2016年09月13日

【カットリク!】聖痕・後編

筒井康隆先生の「聖痕」におけるカットリク!の続きである。
引用元となっているのはこの箇所。



より引用――
「キリスト降誕」はマリア、ヨセフ、東方の三博士が出てくる科白なしの劇に、卒園して教会の合唱団にいるお姉さんたちと園児たちのコーラスで讃美歌百十二番「諸びとこぞりて」と「聖しこの夜」だ。
 えっ。貴夫君にガブリエルやらせるんですか。はい。彼ならできます。めでたし、恵まるる者よ、主、なんぢと偕にあり。こんなむずかしい科白。しかも昔の新約聖書そのままじゃあないですか。(後略)


さて、これはかなり驚かれる方が多いと思うが――
カトリックでは「聖しこの夜」を歌わないのだ。

その検証の前に、まずプロテスタントの賛美歌を見てみよう。「54年版讃美歌」だと


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109番として存在している。

次に「讃美歌21」だと


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264番で載っている。

ところが、これがカトリックとなると「きよしこの夜」自体が存在しないのである。
歌うのは、同じメロディで「カトリック聖歌集」111番の「しずけき」なのだ。


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同じメロディで「しずけき まよなか まずし うまや」という歌詞になっていることがおわかりいただけると思う。
括弧で(607)と書いてあるのは、同じ「カトリック聖歌集」の最後の方に「付録・合唱用聖歌およびキリスト教会用「さんびか」からの聖歌」として同じ曲が載っているからである。じゃあ607番の方は? ひょっとしてプロテスタントに歩み寄って「聖しこの夜」になっているんじゃないの?
さて、どうでしょう、答えは――


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ガチカトは譲らない。合唱用譜になっているだけで、607番でも「しずけき」なのだ。

実際わたしは、ミサで「聖しこの夜」を歌ったことがない。超教派のクリスマスコンサートでくらいしか「聖しこの夜」を歌わない。それがガチカトなのだ。

カトリックの幼稚園の出し物ということでならば、信徒でない父兄もいるだろうから「聖しこの夜」という選択もアリかもしれないが、少年に文語の新約聖書を読ませることを決めたアンセルモ神父のキャラクターから、そういう折衷主義は矛盾を感じる。
ほかにも「カトリックならしずけき≠ナしょう!」と主張する信徒やシスターがいてもおかしくない気がするし。ていうか自分が選曲に関わっていたら躊躇なく「しずけき」にする。やっぱりガチカトだから。「聖しこの夜」はプロテスタントの曲というイメージが強い。

カットリク!ポイント32――
カットリク!はクリスマスに「聖しこの夜」を歌っちゃう。


ここから先は蛇足に近いが、子どもに言わせようとしている科白も不正確である。「昔の新約聖書」ということは、ふつう、日本聖書協会の「文語訳」だと思われるが、該当箇所は――

「めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと偕に在せり」(ルカ傳福音書 1:28)

最後の部分が、ちょっとだけ小説とは違っている。この「ちょっとだけ違う」というのがガチカトだけでなくガチプロテスタントもモニョるところなのである。

私が持っているほかの文語訳聖書(永井直治訳)だと、同箇所は「慶し、恵まれたる者よ、主は汝と共におわす」。で全然違う。ちなみにこの永井直治訳は、多くの日本人が間違って覚えている聖書のある勘違いを指摘できるので、そのうち紹介したい。

それはともかく、この科白は、無理に聖書から引用せずとも「天使祝詞」そのものでよかったのではないかなぁ、というのがガチカトの率直な感想。
「天使祝詞」とは、ロザリオの祈りなどに使われるマリア崇敬のための祈りで、まさしく受胎告知の瞬間の祈りでもある。
今は「アヴェ・マリアの祈り」に改訂されているが、その昔は美しい文語調だったのだ。劇で使うなら、その始めの部分――

「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします。」

の方が自然だろうと思うのがガチカト的感覚だと思う。

筒井先生、ずいぶん無粋、無礼、生意気なことを申しあげてしまい申しわけありません。
「飼い犬に手を噛まれる」という言葉もありますが、『女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイによる福音書 15:27)』と聖書にも書いてあります。
なにとぞ、ご容赦のほどを。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究