2016年10月07日

【昭和の遺伝子】聖書を読みに

最初に聖書を読んだ日のことはよく覚えている。それも、友人数人とで、書店に出かけていって読んだのだ。

ちょうどその頃、映画「エクソシスト」が流行っていたのである。そのテレビ放映でもあったのだろう。
それで、悪魔の数字「666」が本当に載っているのかどうか確かめにいこうぜ、と、自分を含めて四人くらいだったろうか、中学校の帰りに、大型書店へ向かったのである。

我々はみんな、電車、バス通学だったので、学校帰りにターミナル駅のショッピングセンターへ寄るのなどは日常茶飯事であったし、そういうことが特に制限されるような校風ではなかった。

聖書は今だって、大型書店に行けば普通に売っている。それどころか、「新共同訳」「口語訳」「新改訳」「文語訳」などなど何種類かあって、おそらく初心者はどれを買っていいか困るくらいだろう。
同じ「新共同訳」でも、なにやら「旧約聖書続編」がついているものといないものがあって「聖書って一冊じゃなかったのかよ!」と驚かれるかもしれない。

本記事ではそれらの差違に触れるのが目的ではないので、迷ったら、「新共同訳の旧約聖書続編つき」を買っておけばよい。

それはともかく、中学生当時の我々はそんなことには困らなかった。日本聖書協会発行の「口語訳」しか並んでいない時代だったからである。

「悪魔の数字666を探そうぜ」
「たしか黙示録ってところにあるはず」
「最後の方だろうそれ」

と、一冊の聖書を手にとって、最後のあたりをパラパラ。今でこそPCで一発だが、当時はめくって探すしかなかった。

「ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。(ヨハネの黙示録 13:18)」
※当時の雰囲気をだすために口語訳を引用。以下記事中すべて同訳。

「おおー、あった」
「本当にあるじゃん!」

と、四人で大喜び。
そして、若い男の子四人である。

「あっちも探してみようぜ」
「あれか」
「うむ。あれだ」

今度は同じ聖書の最初の方をパラパラ。なかなか見つからない。やっとその言葉、というか人名を見つけてムフー。

「しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。(創世記 38:9)」

「なるほどなあ」
「本当に聖書が語源になってるんだなぁ」

四人で頭をつき合わせて、フムフムフム、とうなずきあい。

映画で描かれた「666」や、そっちの言葉が、こうして実際に聖書に載っているというのは、妙に不思議な気分だった。

聖書を最初に読んだ記憶は、それでおしまい。

それからしばらくたって、どうせなら全編読んでみるかと、小遣いをはたいて一冊購入して読んでみることにしたのだが、これがなんとも、つまらない。旧約はバベルの塔あたりで放り出してしまったと思う。
新約の方は、いちおう、四福音書全部を読んだのだが、どうして同じような話ばっかり。このイエスってのは超能力者? もっと活躍しないの? なんで最後に死んでんの? 逆襲しないの? と、使徒行伝の前で飽きてしまった。

まあ中学生の聖書理解なんてそんなもんですな。
そして本棚の肥やしになると。

それでも確か、20歳のときに「特効薬コードKUJIRA」という作品を書いたとき、カインとアベルのところなどを参考にしたことを覚えているから、そのときにはその一冊がまだ手元にあったのだ。

その後、書斎の拡充工事のとき、おそらく、処分してしまったのだろう。捨てないで残しておけば良かったなあ、と、聖書コレクターとなった今となっては惜しく思う。

なんにしろ、あの日、「666」を確かめに皆で書店へ行くという経験がなかったら、今でも聖書とは無縁の日々を送っていたかもしれない。

ところで、オカルティックな人々には、「666」は聖書の中で神秘的な数字として扱われているが――


(石垣ゆうき「MMR マガジンミステリー調査班」1巻より引用)

「さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は六百六十六タラントであった。(列王紀上 10:14)」

「さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。(歴代志下 9:13)」

「アドニカムの子孫は六百六十六人、(エズラ記 2:13)」

と、フツーの数字としても三箇所登場するのである。

な、Ω ΩΩ< な、なんだってー!!

知っておくと、「聖書って666って数字が入ってるんでしょ」という話になったとき、空気を読まず「そうそう、アドニカムの子孫って666人なんだよネ」とドヤ顔をして言えば、場を凍らせられること間違いなしだ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 昭和の遺伝子