2017年10月14日

【日記】バッハを聞きながら

 今この記事は、バッハのBWV951a、「アルビノーニの主題によるフーガ ロ短調」を聞きながら書いている。特に脈絡はない。

 今はいい時代なので、クラシックならその作曲家の「全曲集」が廉価で買える。しかもmp3化すれば、スマホの64G Micro SDカードに数集収まってしまう。
 わたしのスマホに入れてある全曲集は、Bach Complete WorksとChopin Complete Edition、それにMozart Complete Worksである。
 当の作曲家たちが、自分たちが生涯かけて作曲した音楽が、こうやって指の先に乗るメモリに全部収まってしまうと知ったら、どんな顔をするだろうか。

 バッハは高校の頃、「ブランデンブルク協奏曲第3番」から好きになり、ぽつぽつレコード、そしてCDを集めるようになったが、まさか、こうやって簡単に全曲集を入手できる日がくるようになるとは思わなかった。
 ちなみにCD160枚である。最初は好きなものばかり選んで聞いていたが、どうせなら最初から通して聞こうと今年春からチャレンジを始め、今、31枚目。それで流れていたのがBWV951aだったというだけ。先は長い……。

 わたしは寝付きが悪いので、ヒーリングミュージックなどを流しながら眠りに落ちるのを待つのが習慣なのだが、ここ数年、BWV988、「ゴルトベルク変奏曲」を睡眠導入曲として試してみた。同曲はグレン・グールドのピアノ演奏で妙な鼻息を聞かされるより、鈴木雅明の演奏が素晴らしく軽やかで良い。
 ご存知の方には周知のことだが、ゴルトベルク変奏曲はもともと、不眠症に悩む伯爵のために作曲され、バッハの弟子のゴルトベルクが夜な夜な演奏したという逸話からきているので、不眠症には本来もってこいなはずである(もっとものこの逸話は後に作られた伝説のようだ)。

 全曲が終わるまでに眠れる確率は三分の二から二分の一というところであろうか。あまりいい数字ではない。

 そこで、このところ聞く曲をBWV232、「ミサ曲ロ短調」に変えてみた。
 同曲はかなり好きなので、指揮者もカール・リヒター、グスタフ・レオンハルト、ジョシュア・リフキン、ジョン・バット、フィリッペ・ヘレヴェーゲ、ペーター・シュライアー、ルネ・ヤーコプス、ロバート・キング、ロリン・マゼール、鈴木雅明と、みかけるたびに入手してしまうのだが、「この一曲!」と決めるのならロリン・マゼール指揮のものにトドメを刺す。なにしろ最初に聞いたのがロリン・マゼールで、出だしの「Kyrie eleison」に頭をガツーンとやられたのであった。

 なお、バッハはルター派のプロテスタントである。その彼がカトリックのラテン語ミサ曲をつくったのはカトリックの貴族へ就活の一環だったという話もある。が、ここは信仰の高みにたどりついたバッハが、カトプロを越えた最高傑作として神に捧げたもの、という気持ちを取りたい。

 講談社現代新書、磯山雅先生著の「J・S・バッハ」を読むと、音楽の巨人バッハとしての一面もそうだが、家庭人バッハ、宮廷作曲家として就活に励むバッハなどの面も知ることができ面白い。
 息子たちが「オヤジの音楽はもう古いんだよ(意)」と言ったという逸話も傑作だ。

 現代に住む我々は、豪華な構成の「ミサ曲ロ短調」を聞くことができるが、当時の楽器は今でいう「古楽器」であり、コーラス構成も貧弱だった。上記指揮者の演奏のいくつかは当時のそれを再現したものであるが、やはり、頭にkyrie eleisonをガツンと奏で、ラストにDona nobis pacemを歌い上げるモダンな演奏が好きだ。

 現代の日本のカトリック教会にも「歌ミサ」というものがあり、これは事前に会衆へ「今日は歌ミサでやるよ」とアナウンスされることは(わたしの知っている限り)ない。このあたりは司祭とオルガニストの間では決められているのだろうが、会衆は阿吽の呼吸で歌で返すのが通常である。
 この歌ミサは歌ミサで好きだが、もし普通の人がカトリック教会に来て体験したとしても、クラシックのミサ曲を聴くような感動はないだろうと思われる。残念なことだが。

「ミサ曲ロ短調」で眠りにつける確率は四分の三というところ。いい数字である。

 以前、中学時代の畏友H君に、「朝はタイマーでCD演奏されるブランデンブルク協奏曲で起きるんだよ」と言ったら「いいね。貴族だね」と即妙されたことがある。
 そう、考えてみれば、われわれは当時の裕福な貴族さえそうそうできなかった、オケを聴きながら眠りにつき、バロックで目を覚ます、といった最高の贅沢ができるのである。

 それでは、眠りましょう。主の平和のうちに。
 神に感謝。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記