2016年10月05日

【日記】敬称

最近、若いスポーツ選手などがインタビューで「お母さんのおかげです」「お父さんに喜びを伝えたいです」などと言っているのを聞くと、一見、どんなに育ちがよさそうでも、「ああ、そういう家庭に育ったんだなぁ」と思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

身内に敬称をつけない、自分の両親を他人に言うときは父、母と呼ぶ。というのは、もう昭和の常識なのだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。

会社だって、たとえばお客さまからの電話に出たとき呼ばれた同僚が会議中ならば、たとえそれが上司であっても「鈴木は今、会議中で」などと呼び捨てで答えるのが一般常識、というのは変わっていないはず。

この、身内に敬称をつけない、という文化は、日本独特のものだと聞いたことがある。

以前、普通の新聞に、なにかキリスト教関係の記事が載ったとき、インタビューされた牧師が「イエスさまの愛は――」とイエスを敬称つきで言っていて、ちょっと、いや、だいぶ気になってしまった。

このクリスチャン人口1パーセントの国にあって、普通の日本人にとって、イエスはやはり他人さまであろう。
カトリックもプロテスタントも、人にJesusのことを紹介するときは「イエス」と呼び捨てにするのが正しいように思うのだ。だって、うちらカトプロにとってはイエスは身内のトップだけれど、たいていの日本人にとっては他人の家の人じゃないですか。
それが日本での礼儀ってもんですよ。

実は聖書の中で、「イエスさま」と敬称がついている箇所は、ルカ17:13において、重い皮膚病患者が主イエスに呼びかけている一節しかない(新共同訳)。十二弟子たちの呼び方は「主よ」だし、パウロにいたってはところどころで「イエス」と呼び捨てだ。

ところで、教会業界に詳しくない人にはピンとこないかもしれないが、カトリックには「聖人」という考え方があって、たとえばイエスの母マリアも「聖マリア」、父ヨセフも「聖ヨセフ」と冠つきで呼ぶのである。
教会内で実際に呼ぶときは「マリアさま」「ヨセフさま」という。もちろんトップは「イエスさま」だ。会社内で社長は社長、部長は部長、課長は課長というのと同じ感覚。

ところがプロテスタントには聖人という教えがないので、「イエスさま」以外は、マリアはマリア、ヨセフはヨセフと呼び捨てである。
会社内のたとえで言えば、社長以外はみんなヒラ、という感じなのだろうか? わたしはガチカトなのでそのあたりの感覚はわからない。

ところで、マザー・テレサが聖人認定されたが、これはカト内でもなぜか今まで「マザー・テレサ」と呼び捨てだった。これからは「聖マザー・テレサ」と呼ぶようになるのか「マザー・テレサさま」と呼ぶように変わっていくのか、興味のあるところである。

わたしはこのブログ中で、今までも「イエス」「マリア」などと呼び捨てで通してきた。それはやはり、多くの日本人にとって、キリスト教関係の人々は他人だから、という感覚である。逆に言えば、自分はカトリックというアイデンティティがあり、聖人であっても身内という感覚があるからこそ、敬称なしで書くのである。

若いスポーツ選手のように、ぬけぬけと他人に「イエスさま」と言える図々しさはない。

もちろん、カト内の身内同士の会話では「イエスさま」「マリアさま」とすました顔で言っている。

クリスチャン人口が1パーセントしかないこの国にいると、むしろ自分が日本人であることを強く意識させられることが多い。

で、こういう敬称にこだわるあたりなど、ほんと、自分は日本人なんだなぁ、と思ったりするのである。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記