2017年10月31日

【日記】愛用ロザリオ

 十月はカトリックの暦で「ロザリオの月」である。いつにもまして、ロザリオで祈ることが推奨される。
 その最終日、ちまたではハロウィンが盛り上がっているだろう三十一日に、愛用ロザリオのことなどをひとくさり。

 ちなみに今年のメディアの騒ぎようを見ていると、「ハロウィン」とキリスト教を結びつけるという間違いはほぼなくなったようで、実に喜ばしいことである。

 以前にも書いたが、カトリックの信仰生活をしていると、ロザリオは増えていく。二桁の数を持っている信徒も珍しくないだろう。代父代母や親しい信徒が霊名記念日の贈り物としてくださったり、なにかのイベントでいただいたり、自分でもカトリックのショップで「あ、これいいな」というのを衝動買いしたり、帰天した方の遺品整理で「是非とももらってやってください」とお預かりしたりするからである。

 ロザリオ自体は単なるモノで、そこになにかオカルティックな力が宿るようなことは金輪際ないわけだが、一度、司祭に祝福をしていただくと、以降それは「聖品」となり、売り買いはできない。

 捨てるとすれば「大地に埋める」のが正しい方法だが「これは大司教様に祝福をいただいたもの」「こちらはあの神父様から」「これはあのミサの記念品」などといろいろと思い出があるそれらをもちろん捨てるわけにもいかず、家庭祭壇――仏教徒における仏壇のようなものが日本のカトリックにはあるのです――には、自然、ロザリオがいくつも飾られていくわけだ。

 そんな中でも、わたしが常日頃から持ち歩き、祈り、ミサのときにも身につけている一品がこれ。



 このロザリオは買ったものではない。細君の手作りである。
 一番インパクトがあるのは十字架の部分だろう。これは「聖ベネディクトの十字架」といい、「聖ベネディクトのメダイ」を十字架に埋め込んだもので、厨二病的に言えば「カトリック最強の十字架」である。
 カトリックには「免償」というロジックがあり、この「聖ベネディクトのメダイ」とともに大祝日のミサに与っていると、罪の償いがその分、チャラにされるというものがあるのである。
 なお、この説明はノンクリのためにざっくばらんに書いていることをガチカトの方はご承知いただきお許しくださいまし。

 普通、ロザリオの十字架部分に「聖ベネディクトの十字架」は使わない。もっとシンプルな十字架だ。ロザリオは聖母マリアの取り次ぎを祈って珠を繰るものなので、十字架部分のパワーが強すぎるとバランスが悪いというのもあるのだろう。
 それでもこの十字架を使って細君にロザリオを作ってもらったのは、愛息が闘病中、最強と誉れ高い聖人である聖ベネディクトに、少しでも主イエスへ取りなしをしてもらえたら、という気持ちがあったから。
 病に苦しむ愛息の今際の際まで、このロザリオはわたしの手の中にあった。愛息の横で、いったい何環、このロザリオを繰っただろうか。

 主は与え、主は奪う。(ヨブ1:21)

 わたしの祈りはかなえられたのだ。少し形は違ったけれど。愛息は神さまのもとで、もう苦しんでいない。そしてわたしの手元には、このロザリオが残された。

 翌年の復活徹夜祭、復活の大ローソクから分けられたキャンドルの炎。そこから垂れるロウを、この聖ベネディクトの十字架に落とした。わたしもいつか神さまのもとへと行く。そして復活し、愛息とまた会えるという祈りを失わないように、と。

 最初はピカピカだった聖ベネディクトの十字架も、今はわたしの掌の中で擦れ、メッキが剥げて、ところどころ、緑青が浮いている。
 それでも、これからも、わたしはこのロザリオで祈り続けるだろう。

 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
 主はあなたとともにおられます。
 あなたは女のうちで祝福され、
 ご胎内の御子イエスも祝福されています。
 神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、
 今も、死を迎えるときも、お祈りください。アーメン。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記