2017年05月30日

【書評】きみはペット

小川彌生「きみはペット」全14巻(完結)

その昔、「年上の女房は金のわらじを履いてでも探せ」ということわざがあった。過去形で書いたのは、このことわざも今ではとんと聞かなくなったから。
聞かなくなったということは、もう、年上女房もフツー、珍しくない存在になったということだろう。

わたしと細君は、昭和の時代に知りあったので、当然というか、その時代のフツーというか、わたしの方が年上であった。
というか、わたし自身が年上の女性を配偶者にするという目で見られなかったし、細君も、年下の男性と結婚するということは考えもしなかったろう(第一、わたしと細君が婚約したのは、細君がハイティーンのときであった)。

「年上の女房は金の――」ということわざがあったということは、逆に言えば昭和の時代は、これは年上女房をめとった男へのエールというか、まあ、こう言ってはなんだが、慰めの言葉だったのである。

いつ頃から年上女房が珍しくなくなったのかなぁ、と、細君と雑談をしていたら、小川彌生先生の「きみはペット」が連載されて評判となり、テレビドラマ化されて「きみペ」ブームとしてヒットした頃からではないか、という。
調べてみると、同作は2000年に連載が開始され、2003年にテレビドラマ化されている。わたしは同作をマンガもドラマも見ていないので評することができない。

というわけで、上記の段落を書いてから、五月の連休第一日目に、「きみはペット」全巻をオトナ買いして拝読してみた。

ヒロインのスミレは新聞社に勤めるキャリア女性。表向きは隙のないクールビューティな雰囲気を漂わせているが、内面には弱いところがある。そんな彼女が、ある日、マンションの前で、ダンボールに入った美少年を拾った。ひょんな流れから、彼を「飼う」ことになったスミレは、彼に、昔飼っていた犬の名前から「モモ」と名付け、飼い主とペットという不思議な共同生活が始まる。




スミレキャプション「浮気したのは向こうなのに、社会的に優位に立ってるだけで、わたしがワルモノになるわけね」
スミレ「あー頭痛い……」
スミレ「?」
スミレ「なに、これ。粗大ゴミ? ゴミ置き場はここじゃないっつーの」
段ボールをガッと蹴るスミレ。中を見ると、青年が眠っている。
驚くスミレ。


という設定。もちろん、レディスコミックである。男性向けではない。
こういう話なので、読み始めは、男性読者として、ちょっと居心地が悪い感じがしないではない。というのも、このお話のちょうど逆「家出娘を拾ってどうこうする」ストーリーというのは、わりと男性向けアダルトマンガでは定番だからだ。


(悠木しん「 えっちライフ!」より引用)


(美矢火「純愛リリシズム」より引用)


(ペテン師「 おんなのこのまんなか」より引用)


(ZUKI樹「家出娘拾いました」より引用)

これこの通り。他にも探せば、多数見つかるはず。こういうお話が多い、ということは、「家出娘を囲ってどうこう」という内なる欲望が、多くの男性性にはあるのだろう。その逆を見事に逆転しパロディ化して突いてみせた「きみはペット」の主眼は実に面白いと感じた。

とはいえ、ストーリーが進むにつれて、男性性としてのその居心地の悪さといったものは消えていく。
ペットとなった青年「モモ」は、コンプレックスを持ちながらも、実はとても才能のあるダンサーであったこと、機能不全の家庭出身なのかと見えて、実は名家の子どもであることがわかったりしてしまうのである。
スミレのあこがれの人であった同僚男性とスミレの恋も進展し、奇妙な三角関係の中でストーリーは進む。端的には、面白い。が、巻数が進むと「家出娘を囲いたい」という男性性の醜悪さを笑うパロディではなく、普通のラブ・ストーリーとなっていってしまう。いや、普通の良質のラブ・ストーリーで良いのだけれども。

ここまで書けばわかるとおり、実はこのお話、発端の大胆さから想像されるような、フェミニズム的なストーリーではない。むしろそれとは正反対、「女は女らしく。男は男らしく」という大枠を最大限に使い、そこから一歩踏み出すような冒険はしていないのである。

「家出娘を囲いたい」という、あまり品性よろしくない男性性へのカウンターパンチとしてのストーリーテリングがメインテーマだったのならば、スミレはモモを捨て、また、恋人の同僚との結婚もやめ、ひとりの人間として過ごしていく決意をする、というエンディングが思いつくが、それをやってしまったら、おそらく読者からはブーイングをくらい、「きみペ」ブームは起きなかっただろう。

時代はけっこう、2000年を越えても保守的なものである。

スミレは紆余曲折の末、同僚男性と別れ、年下の青年モモ≠ニ結ばれるのだが、作中、その課程の中で、相手が年下男性であること≠気にするような迷いは描かれていなかったように思う。ラストの結婚時、確かモモ≠ヘ22歳、スミレは29歳だから、けっこうな逆・歳の差カップル≠ナはあるのだが。
ドラマの方では、そういった逡巡も描かれていたのであろうか。

振り返れば「年上の女房は金のわらじを履いてでも探せ」というのも、男性から見た一方的な言い方なのである。女性の心を慰めるものではない。「きみペ」のブームで「年下の旦那を金のわらじを履いてでも探したーい」という女性たちが出てきたのなら、それはそれで良いことだったのだと思う。

わたしは昭和の男であるので、やはり男が女より年上の方がなにかとうまくいくと思ってしまうのであるが、これはもちろん、偏見である(念のため書いておくが、わたしはフェミニストでもヒューマニストでもないので、そういう指弾は痛くもかゆくもない)。

ふと思い出した聖句をひとつ。思えば、聖書は旧約の時代から、ときにここまで思い切ったフェミニズムを記していたのである。

「いつまでさまようのか。背き去った娘よ。主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう。(エレミヤ書 31:22)」


まあ、解釈はいろいろではある、が。

ところで、ここしばらくネットでよく見かける婚活関係のグラフとして「ウッダーソンの法則」のグラフがある。原典はクリスチャン・ラダー著「ハーバード数学科のデータサイエンティストが明かす ビッグデータの残酷な現実――ネットの密かな行動から、私たちの何がわかってしまったのか?」によるものらしい。
著作権関係があるので、ここにそのグラフは貼らないが「ウッダーソンの法則」で検索すればおそらく「ああ、このグラフのことね」とみなさん思われるのではないだろうか。

それによると、女性はほぼすべての年齢で、だいたい同世代の男性を魅力的と思うが、男性はほぼすべての年齢で20代前半の女性を魅力的だと思う、というのである。
なんと「きみペ」現象はビッグデータには反映されていないのであった。

このグラフの背景がわからないので確定的な評価はできないのだが(ネットではこのデータのみ取り出していろいろ言われすぎていると感じる)、ひとりの男性として、わたしはこのデータをやにわには信じがたい。これは「独身者に取ったアンケート結果」ではないだろうか。
少なくとも、人生の半分を過ぎた一人の男性として、わたしは20代前半の女性よりも、いろいろと人生経験を積み成熟した同世代の女性に魅力を感じる。20代の女性などは、「まだまだ子ども」「世間知らずのお嬢さん」である。

同時に、30、40、50を過ぎて「20代前半の女性に魅力を感じる」という男性も「まだまだ子ども」「世間知らずのお坊ちゃん」であると、返す刀で斬っておこう。

「婚活」関係の話題については、いろいろと思うところもあるのだが、なかなかまとまった記事にならないので、なにか形になりかけたら、そのうちに。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評