2016年06月25日

【昭和の遺伝子】昭和の終わり

昭和六十四年一月七日。その日の思い出。

「平成」の名を初めて聞いたのは、港に止めたクルマの中、NHKのラジオからだった。後の細君と一緒に。

おぅ、リア充ぽいね。佐野元春の歌のよう。
が、制服デートをした経験はないから、そんなことはない。悔しい、悔しい。

それはともかく、わたしの住んでいる街の港湾事務所は当時けっこうユルユルで、「関係者以外立ち入り禁止」の看板もなく、誰でも入っていけたのである。昼間でも関係ないクルマが二、三台止まってのんびりしている光景はままあったし、夜になるとバイクの練習をしている人もいた。誤って海中へ落っこちてしまう事件も、年に一件くらいはあった。

最初に「平成」と聞いたとき、「平和になる」とは連想できなかった。真っ先に思い浮かんだのは「平等になる」である。昭和に比べて、ちょっと軽い感じがするな、とは思った。

昭和天皇陛下は、その日の朝に崩御なされたのであった。
その前にご闘病の様子が刻々とテレビで字幕放送などされている期間があり、そこまで報道しなくても、という内容もうろ覚えにある。とてもお気の毒に思っていた。

日本は自粛ムード、というか本当に自粛していた。が、詳細はあまり覚えていない。
テレビは娯楽の多くを占めていた時代だったが、自分が今テレビを見なくなったので、過去のテレビの記憶すら薄くなってしまった。喫煙や飲酒と同じく、自分が継続して経験し続けていないと、生活の中からその記憶がすぽりと抜けてしまう。

確か、井上陽水さんがテレビコマーシャルで、「お元気ですかー?」と挨拶するものがあって、それがちょっと不謹慎かもしれないというので放送されなくなった。なんのCMだったかは綺麗サッパリ。

この日、後の細君とは、昭和六十四年初めてのデートの約束をしていたのだが、家で喪に服そうかと迷った。しかしむしろ、時代の境目を一緒に過ごす相手は細君しかいないと、五速MTのダイハツ・シャレードで迎えにいったのだった。

街はたんたんと静かであった。店もふつうに開いていた。
ブランチに立ち寄ったファミリーレストランCASAで、不思議な感じがする。気づけば、BGMがまったく流れていないのだ。
なにか胸に詰まって、食欲がわかず、細君に「君も残してもいいんだよ」と言った。

今思うと、自分も若く元気だったのだから、昭和天皇陛下がお元気なうちに、一度は新年一般参賀に行って昭和天皇陛下のお姿を同じ空気の下で感じていればよかったな、と思う。

わたしにとっては、生まれたときから象徴天皇であらせられ、身近でこそないが、いつも日本を見守ってくれている、いわば「時代のお祖父ちゃん」であった。

自分のデビュー作の書き出しが「昭和五十八年」だったこともあり、「昭和」はとても好きな言葉のひとつである。この書き出しは文庫入りのときに、古い感じがするということで「昭和六十四年」と直すことになった。今でもこの手直しには気分的に引っかかるものがある。言葉のテンポ的にも、五十八年の方がよかった。

平成の今を生きているので、わたしは人生の長くを昭和で体験した世代にはならない。
それでも、物覚えがつく頃から思春期、青年期にかけて昭和後期で過ごしたので、人生の一番時間を長く感じられる期間を、昭和の一番良い時代で過ごしたのではないかとも思っている。

手持ちにひとつ、三十年を経て動き続ける懐中時計がある。七宝焼きの蓋の裏には、「昭和六十一年・天皇陛下御在位六十年記念」と刻印。
クォーツのそれは、当時、それほど高いものではなかったかもしれない。それでもわたしには大事なもの。


祖父の形見をもらった。

この時計には秒針がない。それもいい。視線を向けても、すぐに動いているかどうかはわからない。でもしばらく経って見てみると、確実に時を刻んでいる。

昭和はいわば、秒針がない時代だった。
みんな忙しそうにしていながらも、けっこうのんびりしていた。
そんな思い出を、カテゴリ「昭和の遺伝子」に刻む。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子