2017年02月21日

【カットリク!】真昼の悪魔・その2

フジテレビで2017/02/04から「オトナの土ドラ」枠で始まったドラマ「真昼の悪魔」。今回はその二回目、2017/02/11放映分である。
おっと、新聞に紹介記事が載っていた。朝日新聞である。



葉子(田中麗奈)は教会のざんげ室で神父(伊武雅刀)に心情を吐露する。


あのね、何回でも何回でも言っておきますが、現代のカトリック教会に「ざんげ室(ぷ)」なんてありませんから! あるのは「告解室」ね。
朝日新聞校閲部、地味にダメだよ。ちゃんとしてよ!

カットリク!ポイント11――
カットリク!には、カトリックの「ゆるしの秘跡」を模した「懺悔」という謎の儀式がある。


さて、ドラマは田中麗奈演じる葉子が「あたしって良心の呵責を感じないんです」という中二病患者特有の症状を発しながら回りに迷惑をかけるというストーリー。



ロールシャッハテストその他を受けて「普通の人間という診断を受けました」って、そういう行動すらも中二病。悪いことするときは邪眼でも発力するんでしょうか。
そして再び、カトリック教会の告解室に乱入して司祭に人生相談。


(良心になんか負けたりしないキリッ! 邪眼発動!?)

これも何度でも書いておくが、カトリック教会の「告解室」で神父に罪の告白をできるのは、「カトリックの洗礼を受けた信者だけ」ですから!

葉子「じゃあ、もし神様がいるのなら、どうして世の中はこんなに苦しんでいる人ばかりなんですか? どうしてわたしも、こんなに苦しんでいるんですか? 人が苦しむ姿は、わたしに生きている実感を与えてくれるんです。


いやさ、告解室というのは「もし神様がいるのなら」というような人が入る場所じゃないの! 神はいる、と信じているカトリック信者が、聴罪司祭を通して神に罪の告白とあがないの方法を聞く場所なの。

カトリック作家遠藤の原作該当部分をアップしてみよう。


(クリックで拡大できます)

日本人の修道女は女医を応接間に入れて軽く頭をさげた。
「神父さまは間もなく、いらっしゃいますから」


ちゃーんと、「告解室」ではなく「修道会の応接間」になっている。


(クリックで拡大できます)

「信者ですか、あなたは」
「いいえ。クリスチャンではございません」


そう、クリスチャンではないから、教会関係者も告解室に入れたりはしない。応接室で応対するのである。

第一、話している内容が告解室でするようなそれではないのだから噴飯物だ。このシーン、伊武雅刀演じる神父が本物のカトリック司祭だったら「そういうお話はここではなく、外でやりましょう」と言ったはず。

このドラマ、これから毎回、幕間劇のように、この「葉子が神父に中二病的告白をする茶番劇」が挿入されるのだろうか。なんだか暗澹とした気分になってくる。

前にも書いたが、多くのカトリック教会が困っているのである。信者ではないが、心に悩みを抱えた方が、こうやって「ざんげ室(ぷ)」で神父相手に相談をしたいとやってくるケースが、本当に後をたたないのである。
そのたびに「告解室に入れるのは、洗礼を受けた信者だけですよ」「告解室は、そういう話をする場所ではないんですよ」と伝えて、不満気な顔をされるのが心苦しいのである。

これは太字で書いておこう。

「カトリック教会の告解室(「ざんげ室(ぷ)」)に入って、罪の告白をできるのは、カトリックの洗礼を受けた信者だけですから。それと、告解は人生相談ではありませんから! そういうのは2ちゃんねるにでもスレたててやってください」

などとガチカトが頭から湯気を立てている間にストーリーは進み、神父は葉子に聖書を読むように勧める。

女医はなじみの焼肉店で聖書を読むのだが――その訳が出所不明なのが気になる。手に持っている「聖書」は装丁が真っ黒で「聖書」の文字すらない。厚みから旧新約聖書合本ということはわかるが、いまどき、普通に書店で入手できる聖書で、こんな色気のない聖書はそうそうない。講壇用なら三方金でもよさそうだし、いかにもあやしげな小道具である。倉庫の奥にでも転がっていた古い口語訳聖書でも持ってきたのだろうか。あるいは適当な厚い本をそれらしく見せている?
女医はその謎聖書を読んでブツクサ……。



ちなみにわたしは、装丁に「聖書」と印刷されていない、日本聖書協会の旧新約聖書と新約聖書を一冊ずつ持っている。



ふっふふー、実はこれ、発売前のサンプル品をいただいたのである。
この21世紀、普通に書店で手に入る聖書はけっこうおシャレですよ。機会があったら一度、大型書店で覗いてみるのも一興かと。



幼き者の一人を躓かせるものは、首に臼をかけられ、海に投げ込まれるがましなり。


なんと、女医が読み上げたのは文語である。
似たような文脈はマタイ18:6、マルコ9:42、ルカ17:2にある。一応、該当三箇所を挙げておこう。新共同訳である。

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。(マタイによる福音書 18:6) 」

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコによる福音書 9:42) 」

「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。(ルカによる福音書 17:2) 」


「大きな(臼)」という言葉がないことから、女医葉子が読んだ箇所はルカ17:2だと、一応、目安をつけてみる。
では、該当箇所を、現在入手できる日本聖書協会の「舊新約聖書・文語訳」から引用してみよう。

この小さき者の一人を躓かするよりは、寧ろ碾臼の石を頚に懸けられて、海に投げ入れられんかた善きなり。(ルカ傳福音書 17:2)


おおっと、全然違いますねぇ……。
ただ、ページの開き具合から、読んでいる箇所的には、大体ルカ福音書のあたりかな、というところで違和感は感じない。このあたりは製作者を誉めておきたい。偶然かもしれないが。

しかし、このシーン、葉子は右ページの上あたりを読んでいるが、「舊新約聖書・文語訳」の該当ページは「左下」なのである。わたしは「舊新約聖書・文語訳」を四冊、「新約聖書・文語訳」を一冊持っているが、ルカ17:2は(昭和25年の版以外)左ページ下段で統一されている。


(クリックで拡大できます)

これは偶然ではない。日本聖書協会は聖書の版をすべて同じ段組で作成しているのだ。プロテスタント教会などで、牧師先生が「では113ページ左下、ルカ十七章を見てみましょう」と言ったとき、信徒が全員、すぐに該当ページを出せるようにという配慮なのである。

よって、このとき葉子が読んでいる聖書が、現在入手できる日本聖書協会の「舊新約聖書・文語訳」ではないことは確実である。

カトリック教会の神父が渡したと考えると、これはバルバロ訳? いやしかし、バルバロ訳は口語なので違う。となると文語のラゲ訳か。
ラゲ訳はネットに載せてくださっている方がいらっしゃるので、調べることができる。該当箇所はこうだ。

石磨を頸に懸けられて海に投入れらるるは、此小き者の一人を躓かするよりは、寧彼に取りて優れり。(路加の耶蘇基督聖福音書17:2)


ぜーんぜん違う。
彼女が読んだ聖書、いったいなんの訳なのかわからないのである。

実はこの箇所、遠藤原作だとこうなっている。
「これら幼き者の一人を躓かせる者は、大いなる臼にかけられ、海に投げ込まれるがましなり」

よく読むとこれは、上記福音書の三箇所を組み合わせているのだ。「大きな臼」はマタイ、マルコにあるが、「ましである」はマタイ、ルカ。しかしマタイだとすると「深い海」となっているのでマタイそのものではない。

種明かしをすると、遠藤原作では、これは聖書の正確な引用ではない。女医が以前、ミサで聞いた聖書の言葉として、うろ覚えのような形で想起されているのである。

念のためにつけ加えておくと、上記からわかるとおり、本物の聖書中の訳は統一して「小さな者」「小さい者」「小さき者」のような表現を用いており、「幼き者」のように必ずしも子どもを示唆していない。唯一マタイだけ前段に、この「小さな者」が子どもであるという文脈がある。
要するに遠藤原作のこの一節、本物の聖書から引くと、該当節のかなり無茶なまぜこぜになってしまうのだ。

それをこのドラマでは、無理矢理、聖書を読むシーンとして再現してしまったものだから、妙なカットリク!になってしまったのである。

結論を言うと、葉子女医が読み上げた一節は、本物の聖書にはない。

カットリク!ポイント42――
カットリク!では、聖書の都合のいいところだけを読んじゃう。捏造もしちゃう。


ドラマは原作と違い、女医の父親なども登場して、なにか家庭問題で確執でもあるかのような雰囲気だ。

最後にまた、「ざんげ室(ぷ)」に乱入して神父様を挑発する女医。もういい加減、出入り禁止にしろよ、といいたいところだが、誰でもウェルカムな教会だからね、仕方ないね。でも「ざんげ室(ぷ)」には出禁にしたほうがいいと思うよ。マジで

予告だと来週は「ざんげ室(ぷ)」のシーンはない感じ? カットリク!がないならばこのシリーズもこれでおしまいである。
原作だと、実はこの神父が準主人公の難波を救うために最後に活躍するのだが、ドラマ的には(カットリク!な点には目をつぶって)、けっこう面白い翻案だと思うので、来週も一応、録画予約を入れておこう。
posted by 結城恭介 at 08:00| 新興宗教カットリク!の研究