2016年06月16日

【書評】心あらため……

「良い評論とは、誉めてある評論である。悪い評論とは、それ以外の評論である。」

この言葉は、正しい。
十代前半の頃に読んだ一言であったので、出所はわからない。が、正しい。

ここでは小説やマンガ、映画などのエンターテイメント系創作物を生み出す側を「送り手」、それを受け取る側を「受け手」と記すことにする。工業製品などに与えられる評価には、また別の姿勢があってしかるべきだ。

わたしは十八のときに送り手側に廻ってしまったので、上記の言葉は長らく、送り手側をなぐさめる文言だとばかり思っていた。しかしリタイヤして受け手側に移ってみても、やはりこの言葉は、正しい。

ひとつには、けなす評論は簡単だからだ。経験則から見てもそうだし、減点法というものは良いところからわざと視線を外し、アラを探してそこをつつきまくればいいのだから安易で容易である。偉丈夫でも虫歯をほじくられたら悲鳴をあげるものだ。
「誉めて伸ばす」に対するのは「叩いて鍛える」だろうか。しかし、別に送り手は弟子ではないし、受け手は師匠ではない。つまらないと思ったら無視をする。それが成熟した大人の感覚である。

寄席で噺がつまらないと思ったら、つまらない顔をしているのが粋だ。わざわざ「金払ってるのにつまんねぇな」と大声をあげて騒ぐ人は周囲がしかめ面をする。それがけなす評論への評価である。

わざわざつまらないと思ったことを形にして発表しようというのは、もともと正気の沙汰ではないか、あるいは裏に「つまらない作品をあげつらえるオレってスゲー」という自己顕示欲がある。自分の思うようにいかないとデパートの床にゴロゴロ転がって注目を浴びようとする子どものようなものだ。

つまり、けなす評論というのは、端的に言って幼い感性の発露に他ならない。

と、多少アグレッシブに書いてきたが、加えて、人生半分を終わってわかったこともある。それは、創作物というものは、その人の人生の場面場面で、楽しめる絶妙のタイミングというものがある、ということ。

人はそれぞれの人生を背負って生きていく。荷が重いときは目的地に思いを馳せ、軽いときは道端の花に心ときめかせる。同じように、創作物もその人の、そのときそのときのバックグラウンドによって、感受性が変わってくるのだ。

わたしがよく例に挙げるのは、ゆでたまご先生の「キン肉マン」である。同作が多くの読者を楽しませている名作であることは言を待たない。最近は連載が再開され、新刊が続刊としてナンバリングされて発刊しているとのこと。こういう計らい、いいよね。ファンはさぞや嬉しいことだろう。

が――わたしは子どもの頃も今になっても「キン肉マン」を楽しめないのだ。もちろん「キン肉マン」に悪いところはひとつもなく、ひとえに、わたし自身の問題に起因して。

「キン肉マン」が最初の連載当時、わたしはヒネた子どもであったので、みなが「ロビンマスクかっこいい」とか「ミートくんどうなっちゃうの」とかワイワイやっている最中に「星野之宣のブルーシティはさ」とか「諸星大二郎の暗黒神話って」などと言っていたのである。おきまりの「キン肉マンなんてどこが面白いのかわかんないよ」とも。

楽しめる時期に楽しまなかった。これに尽きるかもしれない。「キン肉マン」は人それぞれの人生の中で、それを素直に楽しめる時期があって、その期間を経験していないと、歳を取っても楽しめないのだ。
ひょっとして、わたしの人生でもこれからいきなり何かが変わって、「キン肉マン」を楽しめるようになるのかもしれない。今の自分が楽しめないものだから「キン肉マン」がつまらない作品だ、という評価はできない。歳をとって、それを知った。

若い頃は、自分が面白いと思ったものは誰でも面白く、自分がつまらないと思ったものは誰しもつまらないと思いこんでいた。それが間違いだったのである。信念としては美しいが、正しくはない。
勝負には負けてしまったが、鶏油を浮かべちゃった芹沢サンの方が、やはり主人公より格上なのである(出典:原作・久部緑郎、作画・河合単「ラーメン発見伝」)。

だから、送り手の方々へ。受け手にけなされたからといって、ガックリきたり腹をたてたり、ことさら反論する必要はない。あなたの作品と出会うタイミングが残念ながらずれていたことを、その若く幼い受け手が理解していないだけなのだ。

「良い評論とは、誉めてある評論である。悪い評論とは、それ以外の評論である。」

これから「書評・映画評」というカテゴリで、主に冊子体の創作物と、たまに映画などを扱っていこうと考えているのだが、その心あらためとしてこれを記す。

人生の中で熱中できた作品があるのだとしたら、それはとても幸せな体験だ。
今、そういう作品があるのなら、その感動を大事に記憶へ刻んでいきたい。
きっとそれは、一年前に目に入ったり、一年後に出会ったとしても、素通りしてしまうかもしれない作品なのだから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評