2016年10月09日

【書評】放浪息子

志村貴子「放浪息子」(1〜15巻(完結))

TS(【トランスセクシャル/性転換】)モノ大好物、と言っておいて、その三本目に本書。でも、内容はちょっと重いかもしれない。

あらすじ――
二鳥修一、小学五年生。女の子の服が気になるお歳頃。気になるといっても、自分が着る方に興味がある、それ以外は、とても普通の男の子。
高槻よしの。修一のクラスメート。女の子の服を着るのが嫌いな女の子。
千葉さおりは、そんな二人の間に割って入ったり入らなかったりする情緒不安定女子。
お話はまずこの三人を中心に、修一の異性装に対する悩みや日常的な冒険を描きつつ、皆が成長していく様子を、淡々と描いていく。


TSモノマンガの始祖鳥「ストップひばりくん」の完全版の後書きで、作者、江口寿史先生がオカマバーへ行って自己紹介したところ、きれいなニューハーフさんが悲鳴をあげて、「自分はストップひばりくん≠読んでニューハーフになったんですぅ」という話をした、という一文がある。

そういう観点から見ると、志村先生のこの「放浪息子」は、将来、「自分はこれを読んでニューハーフになりました」という人は出てこなそうな作品だ。むしろ「自分はこれを読んでTSをあきらめました」という人の方が多く出そうな物語である。

ストーリーは、小五から高校まで、女装に魅かれる修一を中心に、その友人関係をそれぞれ絡めて描かれる。
その時期の恋愛話や、読者モデルの話に本当のリアリティがあるのかどうかは、わたしにはわからない。が、「いわゆるありがちなTSモノ」にある、超常現象で異性化してしまうというようなファンタジーや、異性装しただけで違和感なくTSしてしまうような「お約束」はなく、物語の両足はきっちり現実という地についている。

そのリアルさは、キャラクターにとっても、TSにファンタジーを求めている読者にとっても、ときに残酷な現実をつきつける。



小五から中学生にかけての修一は、素材が良いので、女装がよく似合う。罪悪感や自分の女装指向への悩みを持ちつつも、だんだんとそれはエスカレートし、高槻よしのという、女の子だが男の子の異性装をすることに惹かれる友人もでき、二人で異性装のまま外出して、現役のオトナのオカマの友人もできたりする。

志村先生の絵は暖かで、その優しい描線は、一見、ほのぼのとしている雰囲気をかもしだしているのだが、内容は結構、シビアなところも多い。

たとえば、明らかに中年男の似合わない女装にまつわるエピソードがある。子どももいる中年男のいかにもな女装と、修一のかわいい女装は対比されつつも、二人にいつかは訪れるだろうカタストロフの予感が読んでいてつらい。



そして高校生になり、ついにその日がきてしまう。もう慣れた女装で買い物をしたとき、女性店員に「さっきの子さ、男の子じゃないかな」と見抜かれてしまう。首も太く、体は筋張ってくる。修一にとって、成長は残酷だ。



しかし、彼はそれをパニックになることなく、自分の「物語」を原稿用紙に埋めることで、受け止めてようとしていく。その様子がけなげで、いじらしく、せつない。

登場人物の中で、修一に理解を示し、自分もまた女装に憧れ、それでも、自分が修一よりは似合わないことを十分に承知している、有賀誠君が好きだ。彼は自分が同性愛者であることも勘づきつつある。そして「女の子になりたい」という気持ちは修一よりも切実なのだ。
彼は高校を卒業し、意外なことに、親の理解まで得て、その手の店に見習いで入ることになることが許される。その親の理解に、読者としても、気持ちが暖かくなる。

個人ホームページが華やかなりし頃、MtF GID(Male to Female Gender Identity Disorder)――男性から女性への性同一性障害――を自称する方々のページばかり、たくさん読んでいた時期があった。みなやはり、どこか、女装した自分を見てもらいたいという自己顕示欲があるのだろうか。

わたしは日本語読みなので、文章でだいたいの性別は見当がつく。
どんなに「心は女」と言っても、行間に性差がにじみ出るものだ。
正直言って、「心も男だなぁ」というホームページばかりだった。

その中で、今でも思い出せるのは、あるクリスチャンの子のページだ。「神様が間違って自分の体を作ってしまった」という彼女(と呼ぼう)のページの文章は、十分にフェミニンで、男の文章ではなかった。
その子のページには、自分の写真は一切なかった。それが本当の女の子の感性ではないかなぁ、とも思ったものだ。読んでいて、こちらがせつなくなってしまった。

トランスセクシャル、とくに MtFの現実は残酷だ。
それはある意味アスリートと変わらない。恵まれた肢体と顔、それに血のにじむような努力があって、初めて「純女」と対抗できる。そして華の期間は短い。

今は便利な時代なので、ハイパフォーマンスPCを買う程度の値段で睾丸摘出ができて、毎日飲む女性ホルモンもネット通販で買うことができる。しかしそうやって数百万かけても巷間普通にいるような可愛らしい女の子のようになれることは極希だ。むしろ「ホルモンスター」になってしまうことの方が多いのだ。

野球を志す者が誰しもイチローになれるわけではないということ。
これからの世の中、友人に「自分はMtF GIDかもしれない」という相談を受ける人も多くなっていくだろう。そんなとき「やめておいたほうがいいよ。トランスセクシャルってのはオリンピックで金メダルを取るアスリートくらい難しいんだよ」と言ってやれるほうが、本当の友情かもしれない。

わたしはGIDについて、DSM5等における精神障害であるという認識は持っているが、鬱病の治療法のひとつに投薬を使わず認知療法という方法があるように、GIDも「今の体の性別である自分を認知療法的に認めていく」という治療法があると考えている。
そして現状、その方法があまりに軽視あるいは無視され、ホルモン療法や性別適合手術しか方法がない、とされているのは、それしか目に入らない患者と、それをやって名をあげたり儲けたい一部の医師、それを応援する機関の意思が働いている異常な状況だと感じている(レーシックや歯科インプラントのブームとその後の顛末を思い起こしていただければ)。

この物語の二鳥修一少年が、最後には小説を書いて自分を「物語化」し、男性である自分を徐々に認めつつ自己を癒そうとするその姿にこそ、GID治療の本当の未来があると思うのである。


posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評