2019年04月10日

【映画評】麻雀放浪記2020

 実を言うと、多少のうしろめたさを持って、この記事を書いている。
 言うまでもなく、この映画「麻雀放浪記2020」に、コカインを使用した容疑で逮捕されたピエール瀧氏が出演しているからである。
 ピエール瀧氏については、声優として「アナ雪」のオラフがうまかったなぁという思いくらいしかなく、電気グルーヴやその他の活動についてはなんの知識もないわたしが語れるなにかを持っているはずもない。
 よって、わたしは本作を、ピエール瀧氏個人や、今回の事件をとりまく状況――東映が公開を決定したことなど――を「応援するつもりで観た」わけではない。和田誠監督の傑作映画「麻雀放浪記」のいちファンとして、この21世紀に「麻雀放浪記」の名を冠した作品が新しく銀幕に映る、ということに期待して劇場に足を運んだのである。



 冒頭の「多少のうしろめたさ」は、コカインなどの麻薬の流通には必ず反社会的勢力がなにかしら絡んでおり、わたしがこの映画に払ったお金が、ほんのわずかでもピエール瀧氏を通して反社会的勢力に流れる可能性があるという事実を無視できないからである。

 今回の事件に関して「被害者はいない」と言っているワイドショーがあって、これには仰天してしまった。麻薬の売買は明らかに反社会的勢力の糧のひとつであり、健全な国家に対する明らかな加害行為である。日本国民ひとりひとりが被害者なのである。
 ワイドショーの出演者やテレビ局は、反社会的勢力に忖度しなければならない理由でもあるのだろうか。それともただの莫迦ばかりなのか。後者であれば、まだ救われるというものだが……。

「作品に罪はない」という声もあるが、それもまた違うだろう。それを言ったら、スポーツにおいてドーピングでつくられた記録にも罪はない。少なくとも「参考記録」として残す価値はある。

 しかしまた、自粛と称して放映、公開を取りやめたりするのも筋違いだと思うのだ。それは臭いものにフタをするというその場しのぎの対策にすぎない。反社会的勢力を見ないことにして、その存在がないことのように振る舞っているだけだ。



 これから書くことは、あくまで夢物語、絶対に不可能であろうことは承知で記すのだが、むしろ、出演者が違法薬物を使用していたとわかった作品は、「著作権フリー」として無償で放映、公開するべきではないだろうか。発表後50年経ったのと同様に扱うのである。そうすれば、誰しもが自由に、対価を払わず観ることができる。すなわち、反社会的勢力に対して、おまえたちには一銭も渡さないという確固とした姿勢を見せるのである。
 もちろん、原因となった出演者に対しては損害賠償請求などを行い、反社会的勢力に流れたカネをカタチとしてでも回収する。

 基本にあるのは、「反社会的勢力にカネを流さない」というシンプルな思想である。善いヤクザやギャングなどというものは、それこそ銀幕の中にだけ存在しているものだからだ。

 前置きが長くなった。これでこの「麻雀放浪記2020」が傑作ならば良かったのだが――
 以下、ネタバレ嫌いの方は、あらすじのうちに別ページへとんでいただきたく。

 あらすじ――1945年、戦後の焼け野原に残った雀荘オックスクラブで、後に伝説となる大勝負をしていた坊や哲=B出目徳が九蓮宝燈をあがって死んだ後、ママのユキが入り勝負は続行(このあたりが映画「麻雀放浪記」とは違う)。そして坊や哲も九蓮宝燈をあがる。その瞬間、彼は雷に打たれ2020年の東京へタイムスリップしてしまうのであった。
 2020年の日本は、再び起こった戦争に破れ、ゴリンピック≠熬止となり、過剰な管理社会となっていた。坊や哲はその日本でギャンブラーとしてもがくように生きていくことになる。果たして彼は、もといた1945年に帰ることができるのか――。


 今この記事は、観終わってすぐに書いているのだが、正直「なんだかなぁ」という感想であった。
 いや、面白い。面白くないという話で言えば、面白かったのですよ。まあまあね。少なくとも、観ているうちは飽きなかった。観ていて本当につまらなかった映画は記事にすらしないのがわたしの主義。

 しかし本作「麻雀放浪記2020」を、和田誠版「麻雀放浪記」の続編、リメイク、スピンアウト、パロディ、オマージュとして観ようという方がいらっしゃるのなら、それはやめたほうがいい、と、強くお引き止めする。

「麻雀放浪記2020」には、和田誠版「麻雀放浪記」はもちろん、原作の阿佐田哲也先生に対する敬意はほとんどない。むしろ、それらもはや伝説となった権威を笑い飛ばそうという裏の意志すら感じられる。
 わたしはこういうの、嫌いではないから受け入れられるが、「麻雀放浪記」の根強いファンならば「こんなくだらない作品に『麻雀放浪記』の名を冠するなど許せない」と怒るのではないだろうか。

 ストーリーは本当にいただけない。坊や哲が未来へタイムスリップというだけでカビの生えた発想だというのに、しっかりとしたキールもなく、二転三転する流れだけの物語。
 作中、坊や哲が賭博容疑でお上に逮捕され、街中にあふれていた彼のグッズが破棄されたり、謝罪会見を行ったりするのは、妙に現実と合致した現実のパロディか、と、心の中でツッコミ。
 さらに、麻雀五輪世界大会というのがクライマックスになるのだが、世界大会というくせに、そこへ各選手たちが至るまでの詳しい経緯や背景はまったく描かれておらず、観劇者をおきざりにしたまま、勝負に突入していくというていたらく。

 闘牌シーンも緊迫感がなく、ひりつくような勝負のほてりもない。「ざわ……ざわ……」どころか「シーン……」である。
 ラストのネタバレを書いてしまうが、坊や哲は九蓮宝燈を聴牌するが、あがり牌のウーピンがすでに場に四枚出てしまっている。それをいかさまの「拾い」でツモるのかと思いきや、過去から持ってきてポケットに入っていたウーピンを卓にたたきつけ「ツモ、九蓮宝燈」。おいおいおい、それはあれか? 麻雀マンガでたまにある闘牌シーンのミスをパロッたのか!?

 観るまで知らなかったのだが、「スーパーヅガン」の片山まさゆき先生が「プロット協力」をなさっていらっしゃるとのこと。なるほど、それを知って振り返ってみると、この「麻雀放浪記2020」、どこか片山ワールドっぽい。片山先生の絵が浮かんでくるようなシーンがいくつもある。うーん、それが駄作≠ニ切って捨てられない味になっているのかなぁ。わたしは片山先生のファンなのである。

 今、「麻雀放浪記2020」の公式サイトを見てみると「センセーショナル・コメディ」とうたわれている。そうか、製作者側もそういう意識で作っているのか……。
 うーむ、主演の斎藤工さんは、本作が「構想10年! 念願の企画」なのだそうだが、本当にこれをつくりたかったのだろうか。本当は、正統派の「麻雀放浪記」のリメイクを作りたかったのでは、と、うがった見方をしてしまう。



 話をピエール瀧氏のほうに戻せば、映画の冒頭部に「この映画には麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたピエール瀧容疑者が云々」というテロップが流れる。
 ご本人の登場は数カット。特に不愉快ということもないが、うまくカット編集すれば、全然構わないようなシーンであった。
 これをそのまま公開することにした東映の判断を、わたしは支持も不支持もしない。いやまあ、本作が大傑作なら、いや、傑作なら、いやいや、せめて佳作なら、「東映の英断に拍手したい」と書くところなのだが……。

 この先、「麻雀放浪記2020」はパッケージビデオ化されるのだろうか。少なくとも地上波での放映はないだろう。有料放送ではどうだろう。
 そう考えると、「麻雀放浪記2020」を観られるのは、今しかないのかもしれない。

 いろいろな意味で(わたし自身はお値段相当楽しめたが)おすすめはしない「麻雀放浪記2020」だが、観るチャンスは限られているのかもしれない。上映劇場もそう多くはなさそうなので、リスクを冒してでもスリルを味わいたいという方はどうぞ劇場へ足をお運びを。

 だって、ギャンブルってそういうものじゃないですか!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年04月06日

【日記】日本人は幸福感を感じないと平和ボケなのか

 ある声優さんがツイッターで「日本に生まれて幸せではないと答えた人が多いのならば、その人たちには人権の最低保障のない国に生まれたら良かったのにと言いたくなる。平和ボケし過ぎると、今の生活に感謝もできなくなるのか」といった内容のつぶやきをして、炎上してしまったという。

 わたしはツイッターはやっていない(匿名アカでプレゼント応募に使っている程度)し、短文派ではないので、誤解を生みやすいツイッターでのやりとりは好まない。また、発言そのものをここに一字一句転記するのもよろしくないと思うので、上記の発言の正確なところは、検索などしてぜひとも原文をお読みいただきたい。
 ここでは、ツイッター上で炎上した上記の発言とは一線を画して、一般的な話として、幸福とはなにか、平和ボケとはなにかを考えてみたい。

 さて、この発言のもとになったのは、おそらく、2018年の「国連世界幸福度調査」で、日本が54位にしかなれなかったことを指して言っているのだと思う。ベストスリーはフィンランド、ノルウェー、デンマーク。アメリカは18位。ラストの156位はブルンジであるという。

 わたしはこのランキングを見て、まあ妥当な方だなと感じた。日本に生まれるというのは、決して幸福なことではない。
 以前にも書いたが、この日本でクリスチャンであるということは、同時に、自分がどうしようもなく日本人だということをつきつけられ意識しながら生活するということでもあるのだ。日本人の貧しさや生きにくさ、人生そのものの辛さは、そのままでは、とても幸福に過ごせる環境とは言いがたい。

 ツイッター主のつぶやきを一読して思ったのは、この発言者は「幸せな方なのだな」ということである。実際、炎上中のつぶやきでも「(わたしは日本という環境にいて)幸せで感謝です」といった意味のことを言っている。
 そして――これが大事なのだが――幸せな人というのは、不幸な人が見ている世界を捉えられなくなることが往々にしてあるということなのである。

 イエスの山上の垂訓では、有名な真福八端という教えがある。ここでは日本聖書協会の文語訳で紹介しよう。

 幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
 幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。
 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
 幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。
 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
 幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。
 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
(マタイ傳福音書5:3-11)


 この教えのいくつかで、イエスはむしろ、人権を奪われ、貧しく、不公平に憤る人々こそ幸せだと言っている。「幸いなるかな、平和な国に住む者」などとは、決して言っていないのである。

 ちなみに、聖書における「平和」は旧約ヘブライ語では「シャローム」という。これは単に、戦争や争い、憎しみあいのない状態を表すのではなく、神のもとに完成された、完全に安らかな世界を指して言う言葉なのである。

「平和だから幸福」という幸福観は、実は「お金があるから幸福」という幸福観とまったく変わりがない、ということに留意してほしい。

 前記ツイッターの発言者の方は(まだお若いからわからないのかもしれないが)、幸福感≠ニ平和≠ヘ、本来、因果関係がないものだということをご理解していないのだろうと思う。平和ボケならぬ、幸福ボケに陥っていらっしゃるのだ。
(発言者を擁護するならば、日本人は確かに平和ボケはしていると思う。しかし決して幸福ボケはしていない)

 貧しくとも幸福な人々がおり、大富豪でも不幸な思いに苛まれて自殺をする。同様に、戦争で日々命を落とす危険がある人々にも幸福はあり、平和なこの日本にも、不幸な人々はたくさんいるのである。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より引用)


 カムパネルラのわからなかった「ほんとうのさいわい」とはなんなのだろうか?

 少なくとも、七五三を神社で祝い、結婚式はなんちゃって教会≠ナ挙げ、死ぬと高い金で戒名を買って仏教で葬式をあげる。そんないいかげんな生き方を豊かな宗教観≠セと思っている人々に、「ほんとうのさいわい」がないことだけは確かである。

 繰り返して書くが、「幸せな人というのは、不幸な人が見ている世界を捉えられなくなることが往々にしてある」。そしてその幸せな人≠ェ不幸な人≠ヨ向けて発する言葉は、ときに――本人が想像している以上に――暴力的だ。

 最後に、トルストイ「アンナ・カレーニナ」の冒頭文を引用する。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」
 この想像力を忘れたとき、その人は幸福ボケ≠ノなるのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年04月03日

【回想録】ゲーム「吊」の思い出

「令和」――令和かぁ。うーん、まだいまいちしっくりしないが、そのうち慣れてくるでしょう。平成のときもそうだった。

 昭和から平成になったときのことは「【昭和の遺伝子】昭和の終わり」に書いた。
 昭和の終わりと平成の始まりは、昭和天皇陛下のご崩御が前提であったから、世間は自粛ムードで、今回のようなお祭り騒ぎになりようがなかった。みな粛々と「平成」を受け入れるしかなかったのだ。

 一カ月後の改元をめでたい気分で、日本国中が祝えるこの雰囲気を迎えることができたことを、生前退位のご英断をなされた平成天皇陛下に感謝したい。

 我らがカトリックの総本山バチカンでも、前パパ様でいらっしゃったベネディクト16世猊下が2013年に、719年の伝統を破って生前退位している。
 天皇陛下も教皇様も、宗教的シンボルという点では同じである。
 わたしも心の奥のどこかには、「そういう天に選ばれた方は、自由意志で退位せず、命の限り職位についていてほしい」という気持ちが、ほんのわずかでもないではない。

 しかし、パパ様の代替わり、天皇陛下の生前退位(の予定)を経験してみて、このお祭り騒ぎも悪くはないな、という気分になっている。
 なにか、新しく、これから日本が良い方向に向かっていく期待がもてる春になりそうだ。

 さて、「平成」のときの第一印象は「平等になる」だったと、先の記事には書いた。
 では今回の「令和」はというと――あぁ、なんたることか、わたしは一本のアダルトゲームを最初に連想してしまったのである。

 それは、「D'z」というメーカーが1998年に出した「吊(つるし)」というゲームなのであった。

 今、検索してみると、なんと、DMM GAMESで買うことができる。なんとも便利な時代である。
 ゲームはいわゆる「鬼畜・陵辱系」になるのだろうか。主人公がクズ中のクズで、愛情が重くなってきたヒロインをうとく思い、あれこれひどいことをする&させるという話。実を言うと細部はもう覚えてはいない。

 それなのになぜ「令和」でこのゲームを連想したのかというと、このゲームのヒロイン名が「レイナ(麗奈)」だったからなのだ。

 いや、それだけで、今まで何百本とプレイしてきたゲームのうちの一本を瞬時に思い出すというのはどうかしていると自分でも思う。実はそれにはわけがある。
 このゲーム、音声つきだったのだが、DMMのレビューなどでは触れられていないが、声優さんが――なんというか、個性的というか、ありていに言ってしまえば、すごくヘタだったのである。
 ゲームそのものは、そう面白いものではなかったのに(というか、わたしは鬼畜・陵辱系は嫌い)、当時、パソコン通信(NIFTY SERVEのFCGAMEX)やインターネットでは、その声優さんのヘタさがむしろウケてしまい、「脳天とろけそう」、「常駐してしまう」、「むしろこの声以外考えられなくなってきた」と、妙な方向でウケてしまったのだ。

 私的ネットの中でも、この「吊」は上記の理由でウケにウケてしまい、わたしはオフで、ヒロイン麗奈の「レイナはね、レイナは○○なのぉ〜」という口癖を披露して笑いを取ったのであった。

 それが、ああそれが、今回の新元号発表の「令和」で最初に連想してしまう事象になってしまうとは。
 管官房長官が「レイワです」と言ったとたん、頭の中で「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と、あの声優さんの声がひらめいてしまったのである。

 おそらく日本国民一億二千万人の中で、あの瞬間に「レイワはね、レイワは新元号なのぉ〜」と脳内でニューロン発火し「吊」の記憶がシナプス結合していたのはわたしだけに違いない。
 いやひょっとしたら「吊」の声優さんや、スタッフの方は、ちょっとは連想してくれたかなぁ……。

 そんなわけで、リリカルに始まった「平成」に比べ「令和」はわたしの中でもスラップスティック気分である(笑)。

 しかし、新元号が「令和」でなかったら、わたしの脳の長期メモリ領域から「吊」の記憶は消えていたかもしれなかったのに。
 しかもここにこうやって書いてしまって、もう消えない記憶になってしまったのである。

「吊」には確か続編もあって、そちらでは声優さんがうまくなってしまっており、いまいちそちら方面では盛り上がらなかったというような覚えがある。
 ううむ、DMM GAMESで買って、ひさびさにあの声を堪能してみようか、な。

 追記:私的ネットの過去ログを検索してみると、D'sはまず一作目に「嫉」という作品を出していたようで、「吊」は二作目だったらしい。FCGAMEXの過去ログがあればもっと詳しいことがわかるのだが、十年前以上前に焼いたCD-Rが読めなくなってしまっていた。残念である。
タグ:ゲーム
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録

2019年04月01日

【日記】新元号「令和」決定おめでとうございます


(NHK特番よりキャプチャ引用)

 ふふふふふ……。
 はーはっはははは。
 わーははははははっはははは。
 わたくし結城恭介、宣言どおりやりました。2016年6月25日の記事、「【日記】新元号を当ててみせる!」で予告していた「必殺・暗黒流れ星オペレーション」――


(島本和彦「炎の転校生」12巻より引用)

「そう! あとは総当たりだけだっ!!」

 で作成した新元号予想リスト(「新元号予想リスト(zip)」)。8554012行目をごらんいただきたい。



「令和」!

 上記記事では「外れたら丸坊主になる覚悟」とも書いてある。おかげさまでそれも免れた。ふっふふふ。これからは上記記事で宣言したとおり「わたしは新元号をコンピュータを使って当てた男」と名乗るつもりである(笑)。はぁーはっははははああゲホゲホ。

ちなみに子パンダの名前も上記リストで当てている(「【回想録】パンダの思い出」参照)。

 そりゃ総当たりすれば当たるでしょうよ。という感想を持つ方もいらっしゃるかもしれない。いやね、わたしだってそう思っている。でなけりゃ丸坊主なんて賭けませんよ。第一、この記事を書いているのは、2019/03/26。当たることを見越して、新元号のところだけ「〓〓」を入れてね。

 実はこれ、上記記事自体が、長い時間をかけての前フリだったのである。本当に書きたかったのは次のこと。

 わたしは、まだネット黎明期、パソコンが一般家庭にあるかないかの時代に、あるミステリを書いた。
 当時はポケベル全盛期で、ポケベルの文字コードには、「ドコモコード」と、「他社コード」の二種類があり、そのアルファベットコードには微妙に差異があったのである。

 これをミステリのトリックに使えないか、とわたしはひらめいた。そこで数万語の英語辞書から見出しを抽出し、さらに、そのアルファベットを「他社コード」に変換した上、日本語ローマ字読みとして意味のある言葉をフィルタリングするプログラムをGCCでコーディングした。などと書くと大仕事のように感じる方もいらっしゃるかもしれないが、わかる人にはわかる、簡単な小物プログラムである。
 そして実行。いくつかの候補がリストアップされたが、英単語PAIRと、日本語ローマ字MAHOが気に入った。それでサブヒロインの名を「真帆」とし、また、作中に出てくる店の名を「PAIR」として、その差異をを使ったポケベルのトリックを構築したのである。

 別にここで「オレスゲー」をしたいわけではない。しかし、このトリックを作るには、「コンピュータが必要だった」ということに刮目してほしいのだ。
 今の時代、「コンピュータそのものをトリックにした物語」は普通にある。しかしわたしがやったのは「コンピュータでトリックを作った物語」なのである。
 当時、この先進性に気づいた評論家はひとりもいなかった。寂しい話である。読者で気づいた方はいらっしゃっただろうか。
 作中では、PAIRとMAHOの組み合わせは「キーパーソンが偶然気がついた」ことになっているが――

 作者が偶然で話を作るわけがあるか!

 と、5月からの元号が「令和」だとわかった今日、千葉の春に叫ぶわたしなのである。

 この作品は「朝刊暮死」というふざけたタイトルで出版されている。思ったようには売れなかったのは、タイトルのせいですよね? Hデスク(このタイトルで売れなかったらタイトルのせいにしていい、という確約をいただいての出版であった)。
 わたしの中では本作のタイトルは「活字降る都」である。ご興味のある方は、図書館かどこかで探してご一読くだされば。

 さて、これで一ヶ月後には、日本もあたらしい元号の時代になるわけだ。
 わたしも、昭和、平成、令和、と三つの元号をまたいで生きていくことになった。
 昭和生まれとしては「明治、大正、昭和を生きてきた人」と聞くと、それはそれは人生の酸も甘いも知り尽くしている、重厚な渋みのある方を連想したものだが、自分が三元号を通して生きてみると、どうにも軽薄短小な感じである。

「令和」という元号にまだ馴染みはないが、この元号の時代しか知らない世代に、日本はよい国だ、と思ってもらえる未来がくることを祈るばかりである。
posted by 結城恭介 at 11:50| 日記