そんなことを言われても、いまさら!?
いやはやまったくごもっとも。ブログ冒頭にカヴィーツェルの、それは前向きな言葉を掲げているのに、書いていることは過去のことばかり。言行不一致この上ない。
それでも、新しい試みはしているのであった。それが「段落の一字下げ」をしないということ。
正直、古いタイプの物書きとしてはとても抵抗がある。クセでトンとスペースを押してしまう。段落がわかりにくい。生理的にモニョるところ否めない。
しかし、ブログ記事は一字下げをしないのが普通なのだと諦めた。小説はまた別だけれど。
この「ネットだと字下げ(インデント)しない」文化は、海外でも同じく大勢を占めつつあると聞いたことがある。どなたかネット文化史研究で、そうなった経緯などを解明してくれないものだろうか。
キーボードではなくスマホのフリック入力を使うから一字下げがなくなった、という考察もできる。が、一字下げしない文化はiphone登場前よりちらほら見かけたような気がする。
ああっ、また↑やってしまった。
段落ごとに必ず一行開けをするのにも抵抗があって、こちらは文脈の流れで、したりしなかったりしている。
一行開けというのは、それだけで書き手の意志を反映する表現のひとつでもあるので、たんに読みやすいというだけで慣れてしまうのもどうかというところ。
もうひとつ「文末に句点を使わない」というものも今流ネット文化にありそうだが、これはまだまだ受け入れがたい。
ただ、たとえば明治元訳聖書などを読むと句読点は使われていなかったりするので、これはここ百年ばかりの底の浅い伝統なのかもしれず。
わたしはいい加減で半可通なので、詳しいことはわからない。
その昔、掲示板を開けているとき、「プロの文章とアマチュアの文章とで違いはありますか?」と尋ねられたことがある。
当時、「中身を読まずともわかりますよー」とお答えしたような。手品先輩かよ。
なんとなれば、プロは必ず一字下げをするし、思考線(――)と思考点(……)をちゃんと打つが、アマチュアはハイフンとナカグロで打ったりするから。だからタネは、中身ではなくフォーマットだけでプロアマ判定できますよ、という意。
もっとも、ワープロ原稿で「・・・・・・」と打っていらっしゃる先生をお見かけしたこともあるので、それはウケをねらった言い過ぎだと反省している。
ナカグロと言えば――と、話がとびすぎ。これはまた別の機会に。
文末句点ナシに抵抗しているのは、いざというとき簡単なスクリプトを通せば行頭一字下げができるから、という考え。結局そこ。本当は字下げしたいのだ。
今、細君から「一字下げはしないの?」とメールで感想がきた。
はい、しないでがんばっている最中。
細君も古いタイプの文章読みなのかもしれない。

(写真は手持ちの文語訳聖書。奥付には昭和25年発刊とあるから、けっこう新しい)
2016/09/11(日)追記
今はブログ冒頭の言葉を短くしたので「カヴィーツェルの、それは前向きな言葉」は掲載していない。
以前は下記を載せていた。
「後ろをふりかえってはいけない! 汝の全力をかたむけて、ひたと目を前方に向けよ!
時につらく思うことがあっても、敢然と己が道に邁進する者は、神もまた嘉し給うであろう!
(ワルター・カヴィーツェル「何故と問うなかれ」)」