2018年04月07日

【日記】土俵は命のやりとりをする場ではなかったのか?

 4月4日に開催された京都舞鶴での大相撲春巡業で、土俵上でのあいさつ中に倒れた市長を救おうと、土俵に数名の女性が上り、相撲協会の行事が降りるようアナウンスをした、というニュースを聞いた。

 それに対し、相撲協会の八角理事長が「人命がかかっている場では女性に降りるよう指示したアナウンスは間違っていた(意)」と謝罪したという。

 わたしはこれに、違和感を覚えている。

 最初に言っておくが、わたしは相撲に関してはまったくのシロウトである。しかし、シロウトだからこそわかること、クロウトが見逃していることを直観的に察することができる、ということもある。

 その上で言う。「土俵というのは、もともと、命がけで上る場所ではなかったのか?」

 相撲というのは「格闘技」である。もし、普通に道で誰かが誰かに張り手でもしようものなら、それは傷害事件となる犯罪である。それが許される場が「土俵」なのである。
 詳しいことは知らないが、貴乃花親方がいろいろと手を尽くしていたのは、結局、この「土俵上なら許される暴行行為を土俵以外でも当然のように行っている日本の相撲の現実」を変えよう、としたのではなかったのか。

「土俵」だからこそ、命のやりとりが許されるのである。もしそこで、対戦相手が致命傷を負い死んだとしても、その責任は問われない。そういう特殊な場所なのだ。

 わたしは今まで、「土俵に女性はあげない」という、日本相撲協会の考えを、基本的に支持していた。これは「土俵が神聖」だからではない。むしろ逆に、土俵は血なまぐさく、対戦相手を殺しても責任を問われない。粗野で危険、荒々しくむごたらしい、本来、女性や子どもに見せることすらはばかられるような場所であったからだと考えていた。

 男の中の男、命のやりとり上等、ここで死んでも本望だ。そういう益荒男だからこそ上って、命をかけて戦える場所、それが土俵なのである。倒れた市長だって命がけだったではないか。助けようと土俵に上った女性にしても命がけだったのだ。

 八角理事長の「人命がかかっている場では女性に降りるよう指示したアナウンスは間違っていた(意)」という発言は、とりもなおさず、現代の日本相撲が、そして土俵が、「命のやりとりをする場ではない」と思っていることを逆に露呈してしまったという、なんとも情けない言葉なのである。

「女性は穢れているから土俵に乗ってはいけない」という意見があるが、逆なのだ。土俵は、人が人を殺めるという穢れ≠ェ許される場所なのである。むしろ、人を生み出すことができる――この表現もPC的にはアレだが――女性のほうが神聖≠セからこそ、土俵に乗せてはいけないのである。

 これからも、女性が土俵に上っていいかどうか、議論はされるだろうが、本質的なところがもう見落とされ、変質している。
 土俵は野蛮で血がしたたり、命をやりとりする危険な場所である。女性に「そんなところ、上りたくない」と思わせてこそ、本当の相撲の土俵なのではあるまいか?

 前述したとおり、わたしは相撲にシロウトである。
 しかし、入門から、トップである横綱になれるのは、ごくわずかな者しかいない、ということは承知している。
 ドロップアウトしていく多くの者が、技術的なことを体得する以前の問題として、対戦中のけがや、体の故障による引退という、どうしようもないことで、土俵を去っていくことも。

 土俵以外での暴力事件や、逆に土俵上でのイカサマが横行すること自体、「土俵は命のやりとりをする場所」であるという意識が、希薄どころか、失われている証拠である。
 それは力士たちだけでなく、われわれ日本人すべてが忘れつつあることでもあるのだと思う。

 追記:宝塚市の中川智子市長が、「女性という理由で土俵に上がれず悔しい」などと述べたとの続報。上がればよかったんじゃないの? それこそ、死ぬ気でさ。誰も止められないでしょ、周りの人間を振り切って、死ぬ気で土俵に上がろうという人間を、それが男だろうが女だろうが、止められる人間はいないでしょ?
 そんな気概も覚悟なしに「殺し合いの場所」である土俵に上がりたいなんて、力士も、一般の人間も、寝ぼけたこと言ってんじゃないんだよ! という話なのよ、これ。
 わたしは少なくとも、チャンスはあっても土俵には上がれない。丁重に遠慮する。そこで殺し殺される気概も覚悟もない自分を知っているから。
posted by 結城恭介 at 08:00| 日記