2016年09月23日

【日記】もったいない嫌い

「もったいない」という言葉が嫌いだ。
え!? 「好き」の間違いじゃないのって?
間違いではない。「もったいない」という言葉が大嫌いだ。

ノーベル平和賞を受賞したケニア人、ワンガリ・マータイさんが2005年に来日して、日本の自然やモノに対する敬意に感銘をうけ「MOTTAINAI」を世界語として提唱したことはまだ記憶に新しい。
と、思ったら、それももう11年も前なのか!
当時、誉められた日本人はホルホルしたものだが、わたしが思うに、マータイさんが提唱した「MOTTAINAI」と、日本人の「もったいない」は本質が違うのである。

ケニアは元イギリス領であり、国民の八割がキリスト教徒、同じアブラハムの宗教であるイスラム教も一割いるというから、ほとんどが一神教的風土と言ってもいいだろう。マータイさんがどんな信仰を持っていたかはわからないが、そういう一神教的環境で育ったマータイさんの「MOTTAINAI」は、モノに神がつくと考える日本人の多神教の「もったいない」とは似て否なるものなのだ。

キリスト信者が1パーセントに満たないこの日本で教会生活を送っていると、自然、自分がキリスト信者であるということより「日本人であること」を思い知らされることが多い。

まず、一神教の世界の「MOTTAINAI」には、「目には見えないが大切なモノがある」ということが大前提としてある。
カトリックは主日ミサの度に「わたしは信じます。見えるもの、見えないもの。すべてのものの作り主を」と宣言する。目に見えるものも見えないものも、神が作りたもうたという世界観なのだ。

ところが、日本人の「もったいない」には、目に見えないものは大切ではない」という、逆の大前提があるのである。日本では水と空気と安全はタダ、とはよく言ったものだ。

「目には見えないが大切なモノ」の頂点は「命」である。日本人は命が見えないモノだから大切にしない。たとえば番長皿屋敷である。たかがモノの皿が壊れただけで人の命を奪う。あるいは殿から戴いたツボである。壊しでもしたら切腹する。

現代だって同じだ。借金を返すためという理由で、たかが福沢諭吉が描かれた紙切れが欲しいがために人の命を奪う者がいる。人を殺してでも借金を返す方がいいという社会はゆがんでいる。

日本人が「MOTTAINAI」を見習おうとしたって絶対無理。たとえば、死刑囚の命を「MOTTAINAI」と思いますか? 思わないでしょう? それが平均的日本人の「もったない」感覚。死刑を廃止した国の人々は、死刑囚の命も「MOTTAINAI」と思える人々なのである。
はたまた、日本の人工妊娠中絶率は、既婚夫婦にも非常に多いという統計がある。これから生まれてくる命と、今の豊かな暮らしを天秤にかけ、豊かな暮らしを犠牲にする方が「もったいない」と思う民族。それが日本人なのである。

上記二点、わたし個人は良いとも悪いとも言っていない。ただ事実を言っただけ。
ガチカト的には無論良いわけがないが、カトリック教会は断罪するためにあるのではなく、重荷を背負った人のためにこそあるのだとも言っておく。

命が大げさなら、ブラック企業やゴミ屋敷を思い出して欲しい。
ブラック企業は他人の時間を「見えないモノ」だから平気で奪う。そこに価値があるとは考えない。
ゴミ屋敷の住人は、空間を「見えないモノ」だからモノで埋めてしまう。なにもないという空間に価値を見いだせない。

さて、日本人の「もったいない」は、たかがモノが、しまいには付喪神がついてしまうまで続く。そうしたら、ゴミ屋敷まではいかないまでも、部屋中モノだらけだ。
「必要なモノは、必要な時に、必要なだけ神が与えてくれる」と考える一神教徒の「MOTTAINAI」と日本人の「もったいない」の違い、少しはお伝えできただろうか。

日本人は「もったいない」から「いつか使えるかも」と捨てられない。そしてモノは増え続け、ただでさえ狭い日本のウサギ小屋はモノでパンパンになり、ついには新しいモノが入れられない状態にまでになる。

日本人の消費が冷えているのが問題視されているが、そういうことも実は大きな原因のひとつになっているはずだ。

振り返ってほしい。日本人の消費が冷え始めた時期と、ゴミの分別収集がやたら厳しくなった時期は重なっていなかっただろうか?
「ゴミの分別が面倒だからモノを買わなくなる」「ゴミを捨てるのが難しいからゴミ屋敷になる」のだ。

逆に高度経済成長期の頃の日本は、どこでもゴミが捨てられた。家庭ゴミも分別せずに捨てられた。だからこそ、新しいモノをどんどん買えたのである。

これを指摘している人は見かけないが、日本人の消費を増やしたかったら、まずゴミ行政から手をつけるべきだ。複雑怪奇なゴミ分別を家庭でやらせるようなことはやめる、粗大ゴミもポンポン捨てられるようにする。それだけで消費が増えるはずだ。

2020年の東京五輪でまた「MOTTAINAI」をフィーチャーしたい、というニュースを聞いて、嘆きのあまり、思わず、筆の赴くまま書いてしまった。

論旨不明解になってしまったが、要するに、そろそろ日本人の「もったいない」は決して美しい結果を招かない――空間的にも精神的にもゴミ屋敷化する――ことに気づいて、本物の「MOTTAINAI」にみなさん目覚めようよ、ということ、かな。

posted by 結城恭介 at 08:00| 日記