2019年11月09日

【日記】教えるということ

 文化の日を挟んだ三連休に、ルービックキューブの日本大会が開かれていたとのことで、ツイッターで、運営の大変さの声や、参加者の楽しそうなつぶやき、いろいろな情報を読み、皆さんの努力や技、キューブにかける情熱に感心している。
 まあ、わたしのような超々初心者には無縁な場所だが、近くで開かれるのなら是非とも見学してみたい。百聞は一見にしかず、上手い人の指遣いを生で見られたら、またなにか、新しいものが得られるだろうと思うから。

 さて、そのTLの中で、ちょっと面白いつぶやきがあった。

 上級者「キューブわからない」
 中級者「キューブわからない」
 初心者「キューブを速く回すコツ教えます」


 こんな感じだったかな? 「いいね」がそこそこついていたと記憶している。
 しかしこれ、ちょっと謙遜、あるいは驕り過ぎだ。正確にはこうだろう。

 上級者「キューブわからない」
 中級者「キューブを速く回すコツ教えます」
 初心者「キューブわからない」


 まあこれだと、三段オチにならないので「いいね」はつかないだろうが、実際、どんなことでも、上記のような現象は自然発生するのである。

 たとえばピアノの世界を考えてもらえばわかりやすい。ピアノの先生はもちろんピアノが上手い。上手いが「世界的な芸術家」ではない。
 これはピアノの先生を揶揄しているのではない。逆に「世界的な芸術家」ではなくとも「ピアノを教える人としては一流」という人はいらっしゃる。そして、そういう方が教えた人の中から「世界的な芸術家」が登場してきたりする。

 もっとわかりやすいのはスポーツの世界。名コーチがすべて、現役時代に名選手だったわけではない。現役時代は中堅選手だった人が多いのではないかと思う。むしろ、一流選手が現役を引退して、監督やコーチになってみると、教え下手で、将来ある選手が潰されてしまったりするものだ。

 つまり、その事象の上級者が、必ずしも「それを教えること」の上級者ではない、ということ。これは三段オチの笑い話にしていいことではない。

 中級者の中に「教えたがり」がいるのは、「人に教えることで、自分もまた学んでいく」ことを知っている人がいるからである。
 初心者が「わからない」のは、事象を体系的にまだ把握していないからだ。中級者はそれを掴みかけているので、人に教えることで、自分の中で整理されて、自分の腕に磨きをかけることができる。これはとても良いことなのだ。

 上級者が「わからない」のは、人に教えることができないサムシングを体得し追求中だからである。教える術がないものを得た人が上級者になるのだ。それが「芸術」になったり「道」になったりする。

 以上、上級者、中級者、初心者、それぞれに意味がある。これのどれかを笑いものにするような人は、おそらく、なにをやっても、真の中級者、真の上級者にはなれない。

 そんなことを考えさせてくれるつぶやきであった。

 さて、実はこの事象はもう一段階上がある。

 玄人「……(無関心)」
 上級者「わからない」
 中級者「コツ教えます」
 初心者「わからない」


 その道を究め、日常で、自分がどれだけ神業を使っているのかが把握できなくなった人(玄人)は、その事象に、むしろ無関心になってしまうのだ。そして別の趣味に熱中し、それがまた、下手くそだったりする(笑)。医者の不養生とか、紺屋の白袴とかとはちょっとベクトルが違うが、あれかな「ヘタの横好き」の大半がそんな感じではないだろうか。

 人間とは、かように業が深く、摩訶不思議で、なんとも探究心の尽きない存在なのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記