2019年04月06日

【日記】日本人は幸福感を感じないと平和ボケなのか

 ある声優さんがツイッターで「日本に生まれて幸せではないと答えた人が多いのならば、その人たちには人権の最低保障のない国に生まれたら良かったのにと言いたくなる。平和ボケし過ぎると、今の生活に感謝もできなくなるのか」といった内容のつぶやきをして、炎上してしまったという。

 わたしはツイッターはやっていない(匿名アカでプレゼント応募に使っている程度)し、短文派ではないので、誤解を生みやすいツイッターでのやりとりは好まない。また、発言そのものをここに一字一句転記するのもよろしくないと思うので、上記の発言の正確なところは、検索などしてぜひとも原文をお読みいただきたい。
 ここでは、ツイッター上で炎上した上記の発言とは一線を画して、一般的な話として、幸福とはなにか、平和ボケとはなにかを考えてみたい。

 さて、この発言のもとになったのは、おそらく、2018年の「国連世界幸福度調査」で、日本が54位にしかなれなかったことを指して言っているのだと思う。ベストスリーはフィンランド、ノルウェー、デンマーク。アメリカは18位。ラストの156位はブルンジであるという。

 わたしはこのランキングを見て、まあ妥当な方だなと感じた。日本に生まれるというのは、決して幸福なことではない。
 以前にも書いたが、この日本でクリスチャンであるということは、同時に、自分がどうしようもなく日本人だということをつきつけられ意識しながら生活するということでもあるのだ。日本人の貧しさや生きにくさ、人生そのものの辛さは、そのままでは、とても幸福に過ごせる環境とは言いがたい。

 ツイッター主のつぶやきを一読して思ったのは、この発言者は「幸せな方なのだな」ということである。実際、炎上中のつぶやきでも「(わたしは日本という環境にいて)幸せで感謝です」といった意味のことを言っている。
 そして――これが大事なのだが――幸せな人というのは、不幸な人が見ている世界を捉えられなくなることが往々にしてあるということなのである。

 イエスの山上の垂訓では、有名な真福八端という教えがある。ここでは日本聖書協会の文語訳で紹介しよう。

 幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
 幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。
 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
 幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。
 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
 幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。
 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
(マタイ傳福音書5:3-11)


 この教えのいくつかで、イエスはむしろ、人権を奪われ、貧しく、不公平に憤る人々こそ幸せだと言っている。「幸いなるかな、平和な国に住む者」などとは、決して言っていないのである。

 ちなみに、聖書における「平和」は旧約ヘブライ語では「シャローム」という。これは単に、戦争や争い、憎しみあいのない状態を表すのではなく、神のもとに完成された、完全に安らかな世界を指して言う言葉なのである。

「平和だから幸福」という幸福観は、実は「お金があるから幸福」という幸福観とまったく変わりがない、ということに留意してほしい。

 前記ツイッターの発言者の方は(まだお若いからわからないのかもしれないが)、幸福感≠ニ平和≠ヘ、本来、因果関係がないものだということをご理解していないのだろうと思う。平和ボケならぬ、幸福ボケに陥っていらっしゃるのだ。
(発言者を擁護するならば、日本人は確かに平和ボケはしていると思う。しかし決して幸福ボケはしていない)

 貧しくとも幸福な人々がおり、大富豪でも不幸な思いに苛まれて自殺をする。同様に、戦争で日々命を落とす危険がある人々にも幸福はあり、平和なこの日本にも、不幸な人々はたくさんいるのである。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より引用)


 カムパネルラのわからなかった「ほんとうのさいわい」とはなんなのだろうか?

 少なくとも、七五三を神社で祝い、結婚式はなんちゃって教会≠ナ挙げ、死ぬと高い金で戒名を買って仏教で葬式をあげる。そんないいかげんな生き方を豊かな宗教観≠セと思っている人々に、「ほんとうのさいわい」がないことだけは確かである。

 繰り返して書くが、「幸せな人というのは、不幸な人が見ている世界を捉えられなくなることが往々にしてある」。そしてその幸せな人≠ェ不幸な人≠ヨ向けて発する言葉は、ときに――本人が想像している以上に――暴力的だ。

 最後に、トルストイ「アンナ・カレーニナ」の冒頭文を引用する。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」
 この想像力を忘れたとき、その人は幸福ボケ≠ノなるのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記