2017年02月15日

【回想録】コーヒーの思い出

コーヒーが好きだ。
そこ、味音痴のくせに、とか言わない!

そう、といっても所詮は味音痴なので、本当に旨いコーヒーなどはわからない。そのときそのときの心の状態によって、旨さの度合いが変わってくる。

最初に「旨い!」と感じたコーヒーは、細君と北海道旅行をしたときの思い出。
このときは自宅からクルマで青森まで行き、そこからカーフェリーで函館までと海路は最小限にして、再び函館から帯広までクルマでという強行軍。
そのとき、最終地点の帯広で入ったミスタードーナツのコーヒー、これが最高に旨かった!
肉体的にも精神的にも疲弊してクタクタの状態で飲んだ、チェーンのドーナツ店のコーヒーが、こんなにも旨いとは。

実はそれまで、書斎で執筆中、コーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んではいたものの、それほど好きな飲みものではなかった。
作家生活初期にわたしと打ち合わせをしたことがある編集者は、わたしがコーヒーではなく紅茶ばかり飲んでいたことをご存知かも。

当時、執筆中に飲んでいたものと言えば、お茶、ビール、日本酒、焼酎、ウイスキー……。あらら、最初のお茶以外はひどいものだ。しかも焼酎とウイスキーはとにかくアルコール度数の高いものをストレートでやるのが好きだった。
若いからこそできた無茶だなあと、今になってあきれている。

次に旨いと感じたコーヒーも、チェーン店のもの。心臓病だった息子を看取り、本当に久々に細君と街にでて、買い物している細君を待つために入ったスターバックスで、注文の仕方もわからず頼んだ「本日のコーヒー」。
旨かった。繋がっていたあの世とこの世に、少しだけ境目ができた気がした。まだ寒さの残る三月の景色に、色がついていくのが見えた。
「君が逝っても、自分の人生は続く」という言葉が頭に浮かんだ。すべてが終わるのだと思っていたが、そうではなかったことに気がついた。

旨いコーヒー三回目には、まだ出会っていない。

あれから、自宅では豆を買って直前に挽き、良いコーヒーメーカーで淹れるようになった。不器用なのでハンドドリップでは旨く淹れられない。サイフォンも使ってみたりして楽しんでいるが、やはりコーヒーメーカーが簡単でいい。
旨いと評判の豆や、あの「コピ・ルアク」も試してみたが、旨いことは旨いけれど、わたしの半生で経験した一回目、二回目の旨いコーヒーには、とうていかなわない。

息子が闘病中、もう先がないと覚悟をしていた日々、それでも役所に書類を提出しなければいけない用事があって、酸素圧縮機が無機質な音を立てる病室を抜け出し、当時評判だったセブンイレブンのコーヒーを、近くの公園で飲んだことを、今、思い出した。
その味は、自分を慰めてくれる味ではなく、まるで泥水のようだった。

そのセブンイレブンのコーヒーが、数ヶ月後にはけっこう旨く感じられてびっくりするのだった。あまりの旨さに、同じコーヒーを取っていた人に「セブンのコーヒー、おいしいですよね」と話しかけてしまい、しばらくコーヒー談義をしてしまったほど。

それでも、三回目に旨かったコーヒーかというと、そこまでは、という思いがある。

わたしの持病は、最近、寛解していたが、やはりカフェインを多く取ると調子が悪くなるので、家でもスタバでもなるべくデカフェを飲むようにしていた。
これまでスタバでは、本日のコーヒーと同じ値段で「デカフェ・コモドドラゴン」を飲めたのだが、今回、デカフェに力を入れるのと同時に、それがプラス50円になってしまった。なんとも残念なことである。

正直言うと、これから先も「三回目に旨いと思ったコーヒーは――」を書きたくないという気持ちがある。きっとその直前、自分はなにか、つらい日々を送っているだろうから。

今この稿は、細君が挽いて淹れてくれたコーヒーを飲みながら書いている。本当はキリスト者にとってコーヒーを淹れるのは男の役目なのだが(He brew)――というジョークは置いておいて、そこそこ旨い。
そう、コーヒーは「そこそこ旨い」で十分だ。
posted by 結城恭介 at 08:00| 回想録