人生の折り返し地点をすぎて、やっと気づいてしまった。わたしは、味音痴だった。
バカ舌なんです、わたし……(泣)
十代の頃に自覚しておくべきだった。
最初に残っている思い出は、大学二次入試の前、傷んだメンマに当たったこと。吐き気とお腹の緩さに、一晩、トイレから出ることができず、それはひどい目に遭った。
しかし記憶には、当のメンマを食べたとき、「こりゃまずいかも?」と思ったようなものがまったくない。きっと前の晩、「美味しい美味しい」と平らげていたに違いない。
その後「当たった」ことは数知れず。鶏でも当たった、牡蠣でも当たった。宝くじは当たらない。
そうそう当たるものではない! とシャアは言うが、あんなビームに当たったら普通死んでしまうのだから当たった証言者など残っているはずがない。えらい欺瞞である。
幸いわたしは今のところ、食べ物で死ぬところまでは当たっていない。が、年々、当たればダメージが大きくなっているのは感じる。つい先日もなにかに当たってしまったのか、一週間ばかりブスコパンのお世話になった。
傷んでいそうなものでもそんな感じだから、だいたいなんでも美味しくいただける。病気方面で胃が痛むものは食べられないが、それも食道から下のこと。舌を通り過ぎるところまでは大抵美味しく食べられる。
子どもの頃は人並みに好き嫌いはあったと思うのだが、十代後半くらいから、嫌いな食べ物というものが見つからない。
最近になって、年甲斐もなくエプロンをつけ自分で調理を始めてみて愕然とする。
味が濃くても美味しい。薄くても美味しい。しょっぱくても甘くても美味しい。
つまりは逆に、味の差というものがわからないということ。
ああ、俺ってバカ舌だったんだなぁ……。
マンガだと、ちょっとした調味料の差を主人公が見抜いて一同びっくり、というようなシーンがままあるが、その場にわたしがいたら、絶対味の違いがわからないキャラ。
自分が味に無頓着だといまさら思うのは、小説の中に食事のシーンがほとんどないことだ。
タバコを吸っている頃は、間をとるために、作中人物に喫煙させたりしていた。これが自分が吸わなくなると、喫煙シーンそのものが登場しなくなってくるのである。
逆説的に、食事のシーンが少ないということから、自分が食べ物に拘泥しないことがわかるというもの。
バカ舌が役に立つこともある。
病気で飲んでいた水グスリ。その世界では一、二位を争うほど不味いものらしく、検索すると、みな、冷やしたりゼリーにしたり何かで割ったりと工夫して飲んで、それでも不味いと評判のよう。
わたしはストレートでぐいぐい飲んでいた。平気。けっこういける、「美味しくはない」程度。みんな大袈裟だなあと思っていた。あれも今思うと、自分の喫水線が常人と違っていたのだ。
多くの人が「闘病より辛いかも」と嘆く激マズなクスリでも「美味しくはない」程度。バカ舌ここに極まれり。むしろ自分が頼もしい。
自分がバカ舌だと気づいたら、ちょっとがんばれば昆虫食もできそうな気になってきた。さすがに姿そのままだと抵抗あるが、挽いてハンバーグにでも混ぜられたら、恐らく気づかず美味しい美味しいと食べそうだ。
それまではネットで美味しいと評判のラーメン屋さんなどをチェックして食べ歩いたりしていたのだが、バカ舌を自覚したら、チェーンの牛丼でいいや、とそればかり。チェーンの牛丼屋さんの味の違いがわかるかどうかも怪しい。
今でこそ、大の男がうまいのまずいので組み立てる物語は普通にあって、誰も疑問に思わなくなっているが、その昔、昭和の男は食べ物に文句を言わない、という美徳があったである。
わたしの遺伝子は昭和のそれなのだ。いまさら。
思い立って、「昭和の遺伝子」というカテゴリを新しく開いてみた。
こんなわたしが言っても信用ないかもしれないが、細君はかなりの料理上手。これは請け負ってもいい。
今この原稿を読ませたら軽くショックを受けていたのでフォローしておく。
