2019年04月27日

【回想録】「メイドインヘブン」の思い出

 あぁいかん。最近、どうも妙な曲が頭に常駐しているのである。気づけば脳内でその曲がリフレインしている。この常駐ソングについてはそのうちにまた。

 で、「常駐ソング」で連想して思い出したのが、アダルトゲーム「メイドインヘブン」なのであった。

 このゲームは、確かPILLというブランドが出していたソフトで、とても能天気な内容だった。
 特にネタバレするストーリーがあるようなゲームでもないので、遠慮なく書いてしまう。もう記憶も曖昧だが、ここは検索などせず自分のそれを頼りにいこう。

 一人暮らしの主人公のところに転がり込んできた(幼なじみの?)美少女なぎさちゃん。彼女、なぜか最初から主人公のメイドとして過ごすことになるのである。主人公は別に良家の坊ちゃんというわけではないフツーの男。ただ違うのはちょっと(かなり?)エッチで鬼畜で、なぎさちゃんに毎晩アレコレしまくるのである。
 大人のおもちゃ屋に行って怪しげな道具を買ってはそれを試したり、夜、屋外に連れ出して露出プレイをしたりとやりたい放題。なぎさちゃんには好感度レベルなどというものはなく、ひたすらされるがままである。そんな感じで、毎日毎日毎日毎日、ただ愛欲にただれた生活を送る二人なのであった。ちゃんちゃん。

 ひとつだけ、ゲームオーバーになる条件がある。なぎさちゃんの誕生日に結婚届にサインしてしまうこと。これだけを避ければ、ゲーム時間で何年でもなぎさちゃんをいじめることができるのだ。

 このゲーム、オープニングが(今だと珍しくもないが)なぎさちゃんのライブアニメ動画で、そこにつけられていた曲が、なんとも常駐しやすいそれだったのであった。



 その歌詞がまた、とてもお上品とはいえないので、ここには転記できないのである(笑)。
 ゲームには一緒にCDも入っていて、そちらは全曲版が含まれていたような。オープニングアニメの方は、ヤバゲな歌詞のあたりが観客の「ワーッ」という声援でかき消してあるあたりもおかしかった。

 そして、そして――この「メイドインヘブン」にはさらに伝説がある。インストールすると、なんと、有無を言わさず起動ドライブのルートに――

 C:\巨乳メイド


 というディレクトリを掘ってくれるのである!
 これはもう決めうちで、Program Filesの下にしてくれたりはしない。
 もうこれだけで、私的ネットの仲間うちでは大爆笑のアダルトゲーだったのであった。

「メイドインヘブン」は好評だったのか、後にAV女優を使ったリアル写真版のリメイク版が発売されたと思う。しかしこちらには食指が動かなかった。

 ゲームとしては上記の通りなので、それほど面白いわけではなかったが、なぎさちゃんのかわいらしさと、常駐する曲、さらに「C:\巨乳メイド」のインパクトで、今でも心に残る一作となっている。



 HDDから掘り出してきた、当時、「メイドインヘブン」公式サイトよりいただいた壁紙を貼ってみる。
 スタッフのみなさま、良作をありがとうございました。

     *     *

 さて、気づけばこれが、平成最後の記事となる。
 えっ、いいの? 平成最後の記事が「メイドインヘブン」でいいの!? 他にもっと、叙情的で感動的な記事を書くべきではないの? えっ、えっ、本当に平成最後の記事が「メイドインヘブン」でいいの?

 まぁいいか(笑) 前述の通り、このゲーム、その気になればゲームオーバーのないストーリー。なぎさちゃんよ、平成の世で永遠なれ、なのだ。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月24日

【映画評】魂のゆくえ(ネタバレあり)

 直近の映画館では聖土曜日から掛かるフィルムだったため、その日に観ようと思っていたのだが、用事が入ってしまい、明けて復活の主日、教会で主イエスの復活をお祝いしたあとに、細君と鑑賞。

 観終わった直後の感想……。復活の主日に観る映画ではなかったですな……。せめて四旬節に観れば、もっと違った感想もあったかもしれない。

 それにしても、この、観終わったあとの取り残され感はなんだろう。連想したのは、なぜかデビット・リンチ監督の「イレイザー・ヘッド」だった。

 この記事は中いち日おいて、復活の火曜日に書いているのだが、どうにも感想をまだ言語化できずにいる。
 復活のイエスは、マグダラのマリアに「わたしに触れてはならない」と言ったのだが(ヨハネ20:17)、どうにもこの記事ではネタバレに触れず書くことは不可能そうなので、ネタバレ上等の鈍感なわたしにしては珍しく、タイトルにネタバレ表記をした。


(パンフレットの装丁はやたらカッコいい。原題は「First Reformed」)

 あらすじ――主人公トラーは、アメリカの寂れた教会(改革派――カルヴァン派プロテスタント)の牧師である。礼拝のあと、信徒のメアリーがトラーに、夫と話をしてほしい、と願う。メアリーは妊娠中だったのだが、環境活動家である夫マイケルは、こんな時代に子どもを産むということに反対していた。
 翌日、マイケルと話をしたトラー。彼の説得にマイケルは納得した様子はない。二人は再会の約束をして別れた。
 メアリーに呼び出され、トラー牧師は彼女の家に向かう。そのガレージにあったのは、マイケルが用意していた自爆テロ用ベスト≠ナあった。
 そのベストを預かり、マイケルに呼び出されて森林公園へ向かうトラー。そこで彼は、ライフルで自分の頭を打ち抜いて自殺していたマイケルの遺体を発見する――。


 このあたりまでは、新聞の評などにも載っていたので、ネタバレの範疇に入らないのだろう。
 とにかく、淡々と話が進む。正直、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭と教会漬けで疲れた脳が、その単調さにウトウトしかけたことを白状する。マイケルの自殺あたりで、やっと意識が戻ってきた感じだ。

 トラーが牧師を務めている「ファースト・リフォームド教会」は、メガチャーチの「アバンダント・ライフ教会」の傘下であり、上司たるジェファーズ牧師に「きみのところのような観光目的の教会は――」などとくぎを刺されたりするのはおもしろかった。アメリカは純粋なキリスト教国≠ナはなくキリスト文化国≠ナあることがよくわかる。

 トラーは過去に息子を従軍牧師として戦場に送り出し、そこで死なせていたり、それが原因で妻と別れていたり、教会のエスターという女性とどうやら過去になにかあったらしいことを匂わせたり、胃ガンを患っていたりと、やたら暗い背景を負っている。陰キャ中の隠キャである。

 隠キャなので、アバンダンド・ライフ教会に多額の献金をしている企業「バルク社」が、環境破壊に加担していることに、マイケルの影響でクヨクヨ悩んだりする。
 そしてあろうことか、彼が務めるファースト・リフォームド教会の250周年の式典に、バルク社の社長がスピーチをするということになり、悩みに悩んだ上、マイケルの自爆テロ用ベストを着てみたりする。

 しかしその間にも、未亡人となったメアリーとイチャコラして、手を握りあい空中浮遊(イメージ)までしてしまうという節操のなさ。まー、牧師と未亡人だから、問題ないと言われればそうだけれども。

 式典に来てはならない、とメアリーに厳命するトラー。このあたりで観劇者は、「あ、こいつ、式典で社長を巻き込んで自爆テロをやらかす気だな」と覚悟をする。
 が、その式典に、トラーの異常を察知したメアリーがやってきてしまうのだ。それを窓から発見したトラーは、自爆テロベストを脱いで、鉄条網で自らの体を縛り上げ(こういう自分をいじめる行為はあれだ、確かにキリスト教の一部の教派ではあるのだけれども)、祭服に血をにじませながら、式典もブッチしてメアリーと抱き合い激しいチューをする。その周りをカメラがぐるぐる回って、いきなり――

 終劇!

 暗転して、映画本編は終わる。
 正直、目がテン、口あんぐりのままスタッフロールを眺めるわたしと細君。

 5ちゃんの映画板、「単独スレを立てるほどでもない新作映画」スレに、クリスチャンならなにかクルものがあるのかな? といった書き込みがあったが、いや、現役ガチカトの感想が上記ですよ……。

 環境問題と信仰のベクトル差に悩むというサブテーマも、50年前ならともかく、今はもうコケの生えたものにしか感じなかった。

 そして、時間をおいて、振り返ってみた感想は――宗教が宗教の名を借りるだけで宗教として機能していない(日本の仏教と同じだ)世界で、その宗教の教えを守ろうとする不器用な男がもがくブラックユーモア映画なのではないかと思えてきた。
「キリスト教国」ではなく「キリスト文化国」に住む、名ばかりの多くのクリスチャンたちは、このフィルムを観て、どこか後ろめたさを感じるのかもしれない。この映画は数々の賞をとり、アカデミー賞でも脚本賞にノミネートされている。
 今、Wikipediaを見たら「批評家から絶賛されている」とのこと。へーそうなんだ(棒)。

 なんというかな。「意識高い映画好き」には好評なんだろうな、きっと。

「『魂のゆくえ』って、牧師が主人公のキリスト教映画らしいよ」
「ふーん。じゃあ観にいってみようか」
 てなノリで劇場へ足を運んだ日本に住むガチカトの夫婦にとって、復活祭のおめでたい気分に、陰鬱な影がさしてしまったのは確かである。

 そして翌日、スリランカで復活祭のミサを狙った連続爆破テロがあったことを知る――なんとも、言葉もない。亡くなられた犠牲者の安らかなお眠りと、卑劣な犯行グループのすみやかな逮捕、事件の真相解明を祈るばかりだ。

 平成最後の復活の主日に観た映画、しかもその翌日に爆破テロがあり、状況的に、妙に心に残る映画になったことも確かである。
 DVDまでは買わないが、また観る機会があったら、今度は睡眠をしっかりとってから観るかもしれない。
 あ、でも、復活節、降誕節にはやめておこう、と、心に誓ったり。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年04月20日

【日記】汝、神≠ニ呼ぶなかれ

 サッカーのことはよくわからないのだが、メッシ選手が神≠ニ呼ばれていることについて、パパ様(ローマ教皇)がスペインのテレビ局でそれをやめるようにと言ったとのこと。

 カトリックであるわたしは、正直、驚いてしまった。
 パパ様の発言に、ではない。カトリック国であるスペインで、メッシ選手が神≠ニ呼ばれている、という事実に、である。

 日本でなら、比喩表現として、この神≠ェ使われていることはよく理解している。わたしも2ちゃんねる全盛期には、神≠ニ呼ばれたことがあった(厨房、アスペと罵られたこともあったがw)。

 しかし、日本の神♀T念と、スペインの神♀T念は、本来、全然違うものなのである。
 ご存じのとおり、日本には神≠ェたくさんいる。根本的にヤオロズの神≠ナあるし、モノも長いこと使っているとツクモガミ≠ノなる。神社≠ェそこかしこにあるように、日本の神≠ヘ身近で珍しくないものなのだ。

 よく葬式で間違われるのが、神道と仏教の混同である。さっきまで木魚でポクポクやっていたというのに、喪主あいさつで「亡くなった○○も草葉の陰で見守ってくれていると思います」と神道発言をしたりする。
 つまり、「死んだらホトケになる」という言い方があるように「死んだら神になる」という混同もまた、日本人は無意識にやっているのだ。クリスチャンから見ると滑稽な先祖信仰≠ネどは、故人が神≠ノならないとありえないのである。

 対して、カトリック国であるスペインの神♀T念はキリスト教のそれであるはずなのである。唯一無二の唯一神。父と子と聖霊の三位一体ではあるが、日本の神概念と違って「誰かがなれる」という存在ではない……はずなのだ。

 それが、才能に恵まれ成果をあげているからといって(いや、よくはしらないのだが)、メッシという個人を、スペイン人が神∴オいしている、ということに仰天なのである。

 以前から何度か書いていることだが、もう「キリスト教国」のキリスト教は、宗教ではなく、文化としての意味しかなくなっているのかもしれない。

 メッシを神≠ニ呼ぶこと。これを日本人にたとえて言うと、天皇陛下になるのである。成績優秀な人を、例えば「サッカーの天皇=vと呼ぶようなものだ。こう書けば、メッシを神≠ニ呼ぶスペイン人の異常さ、パパ様が「やめなさい」という理由がおわかりいただけるだろう。それは不敬で、間違っており、言っていいことではないのだ。
(もちろん、日本の天皇陛下を指すのではない、「すめらぎ」としての皇≠ニいう表現はありだろう。マンガ「ワンピース」にも四皇≠ニいうキャラクターたちがいるが、これは無理がない)

 わたし自身は、日本人でもあるがカトリックのキリスト信者でもあるので、やはり個人に神≠冠したり、神ってる≠ネどの気味悪い表現は使いたくない。

 かつて戦国時代に日本を訪れたカトリックの宣教師たちは、日本の神≠ニ三位一体の神の違いを表すため、キリスト教の神を天主≠ニいう呼び方にした。カトリックも天主公教≠ニ称していたのである。
 それが戦後のプロテスタントの隆盛時、布教のときに日本の神≠ニいう呼び名をそのまま流用したものだから、日本人はキリスト教の神までヤオロズの神に組み入れて、間違った理解をするようになってしまったのである。

 あぁ、なんと嘆かわしく、日本人にとって不幸な出来事であったことか。

 このパパ様の発言に対し、日本人の多くの人が「ケチくさいこと言うなや」という感想を持っているようだが、バックグラウンドには上記のような理由がある、ということを知ってほしいと思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年04月17日

【回想録】2000年問題の思い出

 新元号も「令和」になるとわかり、改元までの残りわずか数週間、キーボードを懸命にたたいて過去のソースを手直ししているプログラマは少なくないのかもしれない。なんとも、お疲れさまでございます m(_ _)m

 うちの会社が使っているアプリケーションは、一部がメーカーの対応待ち中だが、会社の決算月が三月なので、今年の確定申告と税納付(5月末)では大きな間違いはないだろうと思われる。
 弊社で製作する書類で元号変更が必要なのは税務関係の書類だけ。社内文書を作成するプログラムはたいていわたしが書いているが、そのたぐいは創立時から西暦で計算するよう統一してあるので、今回の改元で問題は起こらない、はず、はず、ハズ……。

 と、ちょっと弱気なのは、2000年問題のとき、思いもかけないプログラムで、自分の作ったアプリケーションが誤動作したことがあったからだ。
 今年が2019年だから、あれはもう19年も昔の話になる――というわけで、もう十分「回想録」カテゴリなのだな。

 若い人はご存じないかもしれないが、西暦が1999年から2000年に変わるとき、コンピュータ関係で「2000年問題」というものがあったのだ。
 想像すればすぐおわかりいただけると思うが、当時はまだ、西暦を納める変数に2bytes(0x0000〜0xFFFF)を使わず、1byteでごまかしている(0x00〜0xFF)システムが稼働していたのである。
 こういうプログラムは、表示のところだけ、19≠先にプリントし、残りの二桁だけで年数を表示したり、計算したりしていた。
 2bytesで表現できる数字は、十進数だと0〜65535だが、1byteだと0〜255までとなる。

 そんな設計のシステムが2000年を迎えるとどうなるかと言うと、単純に言えば、見た目、「1900」年に戻ってしまうのである。内部的にはちゃんと計算できていたりするが、表示はあくまで1900年代のままだったり、内部計算もおかしくなったりするシステムがあったりと、それはまちまちであった。

 変数を1byteで取っていたプログラマを責めることはできない。なにしろ、古いシステムではメモリ環境もプアで、1byteも無駄にできないプログラムというのがあったのである。かの祝一平氏も「1バイト入魂」という名言を残している。

 さらには、自分の書いたプログラムが、2000年まで使われているはずがあるまいよ。と思っていたプログラマも珍しくはなかったはず(笑)。
 しかし、そういうプログラムも、誰もメンテをせず、ひっそりと何十年も使われ続けていたりしたのである。

 1999年の時点で、世の中のいろいろなものを動かすシステムの多くはコンピュータに依存するようになっており、実際、2000年になってみないと、そんな過去のプログラムがどう動くかわからないという怖さがあった。これが「2000年問題」なのであった。

 例えば、2000年になったとたん、ガスが止まるかも、電気が止まるかも、と、不安をあおる報道などもあり、1999年年の年末には、ポータブルガスコンロなどが飛ぶように売れたのであった。

 市井のいちプログラマであったわたし自身は、人命に関わるようなコードを書いていたわけでもなく、気楽なものであった。実際、それほど混乱は起こらないだろうな、という楽観的な感触も持っていた。
 配布していたフリーソフトに関しても、振り返ってみて、カレンダーを計算するソフトはなく、少なくとも自分が書いたプログラムは2000年問題とは無縁だと思っていたのである。

 ところが、年が明けて2000年になって、誤動作するフリーソフトがひとつあったのだ。
 それは、ニフティサーブの会議室ログを整合化し、削除発言のダミー挿入や、親発言の根を自動生成して、ログビュアーで見るときに不整合が起きないようにする、という、かなりマニアックなソフト、「ログロジカライザ」であった。
 生ログを整合して、今で言うなら、Androidのchmateのように美しくログを読めるようにするソフトなのである。
 ログのアペンドミスで逆行している発言を自動的になおしたり、ファイルのタイムスタンプも操作し、その会議室の最初の発言のそれにあわせたりもできる。かなり凝ったものであったと自負している。
 Cソースコードのコンパチビリティにも挑戦し、X68kのGCCでも、MicrosoftのQuickCでも同じソースでコンパイルでき、MS-DOS環境下では同じエグゼバイナリで使えた。
 ちゃんとしたログをきちんとライブラリに残したいというsysopさんは重宝したはず。残念ながら、インターネットが一般化しつつある頃に公開したので、あまり人気はなかったが……。

 その「ログロジカライザ」が、ばっちり2000年問題に引っかかっていたのである orz

 もうよく覚えていないのだが、引っかかったのは、先にも書いた、ログの最初の発言日時をファイルのタイムスタンプに反映させる機能だったと思う。
 しかもX68k版は大丈夫で、QuickCでコンパイルしたDOS汎用版の年が異常になってしまったように記憶している。つまり、QuickCの、ファイルのタイムスタンプを変更するライブラリに問題があったのだ。

 つまるところ、純粋にわたしの責任ではないが、少なくとも、わたしが書いたプログラムは2000年問題にばっちり引っかかっていたのである。

 こういうふうに「プログラマ自身は責任がないと思っていても、また、ソースを見ても問題はないのに、他の要因依存で2000年問題に引っかかることがあるのだなぁ」というのは、いい経験になった。

 今現在、税務署のOCR提出書類では、生年月日の年号を数字で書くことが少なくない。明治を1=A大正を2=A昭和を3=A平成を4≠ニ書くわけだ。当然、令和は5≠ノなるだろう。そしてこの欄は1桁しか用意されていない。
 あと元号が5つ変わったら二桁にするのか、それとも、そんな頃は明治大正昭和の人間は生きていないだろうからまた1≠割り振るのか、興味あるところだが、その頃、わたしはこの世にいないだろう。残念である。

 今、そのOCR処理を書いているプログラマも「どうせその頃、俺、生きてないし」と思っているのだろうな(笑)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月13日

【カットリク!】復讐するは我にあり

 この聖句(聖書の中の一節)をご存じの方は、わりと多いのではないだろうか。
 佐木隆三先生の著作のタイトルにもなっているし、映画化、ドラマ化も同タイトルでなされた。
 もちろん、キリスト教国でも有名な聖句であり、洋画などでも――


(映画「バイオハザード:ザ・ファイナル」より引用)

 のように登場してきたりする。

 わたしが最初にこの聖句を知ったのは中学の頃、小松左京先生の「復活の日」からであった。
「復活の日」は、米ソ冷戦時代に生物兵器の漏出によって、南極に数千名の人間を残したまま世界が滅んでしまうというストーリー。その死滅した世界で、将来的に起こる地震によって発射される核ミサイルが、ビリヤードの球のように次々と米ソ互いに発射されてしまう可能性がある、その一発は南極に向いているかもしれない。という設定で、そのとき、つぶやかれる台詞だ。


(小松左京「復活の日」より引用)

 非常に印象的で、最初に読んだときは「自分が復讐するという強い決意を現した一節」だと思っていた。
 さてこの聖句、実際には新約聖書のパウロ書簡のひとつ、「ロマ12:19」が引用もとなわけだが、パウロ自身は、自分の台詞を旧約聖書を引いて言っているのである。つまり言ってしまえば「復讐するは我にあり」を我々が使うのは孫引きである。
 先にパウロが引用した旧約聖書をみてみよう。ここは日本聖書協会の文語訳で味わっていただきたく。

汝仇をかへすべからず汝の民の子孫に對ひて怨を懐くべからず己のごとく汝の鄰を愛すべし我はヱホバなり (レビ記19:18)


 なんと、原典の旧約聖書では、神は「復讐するな」と言っているのである。
 で、それをパウロはどう引いたかというと――

愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。(ロマ人への書 12:19)


 どうだろう。全文を読むとおわかりいただけるとおり「復讐するは我にあり」の「我」とは、神ご自身のことなのである。

「復讐するは我にあり」――このインパクトのある一節で、「復讐するのは自分。その強い決意を現す聖書の言葉」と思っている方は、けっこう多いのではないだろうか。実際には真逆、復讐心は神に預け、敵を隣人のように愛しなさい」というのがパウロの主張、ひいてはイエスの教え、キリスト教の考え方なのである。

 真の意味を知っていると、上に上げた「バイオハザード:ザ・ファイナル」のナイフにこの聖句が刻まれているのは、実にカットリク!なのである。キリスト教国だからと言って、誰もが聖書に精通しているわけではない、ということは、以前に何度も書いたことだが。

カットリク!・ポイント77――
 カットリク!では「復讐するのは自分だ」と教えちゃったりする。


 余談だが、ミステリを書いているとき、犯人に殺意を持たすために自分が想定できるのは、この「復讐心」だけであった。逆説的に「復讐心」をなくすのはなんと難しいことかと思う。
 神が実際に「我、これに報いん」してくれれば良いのだけれどね。世界はそれほど公正ではないのだ。神の思惑に逆らって。残念なことだが。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究