2019年06月29日

【日記】ベルトケース

 ケータイやPHSが出始めの頃だったから、もう四半世紀も前の話になるだろう。
 わたしはROM専だったが、NIFTY-ServeのケータイやPHSを扱うフォーラムの会議室で、オジさんたちが「駅でアステルのアンテナを発見」、「電柱にNTTパーソナルのアンテナ発見」、「DDIポケットのアンテナは大きくて安定してそう」、などとキャッキャとはしゃいでいると、まだ20代そこそこという若い人が、突然、こんな質問をしてきたのである。

「オジさんたちに質問です。ここの会議室のみなさんもそうみたいですが、世のオジさんたちは、ケータイやPHSをベルトケースに入れてぶらさげていて、カッコ悪いと思わないのですか? ダサくて、ぼくにはとうてい真似できません」

 会議室のオジさんたちは虚をつかれた気がしたようだが(好きなんだよこの表現w)、そこは紳士と淑女の社交場NIFTY-Serve、誰も喧嘩腰になることもなく、ガハハと笑って、「キミもオジさんになればわかるよ」、「オジさんたちから見ると、キミたちの腰パンの方がみっともなく思えるんだけどなぁ」と混ぜっ返し、若者も「そんなもんなんですかね?」とレスを返して、一連のツリー(レスの応酬のこと)は終わったのであった。

 特にいさかいもなく、ネットウォッチャー(は当時もたくさんいた)的に面白い出来事ではなかったのだが、わたしはこのスレが妙に心に残って、今もこうして書いているのである。おそらく当事者ももう、覚えていないのではないだろうか。

 心に残っている原因は、当時オジさんの年齢に差し掛かったばかりのわたしも、ベルトケースにケータイやPHSを入れてぶらさげていたからである。そうか、こういうのはイマ風の男の子にはカッコ悪いのだな、と、気恥ずかしさ半分、若さへの嫉妬半分で強く印象づけられたのだ。

 あれから25年が経って、当時の「若者」も、もう十分オジさんになったことだろう。
 そして真性のオジさんとなったわたしはと言えば――もうベルトケースは使っていないのだった。

 その心はと言えば、やはりなんといっても、今の端末がスマートフォンになってしまったことが大きい。スマホ用のベルトケースも売っているが、腰回りにつけると、ひょんなことからスマホ本体を折り曲げてしまいそうな気がして怖いというのもある。
 いや、実を言えば、これほどまでスマホが大型化する前、まだ筐体がコンパクトだった数世代前は、ベルトケースを使っていたのだ。それがスマホ買い換えに伴う筐体の大型化にともなって、ベルトケースも大型化し、まるで拳銃のホルスターか? という風体になって、さすがにこれは、オジさんのわたしでもカッコ悪いなぁ、と、敬遠するようになってしまったのである。

 行き場のなくなったスマホはどこに入れているかというと、冬場はジャケットの内ポケット、夏場はワイシャツの胸ポケットに入れている。
 今これは、けっこう大きめな総合病院のロビーで書いているのだが、あたりを見回して、男性がどこにスマホを収納しているかしばらく観察してみると、やはりワイシャツのポケット組、スラックスのポケット組、手持ち組、首からぶらさげ組と多種多様だが、ベルトケース使用者は皆無であった。

 過去のベルトケース愛用者としては、二十五年の時を経て、ケータイがスマホになり、オジさんさえも使わなくなり、ひそかにベルトケースが活躍の終焉を迎えているのだなぁ、と感慨深い。
 同時に、若者の「腰パンブーム」も過去の物になったようで、これもめでたい。あれは短足を隠すためにやっていた、という話を聞いたことがあるが、やはりどう見てもみっともなかった。

 ベルトケースから解放されてみると、腰回りが軽くなって、存外良いものだ。両腕を振って歩いていても引っかかる物がないというのもいい。
 ただ、本当にスマホの携帯の仕方には難儀している。胸ポケットに入れると重さでシャツがよれてあまり見栄えはよくないし、楽しいことがあってスキップなどすると(すんなよ)飛んで落ちていきそうだ。

 夏場、胸ポケットのないTシャツ一枚で近所に出かけるときなどは、しかたなくスラックスのポケットに入れるか、手持ちで行くことにしている。どちらもなにか、収まりが悪くて心許ない。
 どうもスマホというやつは、カッコよく携帯するということができない代物なのだと感じているのは、わたしだけなのだろうか。

 服にポケットのすくない諸嬢はどこにスマホをしまっていらっしゃるのだろう。女性は手ぶらで外出ということはまずしないから、バッグの中なのだろうか? ちなみに細君は、ポシェットの中か、手持ちで歩いている。

 その昔、香港でPHSが出た頃(日本よりも早く、筐体もコードレスホンのように大きかった)、香港の女性たちは左手にそのPHSをそのまま持って出歩くのがファッションなのだ、という記事を読んだことがある。四半世紀以上が経って、日本のファッションも香港に追いついたということか。

 前述の、ベルトケースを「ダサい」と言った若者も、もう十分オジさんの歳になっているはずである。今、彼がどうやってスマホを携帯しているのかな、と想像するのも面白い。わたしの想像もできない「カッコいい」携帯の仕方をしているのかもしれない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年06月26日

【日記】胃カメラふたたび

 と書いてはいるが、この日記に再度登場というだけで、内視鏡検査は定期的に受けている。

 前回は「【日記】機械触手に犯された姫の宴のあと」というタイトルで、触手マニアの気持ちになってみれば胃カメラもつらくないのでは、というコンセプトで攻めてみたのだが、今回はストレートに「大丈夫、全身の力を抜いて、先生の言うとおりにしてごらん」といういささか受けチックな気持ちで挑んでみた。

 わたしの通っている病院の胃腸科は、キシロカインゼリーで喉の麻酔をするだけである。もちろん胃の消泡剤は服用し、蠕動をゆるめるための注射はするが、患者よりの苦痛を少なくする鎮静剤や睡眠薬は使ってくれない。けっこう男らしいプロシジャだ。

 よく「わたしは胃カメラ、全身麻酔でやってもらったから楽だったよ」という人がいるが、それは意識下鎮静法という、鎮静剤や鎮痛剤を静脈注射する方法で、全麻ではない。全麻だったら自力呼吸も止まるので口から人工呼吸器を気管挿入して人工呼吸をする。カメラの入る余地がないじゃん。

 喉の麻酔が効いてきたところで、いつも通り、身体の左側を下にしてベッドで横になり、先生登場。おっ、女医さんひとりだ。ここでちょっとホッとする自分。というのも経験則的に女医さんは、手先が器用なせいか検査が楽なのだ。
 ここで先生が二名出てきたりすると、これはダメコースかと緊張してしまう。研修医とオーベンの組みあわせで、研修医の実験台に使われることを覚悟しなければならない。
 さて、マウスピースをつけてカメラを挿管。喉の奥をとおるあたりが一番つらいわけだが、おおっ、これは……。

「大あたりの先生だ!」

 何回か内視鏡検査を受けていると、ここで「あたり」か「はずれ」の先生かわかる。そう、内視鏡検査は先生との相性がとてもある。いや、相性というか、先生の腕前ひとつで受ける苦痛がかなり違うのである。
 今回は大あたりの先生で、胃の中でカメラを動き回されたり、空気を入れたり、水を出されても、全然つらくない。
 先生の腕前次第はあるが、やはりお互い、呼吸があうというのもあるとは思う。先生の方も「おっ、この患者はあたりだ」と思っていたかもしれない。
 無事、カメラを抜いて、いつもなら大量に吐くよだれも、今回はティッシュ二、三枚で済んでしまった。
 さて、診断結果だが、軽い慢性胃炎は仕方ないが、食道、十二指腸ともきれいなもの、とのこと。服薬を継続で、定期的な内視鏡検査を受けましょう、となった。

 腕の悪い、というか、相性の悪い先生に検査してもらうと、内視鏡検査のあと、数日、食道と胃の境目(噴門)が痛かったりするのだが、今回はそんなこともなく、麻酔が切れた数時間後に、スタバでレモンヨーグルト発酵フラペチーノを飲みながらこれを書いている。
 こんな楽な検査なら、一年に一度と言わず、毎月受けても大丈夫なくらいだ。

 特に記事にしようとは思っていなかったスケジュールだったのだが、今回の先生のあまりのうまさに感激して、一筆残しておきたいと記事にしてしまった。
 もちろん、わたし自身が胃カメラになれてきているというのもあるのだろうけれども。

 と、思ってナメてかかると、翌年はとてもつらかったりするのだけれどね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年06月22日

【日記】おや!? 右肩のようすが……!

 おめでとう! 右肩は五十肩にしんかした!

 って、めでたくねーよ!

 どうも。「名探偵ピカチュウ」を細君と一緒に観たものの、ポケモンをまったくやったことがなかったので世界観に入り込めず、なにがなにやらだった結城です。ポケモンをやっていた細君は楽しかったようで何より。でもシワシワピカチュウはかわヨ。

 そんなことより! そう、なってしまったのだ、右肩が。アレに。五十肩に!!

 このブログを長くお読みの方ならば、おや? と思われたかもしれない。また五十肩の話? と。そう、でもあれは左肩の話。

 というわけで、振り返ってみれば、左肩が五十肩で痛むという話を書いたのが2017年から2018年にかけての秋冬あたり。それが2018年末には「気がついたら痛みがなくなっていた」と記してある。

 ここ半年くらいは、両肩の痛みもなく、日課となったジム通いも淡々とこなし、健康的な生活を送ってきていたはずだったのだ。

 それが最近、右肩がどうも妙なのである。ドラえもんでのび太くんが両腕を上げ枕にしてよく寝ているが、それが右肩が痛くてできない。
 いったんそれをやると、痛くて腕を戻せないものだから、左腕で介助して姿勢を変えてやらなければいけなくなってしまった。

 時間合わせで入ったファミレスで、睡魔に襲われ、ちょっとだけウトウトしようと両腕を枕にしてつっぷしてみると、右腕がギシギシッと痛んで耐えられない。

 これは――やっぱり来てしまったのか、五十肩が。右肩にも。

 左肩が五十肩になったとき、教会で先輩方から「五十肩はね、何度もなりますよ」、「両肩なりますよ」と聞いてはいたが、左肩が治って一年もせずに、今度は右肩の方まで患ってしまうとは……。

 ただ、左肩のときとは違って、右肩はだいぶ痛みが少ない、というか、痛みを感じるアクションが限られている様子である。そのかわり、右肩全体がいつも凝っているような重さがある。
 背中に手が回せないのは左肩のときと同じ。やはり孫の手の登場だ。

 気づいてから一カ月は経っているが、症状が重くなる雰囲気はない。左肩のときのように、痛みで眠れなかったり、痛み止めを飲むところまでもいかない。
 左肩のときは、それは大騒ぎをして、病院通いはもちろん、サポーターを買ってみたり、枕を変えてみたりしたのだが、どうやら、右肩の方は、軽い症状ですみそうな感じである。今回は、痛み止めをもらいに医者通いをせずとも大丈夫そうだ。

 わたしは右利きである。利き腕だから症状が軽いのかどうかはわからない。
 ちなみに左肩の方はもうぜんぜん平気。上に上げても振り回しても枕にしても痛みもない。

 左、右ときて、また左肩が痛み出さないことを神様に祈るばかりだが、どうも五十肩というものは、必ず治ると信じて、長い目でみた方が良さそうだ。

 てなところで、右肩でも五十肩、ゲットだぜ!(うれしくないって)。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記

2019年06月19日

【書評】科学者はなぜ神を信じるのか

 三田一郎「科学者はなぜ神を信じるのか――コペルニクスからホーキングまで」。

 わたしは、モーセが海を割り、マリアが処女懐妊し、イエスが湖を歩き、磔刑死ののち復活するということを教えるカトリック信徒で、同時に科学をも信じている。本書の逆説ではないが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」ということの矛盾のない答えを、この記事の最後に記したい。



 本書の著者の三田一郎先生は、素粒子論を専門とする理論物理学者であり、同時にカトリック名古屋司教区終身助祭、カトリック東京大司教区の協力助祭でもある。

 大まかに言って(例外はありまくりだが)、カトリック聖職者の出世スゴロクは――

1)修道者あるいは神学生
2)終身助祭(この場合、ここであがり)
3)助祭
4)助任司祭(ここから「神父」となる)
5)主任司祭
6)司教顧問(これはどうかな……)
7)補佐司教(が、司教にあがるかどうかはわからない)
8)司教・大司教
9)名誉司教(事実上の現場引退)
10)枢機卿(バチカンとのパイプ)

 と、まあこんな階段だ。司教は大司教区担当なら呼称「大司教」となるが、大司教と司教のヒエラルキー的な差はない。単に教区の大きさの問題である。
 三田先生の「終身助祭」というのは、「神父になれないことを前提に、一生、助祭を務める」という聖職者である。
 これはぶっちゃけた話、司祭(神父)の人手不足を補うために、妻帯していても聖職者になれる制度を作っちゃおう、という便宜から設定されたものだ。とはいえ、数ヵ国語を話せ、人格も素晴らしく、神学も修めた敬虔なカトリックであり、なおかつ、助祭以外でも収入源がなければなれないという、かなり狭き門だとは聞いている。

「科学者はなぜ神を信じるのか」――これで連想することと言えば、宇宙飛行士は、宇宙で青い地球を見たその後、神の存在を信じるようになる例が少なくないということだ。例えば、アポロ15号のジム・アーウィン。ジェミニ9号、アポロ10号、17号のジーン・サーナン。アポロ16号のチャーリー・デューク、エトセトラ、エトセトラ。
 彼らが信じるようになった「神」の多くは、「アブラハムの神」に限定されず、「創造主はいる」という感覚なのだそうだ。
 わたしは興味を持ってこのことをなるべく調べるようにしているのだが、日本人宇宙飛行士でこういった感覚を持った人は、いまだいないように記憶している(あったら教えてplz)。このあたり、日本人はやはり、どこか特殊なのだなぁ、と思ったりする。

 さて、本書「科学者はなぜ神を信じるのか」。
 コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ディラック、ホーキングといった、物理学史に名を残すそうそうたる科学者たちを例に挙げ、彼らの提唱した地動説、ニュートン物理学、相対性理論、量子論、ビッグバン説を、章ごとに述べていく。
 三田先生の記述は、彼らと「神」との関わりはもちろん記されているが、やはり先生ご自身が科学者で、ブルーバックスの一書というカテゴリ制限もあり、むしろ本書は「わかりやすい物理学史――古典から現代まで――」といった趣だ。

「神」との関わりについては、少なくともニュートン物理学史までの(キリスト教文化圏下の)科学者たちは、同時に敬虔なキリスト教徒であったということを強調し、近代物理学においては、前記、宇宙飛行士の例で書いたように、「アブラハムの神」からは離れ、「創造主」の存在を信じるか否か、という話になっていく。

 本書の冒頭に、三田先生の講義のとき、高校生から「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問された、という例が記されている。
 本書はそれに答える姿勢で、実に丁寧に古典物理学から近代・現代量子論までを説明し、それらを唱えた科学者と、彼らが信じる、あるいは信じない「神」との関わりを説明していくわけだが、読後の正直な印象として、これでは前述の高校生は納得してくれないのではないかなぁ、という感想を持った。
 三田先生は――

不思議な現象に出会ったときに最初から「神様がお作りになったのだ」と言う人は、絶対に科学者ではありません。それこそ、「科学者のくせに神を持ち出す卑怯な態度」であると思います。


 という結論でまとめていらっしゃるが、それは古典物理の頃から自明のことであったと思うのだ。前記の質問をした高校生も、それはわかっていたように思う(逆に、そう思っていなかったとしたら、高校生としては幼すぎる)。

 よく言われるひとつの例として、「この宇宙は、腕時計をばらばらに分解してすべての部品を真上に投げ上げ、落ちてきたとき、もとの腕時計に戻っているくらいの確率でできた」と言う。ようするに稀に稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然なのだ。

 科学者でも理系の人でもない詩人、アナトール・フランスは、まさしく人文的な勘で、次のように書いている。

「人生においては、偶然を考慮にいれなければならない。偶然とは、畢竟、神のことである」(エピクロスの園)


 わたしはこの宇宙が、稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然でできたと思っている。つまりそれこそが、神の御業なのだと。
 しかし、偶然を神の業と「信じない」人々にとっては、科学が宗教と矛盾なく共存することは、永遠に不可能なのかもしれない。

 というわけで、あまりまとまりのない感想になってしまったが、本書は科学者よりクリスチャン向けの本として、それも、聖書に誤謬は一切ないという諸派の人々に読んでほしいなぁ、と思う。

 ひとつ、三田先生も前述の高校生も、また多くの人々も見逃している、あることを指摘しておきたい。

 ガリレオは望遠鏡を作って、地動説を発見した。
 同じように、太古のイスラエル民族は、「罪」を発明して、「神」を発見したのである。

「神」は発明品ではない。物理法則と同じように、宇宙の始まりとともにあったのである。それをイスラエル民族は「アブラハムの神」として観測したのだ。つまり彼らにとって「神」は「科学」だったのである。

 近代・現代に住むわれわれは、古典物理学と教会の対立を「科学対宗教」というありがちなストーリーにはめ込むが、当時の人々にとって、これは「科学対科学」という、シンプルな科学論争だったのだ。

 それは近代・現代においても変わらない。相対性理論が証明されても、マクロにおいては古典物理学が通用するように、さらにマクロの領域においては、古代科学である「神」理論もやはり通用するのである。

「神」が科学であるなら、「科学者はなぜ神を信じるのか」という問いに答えるのは簡単である。「神」が科学であるからである。

 これが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」という答えである。

 ところで、本題とは関係ないところで大ウケした一文を引用。

 ジェームズ・マクスウェル(1831〜1879:図5-4)は、ファラデーとは対照的な背景を持つ科学者でした。スコットランドのジェントルマン(イギリスでは資産家や貴族の家に生まれて働く必要がなく、好きなことをして暮らせる人のことを「ジェントルマン」と呼びます)にして、最高の教育を受け、特に数学においては超一流の素養の持ち主でした。


 マクスウェル、今ならニートじゃん(笑)。世のジェントルマン諸君、世界を変えるのは君たちかもしれないぞ!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評

2019年06月15日

【昭和の遺伝子】マッチと煙草

 マッチで火をつけた煙草はうまかった。

 喫煙したことがない方は知らないことかもしれないが、煙草というのは最初の一服が一番うまい。そして、火をつけた道具によって味が違うのである。

 火に味なんてあるのかよ、と思われるかもしれない。しかし、確かに味の違いはあった。100円ライターでつけた煙草は微妙にガス臭い。オイルライターはオイルの臭いが鼻につく。そしてマッチでつけた煙草は、枯れ木を燃やしたような、切ないうまさがあった。このあたりは、好みでわかれるとは思う。
 わたしは好んでマッチで火をつけ、煙草を喫んでいた。

 昭和の時代の煙草喫みにとって、マッチはわざわざ店で買うものではなかった。なんとなれば、たいていの喫茶店や食事どころが、自分の店名を入れた広告マッチをお客さんにサービスしていたからである。
 各店、いろいろなデザインをほどこしたマッチを用意していて、それを集める楽しみもあった。とはいえわたしは、なんとなく裸のままだとやぼったく思え、汎用サイズの金属でできた黒いマッチケースにマッチ箱を入れて使っていた。
 ちなみに、マッチ箱の大きさはISO規格で決まっているのである。

 マッチで煙草に火をつけるのは、やはり冬が似合う。コートの襟をたてて、寒風に背を向けて、シュッと一本。火のついたそれを両手でかばいながら、口にした煙草に近づけ吸い込むと、肺になんともいえない安堵感が充満する。
 マッチはパッと振って火を消し、吸い殻ケースの中へ。これも当時、専売公社が「マナーも携帯」という宣伝文句とともに、金属バネの閉じ口がついた吸い殻ケースを配っていたのである。

 店の宣伝マッチで助かったこともある。喫茶店に忘れ物をしてしまい、もらっていたマッチに印刷してあった電話番号へ、公衆電話から問い合わせ。すぐに確認がとれて、取りおきしてもらった。
 今ならスマホで一発検索、すぐに連絡がつくだろうが、当時は店舗の電話番号は公衆電話備え付けのタウンページでもすぐにみつかるかどうかはわからなかった。ましてや、ふらりと入った店名も覚えていない喫茶店が相手では。

 昭和の時代には、煙草を吸わない編集者など少なかったので、名刺がわりにマッチをつくって、それを配ろうかなぁ、などと思ったこともあった。結局、スタンダードな名刺整理ファイルに入らないという理由でやめたのだが。

 この「お店のマッチ」も、だんだんと経費削減の波を受けて、簡単な「ブックマッチ」へと変わっていく。
 ブックマッチの軸は厚紙製で、わたしはいまいち好きではなかった。マッチで煙草に火をつけるという一連の儀式が、どこかさもしいものになった気がしたからだ。

 煙草というのは趣味だから、ただ喫煙できれば良いというわけではない。その人その人の美学≠ェあるのである。いや、あってしかるべきなのだが、長く煙草を吸っていると、結局、100円ライターでいつものマイルドセブンに火をつけ、ただプカプカふかす習慣になってしまうのだ。こうなったら「ヤニ中」と揶揄されても仕方ない。

 煙草をやめてもうずいぶんになる。愛煙家が禁煙に成功すると、今度は熱烈な嫌煙家になるという傾向があるようだが、わたしはまあ、喫煙者に優しい方だと思う。

 今、これを書きながら、エア煙草にエアマッチで火をつける真似をして、一服、吸い込んでみた。肺にまで吸い込み、長く吐き出して、エア灰皿へエア煙草をポンポン。妙に気分が落ち着く気がする。

 こと、煙草に関しては、いい時代に生まれたのかもしれないな、と、思う。煙草がまだ悪役でなかった昭和を経験することができたから。あのうまさをまったく知らないで育った平成、これからの令和の人々は、その点、少し可哀想な気がしないでもない。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子