2017年02月09日

【日記】ヒューマニストではない!

年輩の方とお話しをしていたとき、その方の友人という、プロテスタントのクリスチャンの話題が出た。
「その人、神社の鳥居もくぐらないし、お葬式のお焼香もしないんですよ。自分はクリスチャンだから、と言って」
その口調には、不満げな色がにじんでいた。
「わたしはカトリックのクリスチャンですが、神社の鳥居もくぐりますし、仏式のお葬式でもお焼香しますよ」
と申し上げたところ、
「そうですよねえ。だってそれが、人間というものじゃないですか!」
あぁー、と思った。この人は自覚はしていないが、実は熱心な、空気を聖典とする日本教徒なのである。

日本人は、この「人間」が大好きだ。口を開けば「人間として許せない」「人間だからしかたない」「人間だもの、みつを」である。
その個人の根本的なベースとなるものが「人間であること」だと思い、それが世界のすべての異なる主義主張を持つ者に通用するものだと無条件に信じ込んでいる。
「人間だもの」を少し堅く言えば「人道主義」。いわゆるヒューマニズムというやつだ。
典型的日本人は、皆、総じてヒューマニストなのだ。

ここで、はっきりと明記しておく。
クリスチャンはヒューマニストではない。キリスト教徒だけでなく、すべてのまともな宗教家は、自分がヒューマニストだと言ったりはしない。
もちろん、重なる部分はある。あるが、それは決してヒューマニズムを大事にしているからではない。自分の信仰とヒューマニズムに「たまたま」重なる部分があっただけだからである。

もし「わたしは○○教徒ですがヒューマニストですよ」という人がいたら、その人は自分の宗教を浅くしか理解していないか、詐欺的な勧誘をしようとしているかのどちらかである。

なぜか、それは前述で匂わせていた通り、ヒューマニズムも、ひとつの宗教だからである。
キリスト教徒というのは、神を自分の中心としよう、という者の集まりである。おそらく、ほかの宗教も、その中心とするものが「ホトケ」であったり「火」であったり「太陽」であったりの違いだけで、似たような構造であるはずだ。

ヒューマニズムとは「人間を中心としよう」という考えであり、ヒューマニストとは、それを自分の中心点に置く個人である。
中心点が神のクリスチャンと、人間であるヒューマニストとでは、その描く円が違うのである。

確かに、イエスの「隣人愛」「愛敵の教え」「善きサマリア人のたとえ」などは、一見、ヒューマニズム溢れたものにも見える。しかしそれは、たまたま中心の違う円に重なり合う部分があったというだけで、クリスチャンは断じて人間を中心としたヒューマニストなどではないのである。

「えっ、キリスト教がヒューマニズムでないなら恐ろしいんじゃないの?」と思われる方もいるかもしれない。「だから神の名のもとに戦争をするのか。怖いねえ」とも。
そう思うのは、おそらくあなたがヒューマニストだからだ。これはほめ言葉ではない。

ヒューマニズムにも大きな欠点がある。ヒューマニズムとは、その場の空気を聖典とし「和」を教祖とする宗教である。
だからいじめ問題に対し「いじめられる方にも責任があるんじゃないの?」などと平気で言う。空気を読まず場の「和」を乱す者を、異端者あるいは異教徒だとみなし、激しく嫌いはたまた攻撃するのである。

日本を太平洋戦争に追いこんだのも、ヒューマニストたちの空気≠ナはなかったか?

その場の空気を聖典とするヒューマニズムには、絶対的な善悪の区別がない。「自分がされて嫌なことは相手にもしない」という相対的な教えしかない。この理屈は「自分はされても嫌じゃないから」という相手には通用しない。

日本では「ヒューマニストである」ということはほめ言葉のようだが、これはとんでもない話だ。
いや、自分がヒューマニストであることを自覚していればまだ良いのである。無自覚なヒューマニストほど一番たちが悪いものはない。

無自覚なヒューマニストは「人間」の名のもとに、個人が「人それぞれ」であることを許さない。冒頭の例で言えば、その人の信念で鳥居をくぐらなかったり、焼香しないことを責めるのである。

わたしが鳥居をくぐっても、仏式の焼香をしても平気なのは、「人間だから」ではない。隣人愛からくるものである。隣席の遺族がそれで慰められるのなら、という気持ちである。また、その程度で自分の神への信仰は揺るがないという自信があるからでもある。
(余談になるが、信仰義認を重要視するプロテスタントの方が「焼香しない」という行為にこだわるのは、とても不思議に感じる。そのあたり、むしろ、カトリックが第二バチカン公会議で柔軟になったのに対し、アンチカトリックであるという点に膠着しているのではあるまいか?)

ちょうど今は、神学生が助祭に、助祭が司祭に叙階される時期でもある。もしこれを読まれているカトリックの方がいらっしゃるのなら、決して叙階者に「人間味溢れる神父になってくださいね」などと言わないように。それは、神の道具になろうとしている相手に対して侮辱の言葉にもなりうる。
おりしも、オーストラリアの神父が児童虐待をしていたというニュースが流れてきたばかり。これほど「人間味溢れる神父」はいないではないか。

誤解を恐れず言ってしまえば、クリスチャンとは、人間である前にクリスチャンたる者なのである。
絶対にヒューマニストではない。
わたしは人間である前にクリスチャンである。そしてそのことを誇りに思う。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記