2016年07月31日

【日記】シェーバーはフィリップスにしとけ

もし、過去の自分に一通だけメールが送れたら、と夢想することはないだろうか。わたしには、ある。その内容も決まっている。

「シェーバーはフィリップスにしとけ」

この一行で十分だ。

年頃になって一丁前にヒゲが生えてきてから、ヒゲ剃り、それも電気シェーバーには本当に泣かされてきた。とにかく、顔の肌が弱いのである。シェーバーで剃る度に、鼻の下から顎の下、首筋から、もう血だらけになってしまう。

シェーバーがダメならということで、よくタオルで暖めてシェービングクリームをたっぷり塗って、多数枚刃のカミソリで剃ってみてもダメ。順剃りはまだいいが、逆ぞりの時点でもう洗面器に血がポタポタと垂れてスプラッターに……。

だってねぇ、プロの床屋さんにかかってさえ、人の顔を血塗れにしてくれて、そのあと何枚もバンソーコーを貼ってくれるていたらくなのである。

もうどうしようもないのならと、せめて速く深く剃って剃る頻度を少なくしようと、シェーバーのスペックに凝るようになってみた。なるべく速く、深剃りできるやつ。史上初の高速刃とか、そういうの。日本人は好きだからね、そういうの。
そんでいつも、血だらけですよ……。

あまりに剃る度に血だらけになるものだから、ひととき、編集者に「この長編が書き終わるまでは剃りません」と宣言して、ヒゲを伸ばしてみたことがあった。
が、ヒゲというのは、伸ばせば伸ばしたで手入れが面倒なのである。定期的に細君に適当に切ってもらわねばならぬ。それと、頬ヒゲと口の下のヒゲは汚らしく見えるのが嫌なので、これも細君に抜いて貰わねばならない。

暇なときは細君も快く引き受けてくれるのだが、忙しそうにしているときに頼むのは申し訳ない(とは言え細君の膝枕でヒゲを抜いて貰うのはけっこう至福の時間ではある)。自然、延び放題のヒゲになってみっともなくなってくる。

わたしには一応、会社の社長という顔もあるのである。わたしが会社を作ったとき、法人会のある先輩がこう教えてくれたのだ
「小さな会社の社長ってのはね、必ずネクタイをしめて、ヒゲも必ず剃って出かけるものですよ。たとえそれが、近所の買い物であってもね」――これは至言であると思う。必ずしもできているとは限らない自分が歯がゆいが。

古いと言われようが偏見と言われようが、実際問題として、この社会というものは、ヒゲ面の人間は、あまりまっとうな職業についているとは見られないのである。それだけヒゲにはインパクトがあるということだ。
わたしがヒゲを伸ばしていた期間は実はけっこう短かったのだが、そのとき初めて会った方などには、ずっと「ヒゲを生やした方ですよね」という印象がつきまとっているくらいだ。
よく会っていた友人にも「結城さん、ヒゲの期間てけっこう長かったですよね?」と言われてしまう。実際には、ヒゲを生やしていない期間の方がずっと長いというのに。

だからやはり、まっとうな社会人というものは、毎日ヒゲを剃るという苦行に耐えねばならないのだ。たとえ血をダラダラ流してカットバンを何枚も貼る羽目になっていても(その方が本当は異常なのだが、この社会が異常なのはもうみなさんもご存知でしょう? 本当は)。

いつだったか、まだ巨大掲示板を覗いていたころ(わたしはモナジラツールとかも作っていたので)、ヒゲ剃りのスレッドがあり、そこにも毎日のヒゲそりが憂鬱だという書き込みがあったので「わかる。毎日のヒゲ剃りが憂鬱なので睾丸摘出を考えるレベルだよ」と嘆いたら「やめなよ! まず永久脱毛を考えなよ」と諭された。そういやそうだ。それにしても永久脱毛という手段を一瞬だに考えずいきなり睾丸摘出と言い出した自分の突拍子のなさに笑ってしまう。あのとき止めてくれた名無しさん、ありがとう!

そんなこんなで、毎日ヒゲを剃っては血だらけになって憂鬱になっていた日々、ふと思い立って、フィリップスの三眼タイプのシェーバーはどうだろう、と、売り場で手にとってみたのだ。それまでなぜフィリップスのそれを敬遠していたのかというと「最速」とか「深剃り」とかスペック的に惹かれるものがなかったからだろう。
替え刃を売っていない、というのも(フィリップスにはその必要すらないのだと後で知ったが)、なにか使い捨てっぽいような感じがして考えてしまったのだな。

そして実際に購入して使ってみたら――これが実にいい。出血皆無なんだこれが。
素晴らしい。たしかに、深剃りという点では多少見劣りするが、今まであんなに悩まされてきたヒゲ剃り後の出血が、まずないのである。
それに、使っていればわかるが、深剃りとか高速刃とか、そういうものはあまりヒゲ剃りの性能としては意味がないのだ。だって、生きていれば、ヒゲなんて毎日延びてしまうのだから。
いくら深剃りしたって、翌日にはまた剃らなければいけないのである。

ちょっと調べてみると、回転刃式のシェーバーの特許の多くはすでにフィリップスが所有しているので、他社は使うことができず、それで左右に激しく剃る方式でしのぎを削っているのだとかいう。
非常にシンプルな結論なのだが、電動シェーバーは回転刃式がいいのだ。

ところで、人間の見かけの若さというものは、けっこう、肌にでる。血の出るシェーバーで毎日肌に負担を掛けるということは、それだけ毎日、加齢が進むと言うことだ。

だから、もし、過去に一通だけメールが送れるなら――

「シェーバーはフィリップスにしとけ」

この一通で十分。
経済的な成功や未来の仕事の成果なんぞは、その気になればいつでもなんとでもなる。それに、決まった未来なんぞ過去の自分に教えたって、面白くもなんともないではないか。
でも、身体的な若さというものを取り戻すことはできないのだから。

だから、これから電気シェーバーを選ぼうとしている若者がいるななら、悪いことは言わないから、フィリップスの回転刃のにしときなさい。あなたが四十歳、五十歳になったとき、わたしがこれを書いた意味がわかるようになる。

あっ、けど、頭髪の加齢による後退はまた別だから。これはわたしにもわからない。だってまだフサフサなんだもん。ごめんね。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記