2019年05月01日

【日記】令和元年、千葉の春。

 というわけで、令和元年、おめでとうございます。

 以前にも書いたが、昭和から平成への改元は、昭和天皇陛下のご崩御が前提であったので、とてもめでたいムードにはならなかった。
 それはおそらく、大正、昭和への改元を知っている世代も同じだったろう。
 つまりわたしたちは、生きている日本人としては、初めて「めでたい改元」を体験しているのである。老若男女区別なく、この感覚を共有できることを感謝したい。

 めでたいめでたいで筆を置きたいのだが、それだけではなんなので、ちょっと元号不要論についてひとくさり。

 わたしはクリスチャンなので、カレンダーは日曜始まりでないと使えないし、もっぱら西暦を用いて生活している。
 それでも、日本人には元号が必要だと思っている。この思いは、むしろ洗礼を受け、キリスト者として教会生活を送るほどに強くなってきた。
 七曜を受け入れるだけでも、日本人はキリスト文化国に屈しているというのに、祝日を月曜日に移動する「ハッピーマンデー法」さえ生まれてしまった。わたしはこれを、日本人のアイデンティティをないがしろにした悪法だと思っているくらいなのだ。

 このブログでは「カットリク!」というカテゴリで、日本に蔓延している、「誤ったカトリック文化」を指摘し続けているが、それらの多くが、キリスト教文化への歪んだ憧れ≠ェ原因になっていると感じている。
 ここで「キリスト教文化へ憧れなんか持つかよ」と思った非クリスチャンのあなたは正しい。きっと、日本人には元号が必要な理由を、わたしより肌で感じているはずだ。

「【書評】キリスト教は「宗教ではない」」の記事で、「普遍宗教はカルチャーとしてしか表現できない」という竹下節子先生の指摘を紹介した。
 つまるところ、元号は日本の誇るすばらしい文化なのである。それをなくして西暦に統一しよう、というのは、利便性ばかりを追い求めて、日本人のこころ≠キリスト教文化へ売るということに他ならない。

 わたしは左翼ではなく、もちろん右翼でもない。一人の「わたしたちの本国は天に」ある(フィリピ3:20)クリスチャンだが、同時にどうしようもなく日本人なので、日本人の誇る文化をないがしろにすることはできない。

 むしろ、日本人でありながらクリスチャンとして自覚のある者ほど、元号不要論にはなびかないのではないだろうか。わたしが「カットリク!」を書いているのと同じ理由で。
 表面だけ西暦に統一してもらっても、うれしくともなんともないのである。西暦の持つ重み、キリスト教文化への正しい理解が伴っていなければむしろ迷惑、と筆を滑らしてしまったら書き過ぎだろうか。

 さて、「令和」という新元号。本当にすばらしいと思う。わたしは「平成」よりも気に入った。音の響きも、そこから感じる雰囲気も、清潔で力強く、真摯で澄んでいる。平成を隔てただけで、昭和の和≠再び使うとは意外だったが、今は「令和」以外考えられなくなっている。

 この「令和」が何年続くのかはわからないし、次の改元も今回と同じようにめでたい状況になるかどうかはわからない。
 ともあれ、今は、この、どこか世界が新しくなるようなめでたい気分を満喫したいと思う。

 令和元年5月1日、日本の地方都市の片隅にて。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記