2017年07月28日

【日記】映画「LIFE」を観て考える死刑

 衛星軌道上のISS内で、火星から持ち帰ってきた土の中に生物を発見、最初は単細胞生物でかわいらしかったそのその生物が――という映画「LIFE」を観たのだが、観劇後、つらつらと頭に浮かんでいたのは、なぜか続けて考えている「死刑制度」のことであった。

 ネタバレ避けに、ちょっとヨタ話をするので、その間に映画「LIFE」を未見の方でネタバレ嫌いの方は、例の如く、ほかのページへ移動していただきたく。

 やっぱりわたしは、宇宙が出てくる映画が好きなのだなぁ、と、「LIFE」を観ていて思ってしまった。それも「スターウォーズ」のようなスペースオペラではなく、「2001年宇宙の旅」のような、ある程度の科学考証が行われている映画、である。

 以前にも「星の数ほど」という慣用句が、実はそれほど大きな数ではない、ということを書いた。なぜといって、地球上から肉眼で見られる六等星までの数は、現在、8,588個しかないからである。しかも北半球から見るときは、その半分のおよそ4,300個しか見えない。この数字を聞いて「意外と少ないな」と感じる方は多いのではないだろうか。
 ISSから肉眼で観える星の数も、そう変わらないのだと聞く。
 この「とても大きな数を表す慣用句」である「星の数ほど」が、実は一万にも満たない、という事実は、皆様、ご記銘いただきたく。

 さて、映画「LIFE」だが、まあ、言ってしまえば、ISS内で繰り広げられる「エイリアン」である。SFというよりホラーとして観れば面白い。
「カルビン」と名づけられたこの火星生まれの単細胞生物は、栄養を得て、どんどんと大きくなっていく。そこでもっと慎重になればいいものを、ISSのクルーが、「13日の金曜日」に出てくる青年たちのようにあまりお利口ではないもので、次々と「カルビン」に殺され喰われていく。そんな映画である。
 ネタバレ――ラスト、カルビンを乗せた脱出ポッドは地球に着水してしまい、そこへ救助へ向かった漁民が脱出ポッドの扉を開けるかどうか、そんなシーンでカメラは上空からの撮影になり、次々と画面中心の脱出ポッドに救助へ向かっていく船が見えて終わりになる。
 きっと「カルビン」は漁民や海の生物を喰って、さらに大きくなり、地球人類が危なくなるのではないか……そんなバッドエンドで幕を下ろす。

 現実的には、宇宙空間ならともかく地球重力下だと、カルビンは自重でその体積に制限ができるので、それほど大きくはなれず俊敏に動くことも不可能で、シュワルツェネッガーによって退治されて終わり、だとは思う。

 さて、こんな映画でつらつらと死刑について考えたのは、「死刑ができるのは、人間が星の数ほどいるから」であるという事実があるからである。

 聖書的には、人類最初の殺人は兄弟同士で行われており、兄カインが嫉妬のあまり弟アベルを殺したことになっている(創世記 4:8)。しかしこのとき、神は殺人犯である兄カインを死刑にはしていない。追放つまり終身刑だ。

 聖書によると、最初の死刑は――精査するのが面倒ゆえ記憶に頼るので違うかもしれないが――レビ記 24:10-23にある「神の御名を冒涜する者」である。

モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒涜した男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。(レビ記 24:23)


 この時点ではイスラエル民族はすでに「星の数ほど」いた、ということに留意されたい。モーセが登場するはるか前、創世記の段階で、神はイスラエル民族の父アブラハムにこう約束しているのである。

わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。(創世記 26:4)


 十戒で殺人がご法度になっていることは、ここ日本でも周知のことだと思うが、それ以外のイスラエル民族の律法では「死刑」はアリなのだということは、「【日記】死刑についてつらつらと」で書いた。
 つまり、もう、ひとりふたり死刑にしたところで、イスラエル民族は絶えないよ、という人数になっていたので、カインとアベルの時代とは違い、神も「死刑アリ」と判断した、というわけである。

 新約の時代になり、イエスが「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書 28:19-20)」という大宣教命令を出したときの世界の人口がどのくらいだったか、ご存知だろうか。

 諸説はあるが、たった一億〜二億人だったのである。
 現代の日本の人口は一億二千万人。たとえて言えば、当時の地球は、今の日本人だけが世界中に散らばって住んでいるようなものだ。

 今現在、地球人口は70億人に達している。しかし、カトリック的、つまりバチカンが死刑はもちろん産児制限にも反対するのは、この「星の数ほどいる」と思われている人間が、実は「そう多くはない数字」と考えているのではないか、と思ったりするわけだ。

 いつ「LIFE」のような化け物に襲われて、地球人類が絶滅するとも限らない。まあ地球外生物が攻めてくるのはマンガ的にしても、小惑星の衝突は現実の問題としていつ起こりうるかはわからない。ほかにも未知の病原体によるパンデミックや、もちろん全面核戦争という人為的な「人類絶滅」の危機は常に隣にある、と。

「最小存続可能個体数」という言葉があって、これは天災や環境変動などによって種が絶滅することなく存続できる最小の個体数を言うのだが、人間の場合、諸説はあるが「オス15個体、メス50個体」らしい。この数字がどれほどの信憑性があるかどうかはわからない。実際にはその数倍の個体がなければ人類は滅ぶような気もする。
 ともあれ、それだけの少ない数の中で、死刑や産児制限のようなムダが許されるわけもない。

 産児制限や死刑に反対するバチカンの視野は、近視眼的に見えて、実は過去の長い歴史と、これからの未来を見据えた姿勢なのだ、と思ったりもするわけだ。

 あいかわらず記事内容にまとまりがないのは、わたしの死刑反対に対する姿勢が左翼的思想をベースにした、自己を省みない一点張のものではないから。

「特定の信仰がない」と嘯く者は「信仰を持つ者はなにも揺らぎがない」と思い込んでいる。「トップが言えば盲目的に従うものだ」とも。そんなことはもちろんない。特定の信仰がないから、そんな非人間的な考えを持つのである。
 わたしはカトリックであるし、その立場では死刑に反対だし、人工妊娠中絶は良いことではない、と思う。しかし大事な人が惨たらしく殺されたとき、その殺人者の死刑に反対できるかというとわからないし、友人が人工妊娠中絶をしたからと聞いて、責めるような真似はできない。

 かつてわたしの指導司祭は、信仰とは結果ではなくプロセスなのだ、とおっしゃった。今、そのプロセスをわたしは歩いている。これが信仰なのだ、ということが、少しわかってきたような気もしている。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記