2017年07月27日

【書評】ナビガトリア

 アサダニッキ「ナビガトリア」1〜3巻(完結)

 今、一番お勧めのマンガ家、アサダニッキ先生の「ナビガトリア」。



 本当は、一番お気に入りの「青春しょんぼりクラブ」をご紹介したいところなのだが、最終15巻は八月発刊とのことだし、それまでおあずけにしよう。
 完結している「星上くんはどうかしている」も別記事でそのうち。それだけ今、アサダニッキ先生は結城のお気に入りということである。
「ナビガトリア」――その意味は「北極星」。三巻で綺麗にまとまっているが、仕舞い方に少し戸惑いが残るキャラクターもいたりして、番外編があってもいいかな、という感もあったり。
 それにしても「ナビガトリア」。いい言葉である。このストーリーは、都会暮らしで「人生の北極星」を見失ったヒロインが、それを島根で見つけ直すというお話。



 あらすじ――
 東京での生活に疲れたヒロインこより≠ヘ、ネットで知りあった友人に誘われて、彼女のいる島根へと休暇旅行へ出る。ところが着いてみると、なんと彼女≠フ正体は中学生の男の子。
 少年に謝らせるため出迎えた彼の家族に流されるまま、こよりは島根の野々村一家にお邪魔することに。さらに流されるまま田舎の大歓迎の宴の中、少年の兄、昭(あき)≠フ彼女ということにされ、さらにさらにアルコールに流されて、酔った勢いで昭にプロポーズまで。
 しかし昭に一蹴され、正気に戻ったこよりは東京へ戻る。
 が、その東京では選択の余地がないリストラが彼女を待ち構えており、こよりは再び、島根の野々村一家のもとへと居候することになる――。



(軽くスルーされてしまったプロボーズ)

 ところで、わたしの細君は、田舎生まれの田舎育ちである。そして、田舎を嫌っている。
 田舎といっても、所詮は関東の地方都市の田舎、市街化調整区域≠フそれであるから、民放が二局しかないとか、東京キー局が同じ時間に見られないとか、そこまでの田舎ではない。
 つまり、本当のド田舎≠ノお住まいの方からすれば「十分、都会じゃん」レベルの田舎かもしれない。
 それでも細君が嫌っているのは、田舎の物質的不便さではなく、そこにあるゲマインシャフトな人間関係の煩わしさが嫌い、というもの。
 確かにそういう意味では田舎は凄いと思う。聞いた話で、今はさすがにできないだろうが、信用金庫で「ヨメの口座から姑が、通帳も持たず顔パスで行員に命じて勝手にお金を出し入れしていた」などという話を聞いたこともある。

「はてな匿名ダイアリー」に「農家の常識・世界の非常識」というものが紹介されているのだが、もしもの404のために、いくつか引用してみると――

・多胎は下品扱い(畜生腹)
・嫁の稼ぎは農協振込み→姑が搾取(顔パスで勝手に下ろす・姑の口座に振り替え)
・長男教で跡継ぎにこだわる
・嫁の物は姑の物、姑の物は姑の物
・汚宅が多い
・従順でない女性は「生意気」
・全ての女性はコンパニオン
・結婚できないと自分の事は棚上げで「女がわがままになったから」
・ジジイに差し掛かった奴が20代の妻を臆面も無く希望
・贈答品は質より量(挙句しまいこんで劣化してから使う)
・隣近所と虚しい見栄の張り合いをする。
・婚約の際、「農作業しなくて良い」と言うのはほぼ100%嘘(しかもその嘘をつくのは常識なので騙している自覚もない)
・結婚したら「農家なんだから農作業は当たり前」
・息子には嫁が来て酷使するのが当たり前だが、娘を農家に嫁がせることは絶対しない
・嫁は若ければ若いほどいいので、16歳大歓迎、15歳以下の青田刈り上等
・いくつになっても男の初婚の価値は消えない(むしろ円熟味が増して価値があがる)と妄信している


 いやはや、これは確かに耐えられない……。大げさに書いているところもあるのだろうが、火のないところに煙はたたないともいう。ある田舎の犯罪者は、「つけびして、煙喜ぶ、田舎者」という名句を残しているくらいである。

 地方都市とはいえ、ゲゼルシャフト的な街で生まれ育ったわたしには、こういった田舎の嫌なところは伝聞でしかわからない。田舎を実際に知っている細君には、その怨嗟がリアルなものとしてあるのだろう(と同時に、モノを溜め込むところなど、田舎の風習が遺伝子レベルで残っているようにも都会育ちのわたしからは見える)。

 土曜の夕方に「人生の楽園」というテレビ番組をやっていて、これの内容がたいてい「第二の人生を田舎で店を出し楽しくやっていく」等の内容なのだが、細君はこれを見て舌打ちし「どうせ数年後は閉まってるよ」「むーりむり」「田舎をなめてるね」等の罵詈雑言を吐くのであった(細君のそういうところがまた可愛らしいので、わたしには珍しく、毎週、このテレビ番組をつけてしまうのである)。

 話がずいぶん遠回りしたが、本作「ナビガトリア」は、こういう細君からしたら「ありえない」話だと思う。
 作中には、上記のような「田舎の嫌なところ」はそれほど描かれていない中、ヒロインこよりは、島根のゲマインシャフトな雰囲気と、野々村一家に馴染んでいき、島根で職を見つけて、やがて昭と結ばれるのである。彼女は島根の地で、昭という「北極星」を見つけたのだ。そして二人は出雲大社で式を挙げる。

 東京の出版社とネットでやりとりしながら漫画家生活を送りつつ、認知症の老母の面倒を見ている昭の友人、信太郎の最後がせつない。こよりが懐妊し、野々村家がバカ騒ぎで盛り上がっている頃、老母に言われる。



母「あんたも、もう、あたしのことより、自分の幸せを考えなさい」
信太郎「…なんだよ、それ。寒いだろう。窓しめるぞ」


 信太郎の胸のうちはわからないが、本当は島根の田舎から東京へ行って、さらにマンガ家として活躍したい、という心もあるのではないだろうか。それでも、老母の面倒を見る者が自分しかいないという現実はいかんともしがたい。その原因の老母とのこの会話が、ハッピーエンドの中にビターな感触を残す。
 アサダ先生、番外編かなにかで、信太郎に島根で恋の予感とか、ダメですか、ね?

 野々村家でもそうなのだが、ゲマインシャフト社会である島根であっても、介護問題はなんら解決できていない。
 いやしかし、簡単に解決できないのが当然なのだ。それが人生なのだから。
 こよりの人生の旅はまだ始まったばかりなのである。彼女は自分の北極星を見つけた。これからの田舎での生活という荒波の中で、一番頼りになるナビガトリアを見失うことがなければ、きっと、幸せに航海を終えられるに違いない。

追記:この記事を読んだ田舎嫌いの細君が、どんな反応をするのかが楽しみなのである(笑)。ぜひとも「ナビガトリア」を読んで、感想をお聞かせくださいな>細君。
posted by 結城恭介 at 08:00| 書評・映画評