照)。
 いや、手だれのプログラマでなくとも、スクリプトキディですら適当なソースを拾ってきて新種のウイルスをつくることができる時代である。
 あなたが「こんなJavaScriptのイタズラくらいで」というのならば、それはあなた自身がその程度のITレベルであるということの裏返しなのだ。

 サバイバルナイフを街中で振り回せば、当然、凶悪事件になるが、これがボンナイフであったとしても、やはり犯罪に変わりはないのである。
 この中学生に味方して、ダイアログがループするJavaScriptのURLを貼って同じ穴のムジナになろう、という活動があるようだが、「立ち小便も皆ですれば軽犯罪ではない」と大のオトナが壁に並んで小便しているような醜悪さを感じずにはいられない。

 最後に「警察のITレベル低すぎ」だが、これはなんとも評価しがたい。確かにWebを回っていれば、こんなJavaScriptのイタズラレベルではない「不正指令電磁的記録供用」の事例はあふれているし、詐欺メール、ウイルスメールもほとんど放置状態である。わたしもこのブログでそういった事例を「人をだまして食う飯はうまいか?」タグで紹介している。
 実際、警察のITレベルが低いことは「PC遠隔操作事件」で誤認逮捕をするなどで、衆目のこととなってしまった。
 しかし、手の届く範囲から微罪でも摘発していくというのは、悪い方針ではない。「ブロークン・ウィンドウ理論」である。
 繰り返して書くが、この中学生に味方して同じようなことをしている連中は、義賊でもなんでもない。建物の割れた窓にゴミを捨てていくようなガキと同じ思考形態である。ネットのモラル全体を下げる行為であることがわかっていないのである。

 たとえJavaScriptのイタズラでも摘発されることがある、というのは、いい前例になったはずだ。

 返す刀で余計なことを書いてしまうが、わたしはJavaScriptが出始めた頃から、こいつが大っ嫌いだったのだ。こういう古いネットユーザーは少なくないのではないかな。出始めの頃から、くだらない右プレス禁止や、それこそ今回のようなイタズラに使われるばかりで、それがウザくブラウザのJavaScriptを切っていたユーザーは珍しくなかった。

 今回、見せしめのようになってしまった中学生はかわいそうに感じないでもないが、この事件を機に「できることとやっていいことは違う」ということを、ネットユーザーの多くが肝に銘じてほしいと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年03月09日

【昭和の遺伝子】カップめんの思い出

 わたしがチキンラーメンを好きなことは「【昭和の遺伝子】インスタントラーメンの思い出」に書いた。それだけに、NHKの朝ドラ「まんぷく」を、毎日楽しみに見ている。
 話はチキンラーメンならぬ「まんぷくラーメン」が売れ、いよいよ「カップめん」の開発に取りかかったところ。そういえば、「カップめん」を初めて食べたときの思い出も鮮明に記憶に残っているなぁ、と思い、筆を執った次第。なお、内容は一部上記の日記と重複している。

 日清の「カップヌードル」は、発売当初から爆発的に売れることはなく、最初は販売に苦戦したという。それが日本国中に知れ渡ったのは、あの浅間山荘事件からであった。浅間山荘に立てこもった連合赤軍を包囲していた機動隊の隊員たちが「カップヌードル」を食べている様子がテレビに映り、全国的に「あれはなんだ?」「カップヌードルというのか!」と知られるようになったのだという。連ドラ「まんぷく」でそこに触れるかどうはわからないが。
 わたしも浅間山荘事件はテレビで見ていた。子ども心には、鉄球で家を崩す様子を「はぇー、すっごい(小並感)」と感じるくらい。後に大人になって連合赤軍のルポを読み、当時、通っていた小学校の近くで会議を開いていたことを知り仰天した。
 機動隊の隊員がカップヌードルを食べている様子は、記憶にない。ただ、それ以降、カップヌードルが日本の食卓にのぼるようになったのは確かである。

「カップヌードルが食べたい!」とせがんだわたしに、母はしぶしぶ買ってきてくれたのだが(我が家はけっこう、インスタント食品に厳しい家庭であった)、実際に初めて食べた「カップヌードル」の容器は、カップではなかった。
 禅問答ではない。なんとなれば、当時、カップヌードルはカップの発泡スチロールから体によくない物質が溶け出すという噂があり、そういうのを気にした母が、カップヌードルから中身をドンブリに入れ直してつくってくれたからである。
 今となっては、なんとも杞憂な話だが、当時は粗悪品もあり、母が気にするのも無理はなかった。

 そんな経緯もあり、わたしの脳の記憶域には、初めてカップラーメンを食べた思い出が、鮮烈に残っているのである。それは主食というより、スナック感覚の味で、わたしはすっかり気に入ってしまった。
 それ以降、カップラをドンブリに入れ直してつくった覚えはないので、母もカップラの安全性に納得したか、あるいは面倒くさくなったのかのどちらかであったのだろう。

 日清のカップヌードルが、こうやって爆発的に売れるようになると、ドラマで繰り返される展開だが、似たような商品がいくつもでるように。
 わたしも高学年になったので、自分のお小遣いでそういうものを買えるようになった。

 今でも思い出すのは、「カップライス」である。今はとんとなくなってしまったが、あったのである「カップライス」。お湯を入れて三分でご飯ができる。
 しかしこのカップライス、まずかった。実にまずかった。すぐに市場からなくなってしまった。
 即席ご飯市場は、今はレンチンしてつくる「サトーのごはん」が定番だが、当時はこんな際物もあったのである。

 さらに、現在では平たい器が当然の「カップ焼きそば」も、カップヌードルと同じ形状のカップで売り出されていた。これの湯きりが独特で、箸でフタに穴を開け、そこから湯を出してください、という、今では笑ってしまうような仕様であった。味はけっこう気に入ったのだが、これもすぐに消えてしまったなぁ。

 最初に出会った思い出が「ドンブリに入れたカップラ」という強烈なものだったのでよく覚えているわけだが、以降、昭和から平成最後の今年まで、食べたカップラの数は数えきれない。

 コストコで日清の「カップヌードル」が安かったので箱買いしたら、味がアメリカ向けになっていて違うのに驚いた。
 映画「マトリックス・リローデッド」で、ネオと集団スミスが闘っているシークエンスがあるのだが、そこで黒人女性がポトリとカップラを落とすシーンがある。それがそのコストコカップヌードルである。


(映画「マトリックス・リローデッド」より引用。この左側に落ちているのがそのカップラ)


(拡大するとこう。けっこうスパイシーだった覚えがある)。

 このカップヌードルは、コーンスープの素を入れてつくると、トロミがついてとても美味かった。カロリーもすごかったわけだが。

 今、スーパーのカップラ売場に行くと、日清のカップヌードルは決して安くはない。半額以下で、量も多い他社製品が買えてしまう。ので、吝嗇家のわたしとしては、ここ数年「カップヌードル」から縁遠くなってしまった。

 それでもたまに、チリトマ、カレー、それにプレーンの「カップヌードル」が食べたくなる。
 わたしのソウルフードのひとつは、間違いなく、日清のカップヌードルなのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子

2019年03月06日

【日記】遅刻する人、しない人。

 Twitterで%title%の話題が盛り上がっているので、そのあたりをひとくさり。

 わたしは本当に特別の事情でもなければ、遅刻をしない人。なので遅刻で痛い目をみた経験というのは一回もない。特別の事情があるときは、必ずなんとかその旨を伝える努力をしている。
 振り返ると、高校三年間、毎日いつも朝いちで誰もいない教室に入っていたほど、時間に余裕を持って行動するタイプなのであった。
 ひと気のない校舎を回って、いつもはにぎわっている廊下の休憩スペースでゆっくり文庫本を読むのが好きだった。卒業後、賞をとったとき、「あのいつも廊下の休憩スペースで本を読んでいた先輩か」と言われていたということを後に知る。

 学生時代、教師が言っていたのだが「学校から離れたところに家がある子は遅刻しない。近ければ近いほど遅刻する」ということだった。確かに、そういう傾向はあるような気がしたものだ。わたしは高校にバス→電車→バス通学していたが、近所で自転車通学の生徒はよく遅刻していた。

 仕事の打ち合わせでも、遅刻をしたことがない。知らない場所を指定されたときは、あらかじめそこそこの時間の余裕を持って待ち合わせ場所を下調べしてから、適当な喫茶店に入って時間を潰し、ほぼ約束通りに姿を現すようにしている。
 ネットやスマホのような便利なモノがない時代には、都内の喫茶店をまとめた便利本や、「ぴあ」特別号に載っていた駅前詳細地図が役に立った。
 もともと「おひとりさま行動」が苦にならないタチなので、そういった時間潰しは得手なのであった。

 対して、細君は「遅刻をする人」である。デートで待つのは男の役目だと思っているから、なるべく腹をたてないようにはしていたが(過去形なのは、今は悟りの境地に達している由)、本当によく遅れてきた。
 一度、細君の実家近くを待ち合わせ場所にして、クルマで迎えに行ったら、時間になっても全然現れない。当時はケータイはもちろん、まだ恋人同士でポケベルを持つ文化もなかった。公衆電話から細君のイエ電に電話すると、なんと彼女、寝ぼけて受話口に出てきたのである。
 確かまだデートの回数も二桁いっていなかった頃で、「このコ、俺に本気じゃないのかなぁ?」と不安になったものだ。
 実は本当にズボラ^h^h^hおおらかだっただけ、というのは、後日、彼女を理解するようになって知る。

「【日記】血液型性格診断」でも書いたが、わたしは日本人に血液型性格診断は当てはまる(文化がある)と思っている。細君は一見、几帳面なA型に見えるのだ。わたしも最初はそう思っていた。しかしつきあってみると、もろB型なのである。これは後々、友人や、教会の人にも言われて笑ってしまった。「奥さま、一見、A型に見えるけど、実は根っからB型なんですね」と(笑)。

 脱線ついでに書くと、男のO型(わたし)と女のB型は相性がいいらしい。O型の男は、B型の女が考えていること(マンガでいえば雲フキダシ)をなんとなく読めるのである。
 それと、わたしが「タイプだなー」と思う女性タレントさんなどは、みなB型ばかりであるのも面白い。

 閑話休題。
 細君とつきあい始めてびっくりしたのが、彼女の時間の指定方法である。待ち合わせ時間が10時だとすると、彼女、「10時過ぎにどこそこで」と言ってくるのである。いやそれフツー、「10時までにどこそこで」でしょう? 「過ぎ」だと10時30分でも11時でも13時でもOKになってしまう。いやぁ、なんという知将、って、感心できねーよ(呆)。

 早めに待ち合わせ場所の下見をして、適当なところで時間を潰すのは得意でも、逆に、待ち合わせ場所で指定時間を過ぎて待つのは苦手なのである。昔はケータイなんぞというものはなく、待ちぼうけを食わされたら、はぐれないために、ずっと待ち合わせ場所で待たなければならなかった。
 駅で、喫茶店で、クルマの中で、本当によく待たされた。わたしの人生の十分の一は、細君を待つ時間潰しに使われていると思う。

 細君のこの遅刻グセは、結婚後もかなり長い間続き、そのたびに苦労させられた。何度もその件で衝突したので、今はさすがに「10時過ぎ」指定のようなことを言ってくるようなことはなくなった。「10時頃」はあるけどね。そして、だからといって、その10時頃が必ずしも守られるとは限らない(苦笑)。

 Twitterの両派の応酬を見ていると、わたしが時間厳守派だからということもあり、遅刻常習派の「お願い」はなんとも甘えているなぁ、と思わないではいられない。いや、甘えが一概に悪いとは言わんですがね。こういうのは、両者の関係性によるもので。

 でもね、今の人は恵まれているんですよ。指定時間を過ぎて、待ち合わせ場所を離れても、ケータイやスマホで連絡をつけられるのだから。
 逆に、「学校から遠い子ほど遅刻せず、近い子ほど遅刻する」という先の指摘からすると、便利な時代になったからこそ、遅刻常習派が増えたのかもしれない。
 遅刻常習派から時間厳守派に、まさかの「お願い」が出るほど、ずうずうしくなる程度に、ね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年03月02日

【日記】歯ブラシテスト

 と言っても「暮らしの手帖」のように、いろいろな会社の歯ブラシを実際に使って、磨きの良さや、保ちなどをテストしたというわけではない。

 以前、確かわたしが結婚前に読んだという記憶があるから、昭和の時代の本だ。若い男女に向けた、結婚指南書で、著者は女性だったと思う。

 その本の中に、「歯ブラシテスト」と称して、こんなことが書かれていたのだ(要旨)。

 若い男女が結婚して、新しい家庭をつくっていくのは、簡単に見えて、容易なことではありません。ただ言えるのは、結婚とはやはり、深い愛情で結ばれた男女によってのみ営み続けられることだということです。
 ただ、熱に浮かされたような恋心で突き動かされて結婚してもうまくはいきません。逆に、相手の年収や、容姿に惹かれ、計算づくで結婚しても、いつかは別れてしまうでしょう。
 簡単に「愛している」と言っても、それがどのくらいのものかはわかりません。口先だけなら、いくらでも甘い言葉は言えるもの。それでは、実際にお互いの愛情を測るには、どうしたらいいでしょうか?
 わたしがお勧めしたいのは「歯ブラシテスト」です。
 簡単な話です。お互いが使っている歯ブラシを交換して歯を磨くのです。それができないようでは、とうてい相手を「愛している」とは言えないでしょう。


 最初に一読したとき、うーん、と思った。これはいくら愛しあっていても「生理的にできない」というカップル、あるいは個人はいるのではないか、と。

 念のため書いておくと、わたしたち夫婦は「歯ブラシテスト」は合格である。
 ただ実際問題としてミュータンス菌をやりとりするのは不衛生であるから、やはりそこは、自分専用の歯ブラシを用いている。

 聞いた話では、子どもがある程度大きくなるまで、虫歯菌を持った大人から口移しなどで食物をもらわない方が良いという説もあるらしい。大人の歯ブラシと子どもの歯ブラシが接触し、虫歯を伝染されるケースもままあるそうだ。
 そういったことを考えると、この「歯ブラシテスト」は実に昭和時代のテイストだなぁ、と思う。

 というわけで、わたしら夫婦自身は、この「歯ブラシテスト」合格派なわけだが、人に勧める気にはならない。できないからと言えって、「君たちの愛は本物ではないね」と決めつけたりはしない。
 ただ逆に、やはりそこまでできるのなら、ある程度の愛の担保にはなるのかなぁ、とは感じたりもする。

 PCの初心者に、パスワードというものの重要性を知ってもらうために、わたしが言えう常套句がある。
「パスワードというものは、下着の中身のようなものです。下着の中身を見せあってもいい相手にしか教えないでくださいね」
 このたとえはいかがだろう。納得していただけるだろうか。

「歯ブラシテスト」は昭和テイストだが、現代流にするなら、そうだな、本当に愛しあっている恋人同士なら、ケータイやスマホも互いにオープンにできるはず。「スマホ交換テスト」というのはいかがだろうか?

 これも賛否両論あるようだが、やはりケータイ、スマホを互いに交換できないような浅い関係性では、結婚という生活は維持できないように思う。

 と、ここまで書いて、一服いれて考え直したのだが、上記のわたしの「結婚という生活は維持できない」という考えそのものが昭和テイストなのかもしれない。
 現代の若い人は、互いのケータイ、スマホの中身は個人的なこととして隠しあい、互いに薄い愛情で結婚して、維持できずに離婚する。それでも良いのかもしれない。

 多様性を認める社会というのは、つきつめれば個人主義にならざるを得ない。結婚せず、ひとりで生きていくという人生設計も悪くない時代だ。
 それでも統計をとれば「いつかは結婚したい」という若者が多いということを、少し可哀想に感じる。そう思わせているのは、われわれ「歯ブラシテスト合格」世代の圧力かもしれないから。

 少子高齢化が問題になっているが、本当に問題なのは非婚化と、非婚で子どもをつくることを白眼視する社会性にあるのである。
 わたしはカトリックなので、少子化については「堕胎禁止」でだいぶ解決できると考えているラジカル派だが、こと非婚化についてはなかなか考えがまとまらない。

 たまにブログで細君とののろけ話を書いて、若い方に「結婚も悪くないな」と匂わせることができていたら、まあ少しは非婚化抑止の力になれているのかな、などと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記