2019年06月19日

【書評】科学者はなぜ神を信じるのか

 三田一郎「科学者はなぜ神を信じるのか――コペルニクスからホーキングまで」。

 わたしは、モーセが海を割り、マリアが処女懐妊し、イエスが湖を歩き、磔刑死ののち復活するということを教えるカトリック信徒で、同時に科学をも信じている。本書の逆説ではないが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」ということの矛盾のない答えを、この記事の最後に記したい。



 本書の著者の三田一郎先生は、素粒子論を専門とする理論物理学者であり、同時にカトリック名古屋司教区終身助祭、カトリック東京大司教区の協力助祭でもある。

 大まかに言って(例外はありまくりだが)、カトリック聖職者の出世スゴロクは――

1)修道者あるいは神学生
2)終身助祭(この場合、ここであがり)
3)助祭
4)助任司祭(ここから「神父」となる)
5)主任司祭
6)司教顧問(これはどうかな……)
7)補佐司教(が、司教にあがるかどうかはわからない)
8)司教・大司教
9)名誉司教(事実上の現場引退)
10)枢機卿(バチカンとのパイプ)

 と、まあこんな階段だ。司教は大司教区担当なら呼称「大司教」となるが、大司教と司教のヒエラルキー的な差はない。単に教区の大きさの問題である。
 三田先生の「終身助祭」というのは、「神父になれないことを前提に、一生、助祭を務める」という聖職者である。
 これはぶっちゃけた話、司祭(神父)の人手不足を補うために、妻帯していても聖職者になれる制度を作っちゃおう、という便宜から設定されたものだ。とはいえ、数ヵ国語を話せ、人格も素晴らしく、神学も修めた敬虔なカトリックであり、なおかつ、助祭以外でも収入源がなければなれないという、かなり狭き門だとは聞いている。

「科学者はなぜ神を信じるのか」――これで連想することと言えば、宇宙飛行士は、宇宙で青い地球を見たその後、神の存在を信じるようになる例が少なくないということだ。例えば、アポロ15号のジム・アーウィン。ジェミニ9号、アポロ10号、17号のジーン・サーナン。アポロ16号のチャーリー・デューク、エトセトラ、エトセトラ。
 彼らが信じるようになった「神」の多くは、「アブラハムの神」に限定されず、「創造主はいる」という感覚なのだそうだ。
 わたしは興味を持ってこのことをなるべく調べるようにしているのだが、日本人宇宙飛行士でこういった感覚を持った人は、いまだいないように記憶している(あったら教えてplz)。このあたり、日本人はやはり、どこか特殊なのだなぁ、と思ったりする。

 さて、本書「科学者はなぜ神を信じるのか」。
 コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ディラック、ホーキングといった、物理学史に名を残すそうそうたる科学者たちを例に挙げ、彼らの提唱した地動説、ニュートン物理学、相対性理論、量子論、ビッグバン説を、章ごとに述べていく。
 三田先生の記述は、彼らと「神」との関わりはもちろん記されているが、やはり先生ご自身が科学者で、ブルーバックスの一書というカテゴリ制限もあり、むしろ本書は「わかりやすい物理学史――古典から現代まで――」といった趣だ。

「神」との関わりについては、少なくともニュートン物理学史までの(キリスト教文化圏下の)科学者たちは、同時に敬虔なキリスト教徒であったということを強調し、近代物理学においては、前記、宇宙飛行士の例で書いたように、「アブラハムの神」からは離れ、「創造主」の存在を信じるか否か、という話になっていく。

 本書の冒頭に、三田先生の講義のとき、高校生から「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問された、という例が記されている。
 本書はそれに答える姿勢で、実に丁寧に古典物理学から近代・現代量子論までを説明し、それらを唱えた科学者と、彼らが信じる、あるいは信じない「神」との関わりを説明していくわけだが、読後の正直な印象として、これでは前述の高校生は納得してくれないのではないかなぁ、という感想を持った。
 三田先生は――

不思議な現象に出会ったときに最初から「神様がお作りになったのだ」と言う人は、絶対に科学者ではありません。それこそ、「科学者のくせに神を持ち出す卑怯な態度」であると思います。


 という結論でまとめていらっしゃるが、それは古典物理の頃から自明のことであったと思うのだ。前記の質問をした高校生も、それはわかっていたように思う(逆に、そう思っていなかったとしたら、高校生としては幼すぎる)。

 よく言われるひとつの例として、「この宇宙は、腕時計をばらばらに分解してすべての部品を真上に投げ上げ、落ちてきたとき、もとの腕時計に戻っているくらいの確率でできた」と言う。ようするに稀に稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然なのだ。

 科学者でも理系の人でもない詩人、アナトール・フランスは、まさしく人文的な勘で、次のように書いている。

「人生においては、偶然を考慮にいれなければならない。偶然とは、畢竟、神のことである」(エピクロスの園)


 わたしはこの宇宙が、稀に稀に稀に稀に稀に……の偶然でできたと思っている。つまりそれこそが、神の御業なのだと。
 しかし、偶然を神の業と「信じない」人々にとっては、科学が宗教と矛盾なく共存することは、永遠に不可能なのかもしれない。

 というわけで、あまりまとまりのない感想になってしまったが、本書は科学者よりクリスチャン向けの本として、それも、聖書に誤謬は一切ないという諸派の人々に読んでほしいなぁ、と思う。

 ひとつ、三田先生も前述の高校生も、また多くの人々も見逃している、あることを指摘しておきたい。

 ガリレオは望遠鏡を作って、地動説を発見した。
 同じように、太古のイスラエル民族は、「罪」を発明して、「神」を発見したのである。

「神」は発明品ではない。物理法則と同じように、宇宙の始まりとともにあったのである。それをイスラエル民族は「アブラハムの神」として観測したのだ。つまり彼らにとって「神」は「科学」だったのである。

 近代・現代に住むわれわれは、古典物理学と教会の対立を「科学対宗教」というありがちなストーリーにはめ込むが、当時の人々にとって、これは「科学対科学」という、シンプルな科学論争だったのだ。

 それは近代・現代においても変わらない。相対性理論が証明されても、マクロにおいては古典物理学が通用するように、さらにマクロの領域においては、古代科学である「神」理論もやはり通用するのである。

「神」が科学であるなら、「科学者はなぜ神を信じるのか」という問いに答えるのは簡単である。「神」が科学であるからである。

 これが、「カトリックであるわたしはなぜ科学を信じるのか」という答えである。

 ところで、本題とは関係ないところで大ウケした一文を引用。

 ジェームズ・マクスウェル(1831〜1879:図5-4)は、ファラデーとは対照的な背景を持つ科学者でした。スコットランドのジェントルマン(イギリスでは資産家や貴族の家に生まれて働く必要がなく、好きなことをして暮らせる人のことを「ジェントルマン」と呼びます)にして、最高の教育を受け、特に数学においては超一流の素養の持ち主でした。


 マクスウェル、今ならニートじゃん(笑)。世のジェントルマン諸君、世界を変えるのは君たちかもしれないぞ!
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評